私は素朴な死刑存置論者だが、少し前に『世界』9月号が「死刑制度を問う」という特集を組んでいるのを店頭で見て、たまには死刑廃止論者の言い分にも耳を傾けてみようと思い、購入した。
いくつかの論文や対談、インタビューが掲載されていたが、しかし、心に響くものはなかった。存置論を修正する必要があるとは感じなかった。
印象に残った箇所について、心覚えとして書き留めておく。
加賀乙彦と安田好弘(麻原彰晃や光市事件被告の弁護人を務めた)との対談で、加賀は次のように述べている。
しかし、死刑囚の実態を知らなければ、死刑の存否について判断を下すことはできないのか?
私は、死刑のみならず、懲役刑の実態も詳しくは知らない。
花輪和一の『刑務所の中』というマンガがヒットし、映画化もされるぐらいだから、きっと世の多くの人々もそうなのだろう。
だからといって、私が懲役刑を存続させるべきだと考えることは許されないのだろうか。
私が何らかの犯罪の被害に遭って、その容疑者が捕まれば、おそらく、警察の事情聴取の際に、処罰についての意見を聞かれることだろう。
「こんなケシカラン奴は、一日でも長く刑務所に入れておいてほしいと思います」
と言うことは、懲役刑の実態を知らなければ、許されないのだろうか。
そんなことはないだろう。どうして被害者や第三者が、いちいち刑の実態を知った上でないと意見を述べてはならないのか。
死刑についても、同じことではないだろうか。
また、仮に、死刑囚の実態に人権上の問題があるとすれば、それは改善すれば済むことではないのか。
そのことと、死刑の存否とは本来別の話だろう。
わが国はそれら諸国と比べて、思想や価値観が野蛮なのだろうか。
私はそれら諸国の社会の実態を知らない。だから、はっきりしたことは言えないのだが、海外事情に詳しいであろう知識人やジャーナリストなどからそういった趣旨の告発は聞かない。加賀も、わが国のどこが野蛮であると具体的に述べているわけではない。
これが、懲役刑ならどうだろうか。
加賀に倣って言うと、こうなるだろう。
「国家が懲役刑に処するということは、国家が禁止している拉致監禁して強制労働させることを肯定することになってしまうのです。ですから懲役刑という刑罰は、拉致監禁や強制労働を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
さらに、罰金刑ならどうだろう。
「国家が罰金刑に処するということは、国家が禁止している窃盗を肯定することになってしまうのです。ですから罰金刑という刑罰は、窃盗を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
こうした主張に賛同する方はそう多くはあるまい。そんなことを言い出せば、刑罰というものを科することはできなくなるからだ。いや、国家による刑罰に限らず、各種の共同体における、ルール違反に対するペナルティについても、同様のことが言えるだろう。
安田弁護士は、昨今の世論調査で、死刑廃止論がさらに少数になり、死刑存置論が数を増していることについて、次のように述べている。
人の命を大切にしたいからこそ、それを恣意的に奪った者に対して、極刑を求める感情が生まれるのではないだろうか。
なんでもかんでも死刑にすればよい、例えば、万引きや痴漢でも吊せばよいのだというような意見が多数を占めているのなら、安田の言うこともわからないでもない。しかし、わが国の死刑存置論は、そういうものではないと思う。
また、「赦す」とはどういうことだろうか。犯人が心から反省し、被害者に対して謝罪してから、はじめて被害者側に赦しの感情が生まれてくるものではないだろうか。反省も謝罪もないのに赦せと言われてもそれは無理な話だろう。また、反省し謝罪している犯人に対して、なおも世論が死刑を強く求めるケースが果たしてあっただろうか。
そんなことは、司法関係者は百も承知だろう。
裁判は、「社会全体が抱える問題」を解決するためのものではない。あくまで、彼個人にどのように刑事責任を取らせるかということを決める場にすぎない。
犯罪を個人の問題ではなく社会の問題だと考えるとする。すると個人の問題は消滅するのか? 考えなくてもいいのか?
