政府与党が日本国憲法の改正手続を規定した96条の改正を主導するのは、ルールを勝手に変えるものだという批判がある。
かさこ「憲法違反の政治家が憲法を変えやすいようルールを変えちまえって恐ろしい話」
辻元清美「「憲法九六条改正」問題について━━自分が有利になるようルールを変えるのは卑怯だ」
初鹿明博「96条改正は国民主権の危機だ!」
憲法記念日である昨日、朝日新聞朝刊のオピニオン面に掲載された石川健治・東大教授による「96条改正という「革命」」と題する長文の寄稿も、似たようなことを述べているが、さらに問題の本質に迫っている。
改正規定それ自体は改正できないという説はしばしば聞く。
しかしそれでは、クーデターや革命によって政体が変わらなければ、永遠に改正規定が維持されてしまうことになる。
制定者の意思が、未来永劫将来の世代を縛ることになる。
それはおかしいのではないだろうか。
私は、無制限改正説でよいのではないかと思う。
その点を差し引いても、こうした「ルール」という観点からの主張に対しては、さらに次のような疑問がある。
では、その「ルール」は、誰がどのように決めたのか。
これを国民が決めたというなら、話はまだわかる。
国民が革命を起こして独裁者を打倒し、民主的な国家に変えた。その体制の根幹である憲法の制定に際して、改正するには厳しい要件を付した。だからこれを安易に変えてはならない――と言うのなら。
しかし、日本国憲法を制定したのは、国民ではない。
言うまでもなく、GHQである。
GHQが1946年2月13日に日本政府に呈示したいわゆるマッカーサー草案の外務省仮訳では、改正規定は次のようになっていた。
これは、成立した憲法96条の
とほぼ同じである。
マッカーサー草案に対しては、わが国の政府や国会における憲法制定過程において、一院制が二院制に変更されるなど、さまざまな修正が加えられたが、この改正規定はほとんど問題にされなかったという。問題にできる性質のものでもなかったのだろう。
だから、この「ルール」を決めたのはGHQであって、日本国民の意思は反映されていない。
もっとも、当時の政府も国会も、この「ルール」を承認している。
しかしそれは、占領下という、承認せざるを得ない情勢にあったからこそ、承認したにすぎない。
したがって、石川が言う
は、どちらでもない。
打ち倒されるのは、GHQによる占領管理体制である。
これも当たらない。
占領管理体制として形成された日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にすぎない。
そんなことはあるまい。
憲法の下で民主的に選出された国会議員、そして彼らが選出した内閣総理大臣の行動が、立憲主義に基づくものでなくて何だというのか。
100年前のわが国に、第1次憲政擁護運動があった。わが国が当時のような情勢なら、石川の言うこともわからないではない。しかし、現在のわが国は、当時のような藩閥政府によって治められているのではない。
独立国が国内に残存する占領管理体制を打倒する。誠に結構なことではないか。
石川は、図らずも問題の本質を露呈してくれたようだ。
日本国憲法無効論というのがあるが、私はこれを支持しているわけではない。
現実に有効なものとして機能してきたのであり、今さら無効だと言ったところで始まらない。
また、現憲法や、占領下の諸改革の意義を全否定するつもりもない。評価すべき点は多々あろう。
現憲法が諸悪の根源であるかのごとき主張もあるが、私はこれに与しない。
しかし、GHQ製の憲法であるにもかかわらず、日本国民が国家を縛るために生み出したかのごとく語る欺瞞は、全く支持できるものではない。
96条改正論にしても、それは96条に規定された手続を踏まないと実現できないのに、いったい何をそんなに恐れているのだろうか。
仮に両議院の3分の2以上の賛成を得て国民投票が実施されたとしても、そこで否決されれば、それはこの改正規定が国民によって明確に支持されたということになるというのに。
現在のルール(96条)にのっとったプレイ(改正手続)を否定する者こそがむしろルール違反ではないのだろうか。
かさこ「憲法違反の政治家が憲法を変えやすいようルールを変えちまえって恐ろしい話」
憲法違反している政治家が憲法を変えようって犯罪者が取締りルールを勝手に変えちまえって話と同じ。
しかもそういう無茶苦茶なことができないようにルールを改正するには高いハードルが課されているのに「だったらルール改正のルールから変えたらいいじゃん!」ってルールを守っていない人たちが勝手に決めるってこんなひどい国はない。
辻元清美「「憲法九六条改正」問題について━━自分が有利になるようルールを変えるのは卑怯だ」
これは、たとえばスポーツの世界でいえば、試合になかなか勝てないから、自分が有利になるようにルールを変えてしまえ、と言っているに等しいのではないですか。
どんな世界でもそんなことをしたら「ズルイ」「卑怯だ」という声が飛んできそうです。それは、道理に反するからです。
安部総理は「こどもの道徳教育が大事」とおっしゃっています。そうであるのなら、今のルールで、正々堂々と自分の主張を実現する努力をするべきではないでしょうか。
初鹿明博「96条改正は国民主権の危機だ!」
憲法は、多数を握った権力者が横暴、圧制を働くことがないように、国民の基本的人権や自由を守るために、守らなくてはならない最低限のルールをあらかじめ定めたものであります。つまり、国民が権力者を縛るためのものが憲法です。
ですから、権力者が変わるごとに、自分達(もしくは自分)の都合が良いように安易にルールの変更が出来ないように改正の手続きが他の法律よりも厳しく規定されているのです。
ですから96条を改正して改正の要件を緩和するということは、時の権力者もしくは多数者の意向によって、都合の良いように変えることが出来るようにするということで、立憲主義に反することであります。
しかも、それを時の権力者である総理大臣が先頭に立って言っているというのは、民主主義や国民主権、立憲主義の基本を理解していない、民主主義国の政治家として失格だと私は感じています。憲法改正について権力を握っている内閣の構成員が発言することは減に慎むべしと思います。
憲法記念日である昨日、朝日新聞朝刊のオピニオン面に掲載された石川健治・東大教授による「96条改正という「革命」」と題する長文の寄稿も、似たようなことを述べているが、さらに問題の本質に迫っている。
憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。
フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。
同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。
なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。
改正規定それ自体は改正できないという説はしばしば聞く。
しかしそれでは、クーデターや革命によって政体が変わらなければ、永遠に改正規定が維持されてしまうことになる。
制定者の意思が、未来永劫将来の世代を縛ることになる。
それはおかしいのではないだろうか。
私は、無制限改正説でよいのではないかと思う。
その点を差し引いても、こうした「ルール」という観点からの主張に対しては、さらに次のような疑問がある。
では、その「ルール」は、誰がどのように決めたのか。
これを国民が決めたというなら、話はまだわかる。
国民が革命を起こして独裁者を打倒し、民主的な国家に変えた。その体制の根幹である憲法の制定に際して、改正するには厳しい要件を付した。だからこれを安易に変えてはならない――と言うのなら。
しかし、日本国憲法を制定したのは、国民ではない。
言うまでもなく、GHQである。
GHQが1946年2月13日に日本政府に呈示したいわゆるマッカーサー草案の外務省仮訳では、改正規定は次のようになっていた。
第八十九條 此ノ憲法ノ改正ハ議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テ國會之ヲ發議シ人民ニ提出シテ承認ヲ求ムヘシ人民ノ承認ハ國會ノ指定スル選擧ニ於テ賛成投票ノ多数決ヲ以テ之ヲ爲スヘシ右ノ承認ヲ經タル改正ハ直ニ此ノ憲法ノ要素トシテ人民ノ名ニ於テ皇帝之ヲ公布スヘシ
(江藤淳編『占領史録 3 憲法制定経過』講談社学術文庫、1989、p.202。一部の旧字体の漢字はフォントが見当たらず新字体に直した)
これは、成立した憲法96条の
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
とほぼ同じである。