裁判は個人の問題を国家が裁く場である。社会の問題について結論を出す場ではない。
安田は、司法に本来の役割以外のものを求め、それが果たされてないとゴネているだけである。
そして、そういう理屈を持ち出すことで、死刑制度に対する疑念を膨らませようと画策している。
だったら安田は、刑事弁護ではなくもっと違う分野で、社会の問題を解決せよと唱えるべきではないだろうか。
「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香は、インタビューで次のように述べている。
「社会の責任というものを全く考えない」死刑存置論者がどこにいるというのだろう。
社会の責任についてはまた別に考えればよい。
社会にも責任があるから、個人に生命を奪うまでの刑を科すべきではないという理屈は、ちょっとよくわからない。
「自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている」場合と、意図的に他人に被害を与える場合とでは、責任の有り様は当然異なる。
亀井は警察の高級官僚でありながら、こんな感覚で公安事件を見ていたのか。
まちがった道だけれども、動機が純粋であれば尊いのか。
ならば、二・ニ六事件の青年将校や、サリンを撒いたオウム真理教の連中も尊いのだな?
スターリンや毛沢東、ポル・ポトも尊いのだな?
動機がどうであれ、間違っていることはしてはいけないのである。
それが20世紀における人類の教訓であると私は思っているが、亀井の思うところはどうやら違うらしい。
そして、
「極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。」
そんなことは当たり前で、彼らは言うなればイデオロギーに殉じた人々、もっと単純に言えば狂信者である。いわゆる「悪人」とは違うだろう。
では、暴力団の幹部や、前科何十犯というような職業的犯罪者なら、「根っからの悪人」か?
私は、「根っからの悪人」などそうそういないと思う。
世に伝えられる凶悪犯罪者にしても、おそらく、実際に接してみれば、程度の差はあれど、普通の人間と同様、長所も欠点もあるだろう。会話を交わしてみれば、愛すべき点も見られるだろう。
しかし、そのことと、その犯人に刑罰を科すべきかどうかということとは別の問題である。たとえ、その刑罰が死刑であろうとも。
井上達夫、河合幹雄、松原芳博の3人による座談会「死刑論議の前提」で、河合幹雄・桐蔭横浜大学法学部教授(1960-)が次のように発言している。
しかし、仮に河合の言うとおりだとしても、それは、殺人事件一般の話だろう。死刑事件一般の話ではない。
河合が言うような被害者側に責任があるケースについては、そうそう死刑にならないのではないか。
現に、先日の3名に死刑執行との報道を見ると(大阪・東京拘置所で3人の死刑執行…保岡法相で初(読売新聞) - goo ニュース)
また、死刑存置論者が想定している対象事件も、当然河合の言うようなケースではないだろう。
河合は、関係ない話をさも関係あるかのように持ち出して、ごまかしているだけである。
河合はまた、次のようにも言う。
仮にあったとしても、それは政治犯のことだろう。
当時、刑事犯にそのような「一審を死刑にして、最後を死刑にしな」いということが行われていたのかどうか。
おそらく行われていないはずだ。行われていれば、死刑廃止論者の多くがは「戦前は死刑が実質廃止されていたのに、戦後になって復活し、最近になって執行が増加している。反動的である」と主張するだろうからだ。
だから、河合の言うような「伝統」は存在しない。
これもまた、本来関係のない話を持ち出して、すり替えているだけだ。
河合というのは、なかなか欺瞞的な人物であるらしい。
いくつかの論文や対談、インタビューが掲載されていたが、しかし、心に響くものはなかった。存置論を修正する必要があるとは感じなかった。
印象に残った箇所について、心覚えとして書き留めておく。
加賀乙彦と安田好弘(麻原彰晃や光市事件被告の弁護人を務めた)との対談で、加賀は次のように述べている。
一般の人びとは、死刑がどのような刑罰であるかという、基本的なことを知りません。拘置所の中での死刑囚の実態についても、一切官の側からの情報が流れないのです。
そして、ジャーナリズム全体に徳川時代と全く同じ仇討ちの思想がいまだに残っている。死刑の判決が出ると社会部の記者は必ず被害者家族にインタビューして、「死刑の判決が出てほっとしました」といった〝誘導尋問〟をして記事にします。ところが何人かの記者に聞きましたが、彼らは死刑囚の実態をほとんど知らない。〔中略〕被害者の家族の方々も、死刑囚の実態を知らされることなく、一律に「死刑判決が下ってよかった」と言わされているように思います。たしかに、死刑囚の実態が広く知られているとは思わない。私も詳しくは知らない。
しかし、死刑囚の実態を知らなければ、死刑の存否について判断を下すことはできないのか?