マッカーサー草案に対しては、わが国の政府や国会における憲法制定過程において、一院制が二院制に変更されるなど、さまざまな修正が加えられたが、この改正規定はほとんど問題にされなかったという。問題にできる性質のものでもなかったのだろう。
だから、この「ルール」を決めたのはGHQであって、日本国民の意思は反映されていない。
もっとも、当時の政府も国会も、この「ルール」を承認している。
しかしそれは、占領下という、承認せざるを得ない情勢にあったからこそ、承認したにすぎない。
したがって、石川が言う
打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものか
は、どちらでもない。
打ち倒されるのは、GHQによる占領管理体制である。
いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。
これも当たらない。
占領管理体制として形成された日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にすぎない。
打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。
そんなことはあるまい。
憲法の下で民主的に選出された国会議員、そして彼らが選出した内閣総理大臣の行動が、立憲主義に基づくものでなくて何だというのか。
100年前のわが国に、第1次憲政擁護運動があった。わが国が当時のような情勢なら、石川の言うこともわからないではない。しかし、現在のわが国は、当時のような藩閥政府によって治められているのではない。
独立国が国内に残存する占領管理体制を打倒する。誠に結構なことではないか。
石川は、図らずも問題の本質を露呈してくれたようだ。
日本国憲法無効論というのがあるが、私はこれを支持しているわけではない。
現実に有効なものとして機能してきたのであり、今さら無効だと言ったところで始まらない。
また、現憲法や、占領下の諸改革の意義を全否定するつもりもない。評価すべき点は多々あろう。
現憲法が諸悪の根源であるかのごとき主張もあるが、私はこれに与しない。
しかし、GHQ製の憲法であるにもかかわらず、日本国民が国家を縛るために生み出したかのごとく語る欺瞞は、全く支持できるものではない。
96条改正論にしても、それは96条に規定された手続を踏まないと実現できないのに、いったい何をそんなに恐れているのだろうか。
仮に両議院の3分の2以上の賛成を得て国民投票が実施されたとしても、そこで否決されれば、それはこの改正規定が国民によって明確に支持されたということになるというのに。
現在のルール(96条)にのっとったプレイ(改正手続)を否定する者こそがむしろルール違反ではないのだろうか。
また前記事のコメントhttp://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/841125af47a27bb426cae93123e7ac8b?fm=entry_awcで「あきれ果てるしかありません」「たいへんな欺瞞だと思います」「分かってない。いかにも、いきなり国民にゆだねる事が国民を信用しているから良いみたいにおもっている。大きな欺瞞であり、誤りです。」と賛同者を増やそうとは思えない高圧的・一方的かつ「扇動されて同じ方向に向かいやすい国民性」との発言の根拠を挙げることなく、「出発点の考え方が違うので、この問題をこれ以上、議論しても進展は無いようです。諦めました。」と議論を放棄する方の様子は先述した「3分の1を盾に反対論に固執する議員」という想像を補強していると思います。
閑話休題。http://www.jfir.or.jp/cgi/m-bbs/index.php?thread=&form[no]=2764
私は改憲が容易になる事がメリットとは思いません。なぜ、わざわざ3分の2としているのか分かっていらっしゃいません。とりあえず発議できるようにするなら、初めから3分の2などにはしないでしょう。国権から国民を守る憲法を、逆に容易で無いようにというはどめとして、3分の2としているのです。それを改憲しやすいように、国民がわざわざ後押しすることはありません。国権側の思う壺です。
>それから私は、別のコメントでも述べましたが、国民投票で決めるのだから国会での議論など不要などという主張はしていません。
そうであっても、過半数でよしとするなら、簡単に発議できてしまいます。それでは、結果的に十分な議論が出来ません。だから、議論が不要と言っているのと同じだと思うのです。
>簡単に国民に決めさせれば良い、すぐに国民投票に移れる事が、国民のため・・・そんなことも述べていません。
と言っていらっしゃいますが、96条を改憲すれば、結果的にそうなります。結果的にそうなるものを容認するのは、そう思っているのと同じです。
要するに、深沢さんとは、この憲法に対する考え方が根本的に違うのでしょう。それは、戦前の歴史認識などの違いに大きく根ざしていると思います。だから、どこまでいっても、深沢さんとこの問題ではかみ合わないと思います。
>深沢さんは危険性を感じていらっしゃらない。いったいどうしたらそんなに楽観的になれるのか不思議です。私は大きな危険性を感じています。根本的な考えが違うので平行線でしょう。
おっしゃるような危険性はあると思いますよ。
しかし、改憲が容易になるというメリットもまたあります。私は後者を重視するということです。
それから私は、別のコメントでも述べましたが、国民投票で決めるのだから国会での議論など不要などという主張はしていません。
>簡単に国民に決めさせれば良い
>すぐに国民投票に移れる事が、国民のため
そんなことも述べていません。
そうした主張に反論したいのなら、そうした主張をされている方のブログでお願いします。
>>憲法は、みんながそれを守ろうとしない限り、何の実効性もありません。
>当たり前のことです。だからといって憲法が必要ない、法律が必要ない、ということにはなりません。民主主義万能で、国民が何でも決めれば良い、憲法があっても国民が守らなければ意味が無い・・ということなら、憲法も法律もいらなくなります。
私はそんな話をしているのではありません。全く読み違えておられます。
自由主義者さんがおっしゃり、がかりさんが支持する、憲法は民主主義に優越するという見方がおかしいと言っているのです。
憲法の正統性は、その憲法を生み出した民主制によって保障されるものだからです。
民主制の下で、統治の枠組みとしての憲法があった方がいいこと、それが守られるべきことなのは当然です。憲法がなくてもいいなどという話はしていません。
深沢さんは危険性を感じていらっしゃらない。いったいどうしたらそんなに楽観的になれるのか不思議です。私は大きな危険性を感じています。根本的な考えが違うので平行線でしょう。
民主主義は万能ではありません。何でも多数決で決めたものが正しいなんてことは無いのです。だから、国民に問いかける前に、まずは国会での十分な議論が必要なのです。そのために必要なのが96条です。これをおろそかにして、簡単に国民に決めさせれば良いというのは間違っています。いかにもすぐに国民投票に移れる事が、国民のためなどというのは、大きな欺瞞なのです。かえって国民のためになりません。
> 憲法は、みんながそれを守ろうとしない限り、何の実効性もありません。
当たり前のことです。だからといって憲法が必要ない、法律が必要ない、ということにはなりません。民主主義万能で、国民が何でも決めれば良い、憲法があっても国民が守らなければ意味が無い・・ということなら、憲法も法律もいらなくなります。国家や国民は間違うものだから、憲法や法律はあるのです。
深沢さんのように、極端な話、憲法があっても、国民が守らなければ意味が無いから、憲法はいりません・・てことになります。そんなこと言うなら、そんなどうでも良い憲法を変えることも無意味になります。
とにかく、国家から国民を守る憲法を変える際には、しっかりとした議論をするために、それ相応のハードルが必要なのです。そして、それが96条なのです。
> 私の感覚からすると、96条の3分の2を過半数と改めるだけで、現在のわが国がそれほど異質な国家に変貌してしまうとは考えがたいです。
少なくとも、3分の2よりは、過半数に改憲するほうが、異質な国(自民党の改正案のような)に変えやすいでしょう。だからこそ、自民党は96条改正にやっきになっているのです。ここに危険性を感じないのはとても不思議です。
>「議会、それに基づく内閣総理大臣の行動を縛るもの」こそが立憲主義です。憲法を立てる意味は、統治行為にできることの上限を画することです。立憲君主制という制度のもとでは、当然、統治を行う君主が、憲法によって縛られます。