私は、死刑のみならず、懲役刑の実態も詳しくは知らない。
花輪和一の『刑務所の中』というマンガがヒットし、映画化もされるぐらいだから、きっと世の多くの人々もそうなのだろう。
だからといって、私が懲役刑を存続させるべきだと考えることは許されないのだろうか。
私が何らかの犯罪の被害に遭って、その容疑者が捕まれば、おそらく、警察の事情聴取の際に、処罰についての意見を聞かれることだろう。
「こんなケシカラン奴は、一日でも長く刑務所に入れておいてほしいと思います」
と言うことは、懲役刑の実態を知らなければ、許されないのだろうか。
そんなことはないだろう。どうして被害者や第三者が、いちいち刑の実態を知った上でないと意見を述べてはならないのか。
死刑についても、同じことではないだろうか。
また、仮に、死刑囚の実態に人権上の問題があるとすれば、それは改善すれば済むことではないのか。
そのことと、死刑の存否とは本来別の話だろう。
国家が殺人を犯すということは、国家が禁止している殺人を肯定することになってしまうのです。ですから死刑という刑罰は、殺人を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです。実際死刑は野蛮です。野蛮というのは、行為自体が野蛮なのではなくて、それによって醸し出される思想や価値観が野蛮なのです。ヨーロッパや韓国など、多くの国で死刑が廃止されていると聞く。
わが国はそれら諸国と比べて、思想や価値観が野蛮なのだろうか。
私はそれら諸国の社会の実態を知らない。だから、はっきりしたことは言えないのだが、海外事情に詳しいであろう知識人やジャーナリストなどからそういった趣旨の告発は聞かない。加賀も、わが国のどこが野蛮であると具体的に述べているわけではない。
これが、懲役刑ならどうだろうか。
加賀に倣って言うと、こうなるだろう。
「国家が懲役刑に処するということは、国家が禁止している拉致監禁して強制労働させることを肯定することになってしまうのです。ですから懲役刑という刑罰は、拉致監禁や強制労働を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
さらに、罰金刑ならどうだろう。
「国家が罰金刑に処するということは、国家が禁止している窃盗を肯定することになってしまうのです。ですから罰金刑という刑罰は、窃盗を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
こうした主張に賛同する方はそう多くはあるまい。そんなことを言い出せば、刑罰というものを科することはできなくなるからだ。いや、国家による刑罰に限らず、各種の共同体における、ルール違反に対するペナルティについても、同様のことが言えるだろう。
安田弁護士は、昨今の世論調査で、死刑廃止論がさらに少数になり、死刑存置論が数を増していることについて、次のように述べている。
どうしてこんなことになったのか。日本には、もともと人の命を大切にするという思想や価値観が稀薄だったのかもしれません。あるいは、人を赦すということが、私たちの生き方、あるいは社会的価値観として共有されていなかったのかもしれません。それは逆ではないだろうか。
人の命を大切にしたいからこそ、それを恣意的に奪った者に対して、極刑を求める感情が生まれるのではないだろうか。
なんでもかんでも死刑にすればよい、例えば、万引きや痴漢でも吊せばよいのだというような意見が多数を占めているのなら、安田の言うこともわからないでもない。しかし、わが国の死刑存置論は、そういうものではないと思う。
また、「赦す」とはどういうことだろうか。犯人が心から反省し、被害者に対して謝罪してから、はじめて被害者側に赦しの感情が生まれてくるものではないだろうか。反省も謝罪もないのに赦せと言われてもそれは無理な話だろう。また、反省し謝罪している犯人に対して、なおも世論が死刑を強く求めるケースが果たしてあっただろうか。