96条改正論を唱える政治家は、その「憲法によって縛ら」れた状態、「統治行為にできることの上限」を踏まえ、憲法上の改正手続にのっとって96条を改正しようとしています。いわゆる日本国憲法無効論のような超憲法的手段によって改正しようとしているのではありません。
これを石川教授のように「立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」」と見ることは私にはできません。石川教授やあなたは、憲法改正条項を改正することは許されないとお考えなのでしょうが、記事本文でも述べたように、私はそうは考えません。
>自由主義者さんのおっしゃることは、法律学上は、スタンダードですよ。少なくとも「特異な憲法観」でもなんでもありません。
私は法律学者ではありませんので、法律学上何がスタンダードなのかは存じ上げませんし、「特異な」というのは私の主観にすぎませんが、自由主義者さんのおっしゃる、憲法は民主主義を優越するというのは、倒錯した見方だと思います。
仮に「過半数で決めたなら財産没収も虐殺もアリ」という意見が過半数を制したとして、反対派は憲法をタテにそれに抵抗したとします。しかし多数派がその憲法を守らず、軍や警察といった暴力装置によって実力行使に及んだ場合、反対派はどうやってそれを阻止できるのでしょうか。
また、歴史上、財産没収や虐殺を実行する政権が、立派な人権規定をもつ憲法を有していたという事態もあったのではなかったでしょうか。
憲法は、みんながそれを守ろうとしない限り、何の実効性もありません。
こんにちの民主制国家が「財産没収も虐殺もアリ」といった政策を採ろうとしないのは、憲法がそれを禁じているからではなく、国民がそれを支持しないからだと思います。
国民が民主制を支持しているからこそ、その枠組みである憲法が維持されるのであって、憲法が民主制に優越するとはおかしな理解だと思います。
>憲法の改正を、GHQに押し付けられたから、という理由で(それも一つの見解だと思います)、正当化するのは、かなり飛躍しているように思います。
私は、押し付けられた「から」改正しなければならないとは言っておりません。
石川健治教授が、GHQ製の憲法であるにもかかわらず、日本国民が国家を縛るために生み出したかのごとく語る欺瞞を問題視しています。
>問題は、この憲法が、いいのかわるいのかです。不具合がないものを、変更する必要がありません。
不具合がなくても、より良いものに変えていくことは必要だと思います。
>この点は、ししまるさんが的を射ています。日常的に、何十万もかかる、自分のパソコンのリプレースは、不具合があるからするものです。
不具合がないからといって、いつまでもMS-DOSのパソコンを使い続ける必要はないと思います。
なお、私自身が憲法のどこをどう変えたいかについては、以前ししまるさんに問われた際にいくつか思いつくままに挙げています。
別記事↓
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/063599e59b23544b9d78bae6a0a5bc0a
の 2013-05-13 23:59:02 のコメントをご参照ください。
>また、憲法は、基本的に改正を予定していないのですよね。ですので、一切改変する必要はありません。が、おっしゃるように、本当に、集団が滅びてしまうということを食い止めるために、改正の規定が挿入されております。
そうでしょうか。各国の憲法はしばしば改正されてきたわけですが、それらが全て「本当に、集団が滅びてしまうということを食い止めるため」のものだったのかどうか、↓の資料などを読む限り、私には極めて疑問です。
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/pdf/0687.pdf
>通常は、各国の憲法学においては、(改正手続きとは別に)個別の改正についても(その性質に応じて)、改正権限を与えないという議論が主流です。したがって、改正は多く起こるけれども、ファンダメンタルが変えられないというように、制度と、学説とで、役割分担がなされています。