事件を犯した少年を非難することと彼を殺すことは別なのです。あの少年は事件当時一八歳一か月で、しかも幼いころから父親に徹底して虐待され、その父親の虐待が原因で自分の目の前で母親が自殺するという、大きな心の傷を負ったまま育ってきている。しかしそうした背景や社会全体が抱える問題を全部捨象して、彼を殺すことによって問題を解決しようというのは、思考停止、弱い者いじめのリンチ以外の何物でもないと思います。お互いの共存、他人への理解、人間の尊重という民主主義の前提からかなり逸脱しています。彼を殺すことによって問題は解決しない。
そんなことは、司法関係者は百も承知だろう。
裁判は、「社会全体が抱える問題」を解決するためのものではない。あくまで、彼個人にどのように刑事責任を取らせるかということを決める場にすぎない。
どうして事件を起こしてしまったのかという問題で象徴的なことがあります。多くの場合、裁判所は、被告人の幼少時の不幸が事件に影響していたとしても、これを否定します。彼らは、同じように不幸な境遇であっても、彼以外の大多数の人は事件を起こさずに生きているではないかというのです。「それを問う」てどうなるのだろう。
しかし、実はそうではなく、逆なのです。同じような負の因子の中で育ちながらも、事件を起こさないで済んでいる理由を問うてみる必要があるのです。なぜ被告人は事件を起こし、彼以外の人は起こさないで済んでいるのか。もっと言ってしまえば、ぼくたち自身がどうして犯罪を犯すことなくいままで生きてこられたのか、それを問う視点がないから、いつまでたっても犯罪が個人の問題だけに還元されてしまう。個人の問題にされてしまうと、やはり復讐あるいは排除ということになってしまいます。司法が事実に向き合うという、司法たる責任を果たしていないことの積み重ねが、いまのような大変悲惨な事態を生み出しています。
犯罪を個人の問題ではなく社会の問題だと考えるとする。すると個人の問題は消滅するのか? 考えなくてもいいのか?
裁判は個人の問題を国家が裁く場である。社会の問題について結論を出す場ではない。
安田は、司法に本来の役割以外のものを求め、それが果たされてないとゴネているだけである。
そして、そういう理屈を持ち出すことで、死刑制度に対する疑念を膨らませようと画策している。
だったら安田は、刑事弁護ではなくもっと違う分野で、社会の問題を解決せよと唱えるべきではないだろうか。
「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香は、インタビューで次のように述べている。
みんな忘れているのですよ、自分自身も環境や場合によっては、凶悪犯罪を犯す羽目になるかもしれないということを。もちろん最終的に行動したその個人の責任は免れることはできません。しかし、たとえば鳩山大臣のように、生まれたときから何不自由なく物心のあらゆる面で恵まれた生活をしてきた人間には、そんな罪を犯すような瞬間はきわめて少ないでしょう。だから想像力が及ばないのだと思います。ここにも、論理の飛躍がある。
一緒にこの地球上に生息している存在として、私たちの社会の責任というものを全く考えないで、悪いことをした奴は除去していくという、強者の論理で押し切ることはやはり私はやめるべきだと思います。
「社会の責任というものを全く考えない」死刑存置論者がどこにいるというのだろう。
社会の責任についてはまた別に考えればよい。
社会にも責任があるから、個人に生命を奪うまでの刑を科すべきではないという理屈は、ちょっとよくわからない。
人間には、どんなに真面目に一生懸命生きていても、他人にたいへんな被害を与えている場合がある。こんな、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな屁理屈を言い出せば、責任は無限に拡散し、誰にも何の責任も問えないことになるのではないか。
たとえば食堂をやって一生懸命仕事をして、大繁盛する。これはいいことで、だれも批判することではない。ところが、それによってライバル店がつぶれる、サラ金から金を借りる、サラ金に金が返せない。一家心中するという場合だって、普通に起こりうることです。
つまり、人間存在そのものが自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている存在でもあるのですよ。そう考えると、罪を犯した人間に対して単に自己責任だと、命を奪ってまで苛斂誅求することが本当にいいのかどうか。