憲法学上はそうなのかもしれませんが、現実には、改正手続にのっとって、ファンダメンタルをも改正される(事実上の新憲法制定)場合がしばしばあるのではないでしょうか。フランスの第4共和国憲法から第5共和国憲法への移行、韓国の第5共和国憲法から第6共和国憲法への移行のように。わが国の大日本帝国憲法から現憲法への移行も然り。
>ブログの本文の中に、クーデターがという記述がありますが、それは、クーデターではなく、革命の話ですよね。
私、記事本文で、
>>改正規定それ自体は改正できないという説はしばしば聞く。
>>しかしそれでは、クーデターや革命によって政体が変わらなければ、永遠に改正規定が維持されてしまうことになる。
>>制定者の意思が、未来永劫将来の世代を縛ることになる。
>>それはおかしいのではないだろうか。
と、クーデターと革命を併記しておりますが。
一般的に、クーデターと革命は別の概念なのではないでしょうか。
あなたがここでおっしゃる「革命」は、クーデターをも含んだ概念なのかもしれませんが、にしても「クーデターではなく、革命の話」と、クーデターを除外する必要はないと思いますが。
>憲法のファンダメンタルを変えることは革命なんですよね。(憲法は、先に述べたように、改正を予定していないシステムなので、大きな変更があると、それは改正ではなく革命と呼ばれます。ただ、それだけのことでして、石川氏は、何も間違えたことを言っていないのです。)
憲法学のことは詳しく存じ上げませんが、一般的に、「憲法のファンダメンタルを変えることは革命」と呼ばれているでしょうか。
先に挙げたフランスの第4共和国憲法から第5共和国憲法への移行、韓国の第5共和国憲法から第6共和国憲法への移行は、憲法のファンダメンタルの変更ですが、革命とは呼ばれていません。
一方で、憲法のファンダメンタルの変更がないにもかかわらず、パリ五月革命とかフィリピン二月革命とかいう歴史的呼称はあります。
>で、改正のしやすさにかかわることは、統治の根幹にかかわることですから、革命になるわけですね。
これもどうなんでしょう。他の条文には一切手を付けず、ただ96条の3分の2を過半数と改めるだけでも「革命」なんでしょうか。基本原理はおろか、両議院の賛成により発議し、国民投票により成立するという部分も変わらないのですが。
ただ、憲法学者が憲法学の観点から見てそれは「革命」だとおっしゃるとしても、私は別にそれを否定するつもりはありません。
記事本文でも、石川教授の「革命」という表現を否定してはいません。
ただ、石川教授の
>>>同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。
という主張はおかしい、特に「憲法制定者としての国民そのもの」は実におかしい、何故なら制定者はGHQなのであるから、「反逆」「革命」はGHQによる占領管理体制に対してのものでしかないと指摘しているにすぎません。
>政権与党の出している改正草案ですが、公の秩序--既存の憲法のような公共の福祉ではない---に、国民の権利を従属させていますよね。やはり、立憲主義がわかっていない人の作る憲法だと思うのですね。
私もこの点については同様の懸念を覚えます。
ただ、96条改正論者である西修・駒澤大学名誉教授は、「公の秩序」という表現は国際人権規約や各国憲法でも用いられており世界標準であると反論しています↓。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130712/plc13071203160002-n1.htm
>ここで、このような言論をすることも、政府に都合がわるければできなくなりますが、それでもよいのかということなんです。(現行憲法なら、死ぬまで、それが保障されています。)
それはとても困りますね。
ただ、「現行憲法なら、死ぬまで、それが保障されてい」ると脳天気に言えるのでしょうか。
この種の言論が「公共の福祉」に反すると解釈されてしまえば、それまでではないでしょうか。
現行憲法なら大丈夫、自民案ならおかしな社会になる――というのも、一面的な見方だと思います。
>同じ話ですが、96条ですが、改正が容易になった時には、かならずしも、ご自分が望む(国益にかなった)改正がなされるわけではないのですよね。資本主義をすてることも、軍備を一切放棄することも、当然にあり得ます。国民の生存が脅かされますよね。
そうですね。
そのリスクと、改正が容易になるメリットのどちらを選択するかという話だと思います。