「自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている」場合と、意図的に他人に被害を与える場合とでは、責任の有り様は当然異なる。
――亀井先生がずっと死刑廃止を主張し続けられる根本には何があるのでしょうか。私はこの箇所を読んで、愕然とした。
亀井 それは私は、あたりまえの感情を言っているのです。ごくごく自然に考えたら、死刑は廃止となりますよ。私は聖人君子でもないから、逆に犯罪を犯してしまう人に対してシンパシーがあるかもしれないですね。
私は山の中の小さな村で、下から数えた方が早いような農家の生まれです。やはり生きていくことがどんなに辛いか、それはいろいろな経験をしました。〔中略〕
簡単に言えば人間は偉そうなことは言えないということです。警察官だったときに連合赤軍の森恒夫を取り調べたこともありますが、かれら極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。かれらなりに世の中をよくしたいというところから始まって、武力闘争に至ってしまう。まちがった道だけれども、世のため人のためにと自分の生死を投げ打った、そこにはやはり尊いものがあると思ったのです。人間というのはそういうものではないでしょうか。
亀井は警察の高級官僚でありながら、こんな感覚で公安事件を見ていたのか。
まちがった道だけれども、動機が純粋であれば尊いのか。
ならば、二・ニ六事件の青年将校や、サリンを撒いたオウム真理教の連中も尊いのだな?
スターリンや毛沢東、ポル・ポトも尊いのだな?
動機がどうであれ、間違っていることはしてはいけないのである。
それが20世紀における人類の教訓であると私は思っているが、亀井の思うところはどうやら違うらしい。
そして、
「極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。」
そんなことは当たり前で、彼らは言うなればイデオロギーに殉じた人々、もっと単純に言えば狂信者である。いわゆる「悪人」とは違うだろう。
では、暴力団の幹部や、前科何十犯というような職業的犯罪者なら、「根っからの悪人」か?
私は、「根っからの悪人」などそうそういないと思う。
世に伝えられる凶悪犯罪者にしても、おそらく、実際に接してみれば、程度の差はあれど、普通の人間と同様、長所も欠点もあるだろう。会話を交わしてみれば、愛すべき点も見られるだろう。
しかし、そのことと、その犯人に刑罰を科すべきかどうかということとは別の問題である。たとえ、その刑罰が死刑であろうとも。
井上達夫、河合幹雄、松原芳博の3人による座談会「死刑論議の前提」で、河合幹雄・桐蔭横浜大学法学部教授(1960-)が次のように発言している。
これは、知る人ぞ知る話ですけれども、殺人事件というのは実は被害者側に責任があるケースがほとんどです。そうでないと殺せない。けれども、被害者が無垢なケースしかマスコミに出られないものだから、ものすごく違うイメージになっている。学生たちにいわせると、被害者、特に遺族に量刑を決めさせたらいいとかいいますけれども、殺された人の遺族は加害者本人というケースが過半数です。だから、殺人の現状を全然知らないわけです。また、次のようにも。
井上 つまり、多くの殺人事件は家族間で起こっている。
河合 そうです。既遂に絞ると家族間で過半数です。しかも正式に結婚していないと家族外とカウントされますから、実際は大多数が家族内と考えてもらっていい。見知らぬ被害者は一割ぐらいでしょうか。
被害者の中で感情移入が本当にできるような人は少なくて、「あいつだけは生かしてはおけないと思っていた」とか、「おれがやらなくても誰かがやった」という事件はゴロゴロあるのが実態です。私は、殺人事件の実態を詳しくは知らない。
しかし、仮に河合の言うとおりだとしても、それは、殺人事件一般の話だろう。死刑事件一般の話ではない。
河合が言うような被害者側に責任があるケースについては、そうそう死刑にならないのではないか。
現に、先日の3名に死刑執行との報道を見ると(大阪・東京拘置所で3人の死刑執行…保岡法相で初(読売新聞) - goo ニュース)