>自分の感覚からすると、多数派をそこまで信じることはできないのですよね。
私の感覚からすると、96条の3分の2を過半数と改めるだけで、現在のわが国がそれほど異質な国家に変貌してしまうとは考えがたいです。
>ここで、このように、議論をされて、それなりに平和に暮らせているし、それ以上に何を望むのかということですね。経済政策は大いにやってくださっていいと思いますが、国のシステムは変えないでその枠内でやってくださったら、我々は、このまま安心して生きていけるのではないでしょうか。
現在の諸条件がいつまでも続くとは限りません。
私は、現行憲法に基づくシステムが今後何十年もわが国を支配し続けるかと思うと、安心どころか非常な不安を覚えます。
①立憲主義の意味についてですが。
憲法の下で民主的に選出された国会議員、そして彼らが選出した内閣総理大臣の行動が、立憲主義に基づくものでなくて何だというのか。
「議会、それに基づく内閣総理大臣の行動を縛るもの」こそが立憲主義です。憲法を立てる意味は、統治行為にできることの上限を画することです。立憲君主制という制度のもとでは、当然、統治を行う君主が、憲法によって縛られます。
したがって、自由主義者さんのおっしゃることは、法律学上は、スタンダードですよ。少なくとも「特異な憲法観」でもなんでもありません。
②憲法の改正を、GHQに押し付けられたから、という理由で(それも一つの見解だと思います)、正当化するのは、かなり飛躍しているように思います。
*GHQが作ろうが、日本の学者が作ろうが、立憲主義の憲法は、このような憲法になります。(確かに、文字の統一とかいう解釈上の美しさは後退しておりますが。)
当時の日本の法学者や改正メンバーは、立憲主義を正確に理解できませんでした。(宮沢俊義が作った草案も、今の水準からすると、わかっていないものです。会議で、他のメンバーに押し切られたのかもしれませんが。)帝国下で育った人々が、立憲主義に基づいた憲法を作れるかというと、当然作れるわけはありません。
*憲法改正を、(政治的な圧力を一切抜いて)憲法の研究者に委ねるなら、大賛成です。
で、問題は、この憲法が、いいのかわるいのかです。不具合がないものを、変更する必要がありません。
この点は、ししまるさんが的を射ています。日常的に、何十万もかかる、自分のパソコンのリプレースは、不具合があるからするものです。
皆で決めたことが正しいとは限らないというのが、憲法というシステムの存在理由です。(憲法を無効化するという議論をしたいなら、それはそれであると思います。)
また、憲法は、基本的に改正を予定していないのですよね。ですので、一切改変する必要はありません。が、おっしゃるように、本当に、集団が滅びてしまうということを食い止めるために、改正の規定が挿入されております。
でも、改正の規定は、多数派に悪用されるのですよね。憲法の保障を取ってしまえば、やりたい放題できますからね。それで、わざわざ、憲法は、厳格な改正要件を設定しています。
(改正要件は、厳格であればあるほど、政治の変動可能性の、とばっちりを受けなくて済むことになります。極端に、これを議会の多数決によって、憲法改正ができるという話になれば、法律と同じように変化させることが可能です。過半数政党が、過半数政党のためだけに法制定ができます。96条改正論は、おっしゃる通り、ここまでのことではありませんが、現状よりも、少数者にとって不利益に働くことは間違いないでしょうね。それをどう考えるか、必要悪と考えるかです。)
通常は、各国の憲法学においては、(改正手続きとは別に)個別の改正についても(その性質に応じて)、改正権限を与えないという議論が主流です。したがって、改正は多く起こるけれども、ファンダメンタルが変えられないというように、制度と、学説とで、役割分担がなされています。
日本の場合には、この学問による協働もなされていません。政権与党が、特にアドバイスもなく、憲法を解釈していきますよね。これも結構危ないことです。
③
で、ブログの本文の中に、クーデターがという記述がありますが、それは、クーデターではなく、革命の話ですよね。
憲法のファンダメンタルを変えることは革命なんですよね。(憲法は、先に述べたように、改正を予定していないシステムなので、大きな変更があると、それは改正ではなく革命と呼ばれます。ただ、それだけのことでして、石川氏は、何も間違えたことを言っていないのです。)