万谷死刑囚は、1968年に起こした強盗殺人事件で無期懲役の判決を受けた後、仮出所中だった88年1月、大阪市の市営地下鉄谷町四丁目駅構内の通路で、短大生(当時19歳)の胸を包丁で刺して殺害したほか、87年8、9月にも、同市内で通りがかりの若い女性をナイフや鉄パイプで襲い、バッグを奪うなどした。2001年12月に最高裁で死刑判決を受け、確定した。いずれも、家族間の犯行ではないし、被害者側に責任があるとも思えない。
山本死刑囚は2004年7月、いとこ夫婦に借金を断られ2人を包丁で刺殺し、約5万円を奪うなどした。神戸地裁の公判では、迅速化のため事前に争点を整理する「期日間整理手続き」を適用。06年3月、初公判から約2か月で、死刑判決を言い渡した。弁護側は控訴したが、本人が取り下げ、死刑が確定した。
平野死刑囚は94年12月、過去に住み込みで働いていた栃木県内の牧場経営の男性(当時72歳)宅に侵入。男性とその妻(同68歳)をナイフなどで殺害、現金約56万円や貴金属などを奪い、放火して男性宅を全焼させた。
また、死刑存置論者が想定している対象事件も、当然河合の言うようなケースではないだろう。
河合は、関係ない話をさも関係あるかのように持ち出して、ごまかしているだけである。
河合はまた、次のようにも言う。
私の言う理想は、死刑ができる裁判がある、けれども死刑判決が出ない。だから、死刑賛成ではないけれども、制度としての死刑廃止は反対なんです。
死刑判決をもらったあとの人間の変わりようというのは、すごいものがある、あれだけはあってもいいということを、現場の刑務官でいっている人がたくさんいます。だから最後に殺してしまわない制度をつくったらどうかという提案ができるし、実はそれは簡単にできるんですね。一審を死刑にして、最後を死刑にしなければできる。治安維持法時代は完全にそういう手法を使っていて、初めは厳罰で、その後転向させるという伝統があったのに、最近は、逆に最後に最高裁で死刑でしょう。あれは日本の伝統からいっても、まさに無様といいたいです。治安維持法違反で死刑になった者は日本人にはいないと聞くが、1審判決が死刑で、上級審で覆った事例があったのであろうか。
仮にあったとしても、それは政治犯のことだろう。
当時、刑事犯にそのような「一審を死刑にして、最後を死刑にしな」いということが行われていたのかどうか。
おそらく行われていないはずだ。行われていれば、死刑廃止論者の多くがは「戦前は死刑が実質廃止されていたのに、戦後になって復活し、最近になって執行が増加している。反動的である」と主張するだろうからだ。
だから、河合の言うような「伝統」は存在しない。
これもまた、本来関係のない話を持ち出して、すり替えているだけだ。
河合というのは、なかなか欺瞞的な人物であるらしい。
死刑制度を存続させることと、積極的に死刑を求刑するごとが、全く別物であるということが中々理解されないのが残念ですが、本質的に別物です。
家庭内のいざこざで父親を殺してしまった息子と、ただ人を殺したいという理由で弱い子供を次々と刺し殺した犯人とでは意味合いが違います。
死刑廃止論者の主張の一つに、テロリストは国家の的なので殺害してもOKだが、ただの殺人犯は国家の的ではないので国家が殺してはならないというものがありますが、無差別殺人犯などは、国家、および社会の的といって良い存在だと思います。
もし、無差別殺人犯や、例えばオーム真理教のようなテロリスト集団に対する死刑は認められるということであれば、それは運用と呼び方の違いにすぎないのでしょうか。
日本でも、一般的な犯罪に対する最高刑は無期懲役ですが、無差別殺人など、テロ、およびテロに類似する犯罪に関しては例外とするとしてしまえば、ヨーロッパの状況となんらかわらないような気がします。
はじまして。川崎の13歳少年リンチ殺人事件を通して
今改めて死刑について考えてみよう、と
こちらにたどりつきました。
反対を唱える方達の理論を知り、改めて死刑制度は
必要だと感じました。
そんなことは言っていませんよ。
「ならば……ればならないのでしょうか。」
と言っているでしょう。
死刑廃止論者だからといって、死刑にならなかった者の更生に力を注がなければならない責任などないと言っているのです。
更生は、しかるべき国家機関が行うべきことであり、廃止論者にその責任を押しつけていいはずがありません。
それに、「殺人犯には人間の資格が大いにあると言うのでしょうね」などと当人が言ってもいないことを批判しても意味がありません。
>人殺しは殺人犯の方ではありませんか。要するに、廃止論者は倒錯した思想の持ち主であり、
殺人犯ももちろん人殺しですが、死刑を言い渡す裁判官もまた(人を殺すことを命じているという点で)「人殺し」であるとの非難から免れることはできないでしょう。死刑存置論者もまたそうです。
>無責任者です。死刑にならずに仮出所した者に、生活の面倒を見たり、更生のための働きかけなどしていないでしょう。
死刑廃止論者だからといって、どうして殺人犯の面倒をみなければならないのでしょうか。
ならば、死刑存置論者は、殺人犯の遺族の面倒をみなければならないのでしょうか。
私は、記事本文で述べているように死刑存置論者ですが、あなたの主張にも疑問を覚えます。
団藤の件についても、以前記事にしたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/2ed4085df33d279a5c71a0b707afc763
私は死刑廃止論はあっていいと思いますし、警察官あるいは元警察官がそれを唱えても別にかまわないと思います。
警察の仕事は犯人に法の裁きを受けさせることにあるのであって、死刑にすること自体が目的ではありませんから、士気には関わらないと思います。亀井が警察の存在意義自体を否定するような発言をしているのなら別ですが……。
更生する可能性を何パーセントと数字で示すことは不可能でしょうし、仮に再度犯罪を行ったとしても、それをもって可能性は0パーセントだったと言えるものでもないでしょう。
亀井の「人間の資格もない」発言については、以前にも触れたことがあります。
↓
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/9ace1841e9648da27dddd292668f8342
以後そちらのブログも時々拝見しております。
遅いコメントで済みません。
そうです。その小川です。miracleさんトコでチョコチョコ出没したりしなかったりしてますですハイ。
http://ogawa-sankinkoutai.seesaa.net/
↑こちらの小川さんでしょうか?
いや、だから何だというわけではないのですが、ただ小川さんというブロガーを見かけたので、確認したくて。
たしかに、キリスト教の影響があるのだろうとは漠然と思っていましたが、そのような現状があろうとは。
だとすると、経済大国でかつキリスト教の影響があまりないわが国で死刑廃止論が盛り上がらないのも当然ということになりますかね。
恥かしい誤字ですね^^
宗教的な影響が強いです。
フランスでは、国民の過半数が何らかの死刑制度を復活すべきだというアンケートも多く
実際に、私が在学していた当時でも、凶悪事件が報道されれば
この手の話が議論されていましたよ。
問題は、良くも悪くも背景にある教会勢力の強さで
日本でいうとこの皇室タブー等と同じように
死刑廃止、以外での報道がされないことだったように思います。
それに欧州教会の悪意を感じるのは、資金援助との引き換えで貧しい国家に対して
盲目的な死刑廃止を迫っていくような、やり口です。
世界の趨勢が死刑廃止に理屈・理論でむかっているのではなく
宗教と金の力で、制服しているんではないかと思えます。
『世界』と言えば、おそらくはインテリ層をターゲットにした、それなりにまともな雑誌です。その『世界』が「死刑制度を問う」と題して特集を組んでこの有様ならば、わが国の死刑廃止論者のレベルが知れると思いました。
ただ、世界の大勢が死刑廃止に向かっていることは事実でしょう。将来、死刑存置イコール野蛮国の証明であるかのように扱われた場合、わが国がいつまでも死刑を維持できるかどうかは疑問です。
私は死刑に対して、『存続しても良い理由』も『廃止して良い理由』も持ち合わせていて、揺れ動いています。(どちらかというと、存続)
ただ、こういう欺瞞に満ちた『廃止派』を見ると「こんな連中と同じに思われたくない」という思いが膨らみますわ。いやはや・・・