で、改正のしやすさにかかわることは、統治の根幹にかかわることですから、革命になるわけですね。
(現行憲法が、制定されたときも、革命がおこったと、憲法学では評価されています。が、これは言葉の問題ですね。)
④
最後に、本当に問いかけたいのは、ここのブログのような思想空間は非常に心地いいし、有益だと思うのですよね。
ところで、政権与党の出している改正草案ですが、公の秩序--既存の憲法のような公共の福祉ではない---に、国民の権利を従属させていますよね。やはり、立憲主義がわかっていない人の作る憲法だと思うのですね。
(96条を改正した結果、こういう憲法を作りたいということなのですよね。)
ここで、このような言論をすることも、政府に都合がわるければできなくなりますが、それでもよいのかということなんです。(現行憲法なら、死ぬまで、それが保障されています。)
同じ話ですが、96条ですが、改正が容易になった時には、かならずしも、ご自分が望む(国益にかなった)改正がなされるわけではないのですよね。資本主義をすてることも、軍備を一切放棄することも、当然にあり得ます。国民の生存が脅かされますよね。
自分の感覚からすると、多数派をそこまで信じることはできないのですよね。(組織に属していると、別に、組織に属していなくても、小学生いらいからの集団生活において、多数の論理によって、成すべきことができなくなるという場面に直面していることは多々あるように思うのですが、いかがでしょうか。結構、家族のメンバーにも思ったことを言えない人が多いのではないでしょうか。国家のレベルでは、意見を言えないことが、個人の生存にかかわります。)
立憲主義とは、自由主義者さんがおっしゃるように、民主(議会)のできる範囲を抑えて、自分たちの生存を守るためのものなのです。で、ボラティリティは低ければ低いほどいいと思うのですね。(なぜなら、現状、我々は、それなりに生きていけているからです。)
ここで、このように、議論をされて、それなりに平和に暮らせているし、それ以上に何を望むのかということですね。経済政策は大いにやってくださっていいと思いますが、国のシステムは変えないでその枠内でやってくださったら、我々は、このまま安心して生きていけるのではないでしょうか。
ししまるさんがおっしゃりたいのはそういうことなのではないでしょうか。
(危急存亡のときがくれば、三分の二でも十分に説得できますよ。)
了解しました。
>貴サイトはアクセスも多く、見る人も多いようです
そうですか?
長年やってるわりにはさっぱりだと思いますが。
アクセス数にはGooglebotなんかも含まれていますし。
また、その時にホットな話題(橋本発言など)で、自サイトへの書き込みした後に、こちらとテーマがダブっていたりした際に、貴サイトへの私の考えとして、自サイトの文を投稿させて頂いたこともあります。しばしば長文になってますが、やっぱりそれぐらい書かないと言い切らないといいますか、コメントは貴サイトに関わらず、それぐらい書いても理解はされないことのほうが多いです。
しかし、おっしゃることも良く分かります。ただ、私はこちらへの書き込みが楽しみですし、意見をやり取りしたりしているうちに、自分の考えがだんだんまとまってきたり、思考を深められたり、知らない事が出てきて調べたり・・・で面白いのです。また、貴サイトはアクセスも多く、見る人も多いようですので、うらやましいです。
記事の内容と直接関係しない自説を滔々と弁じるのはご遠慮ください。
と書こうと思って、念のためリンク先のあなたのブログを拝見したら、このコメントはあなたのブログの記事をそのまま貼り付けただけのものですね。
しかも、こうしたコメントはこれだけではないようですね。
こういうことはおやめください。このブログのコメント欄は掲示板ではありません。また、私は私宛に寄せられたコメントだと思えばこそ真摯に対応しているのです。あなたが一般向けに書いた記事の内容にまでお付き合いするつもりはありません。
あなたがあなたのブログに記事を書いたということを私や私の読者に知らせたいのであれば、トラックバックをお使いください。何らかの不具合によりトラックバックが通らなければコメントで記事を書いたことをお知らせください。
>戦争回避という選択が可能であったかなかったかについては、どうとでも言えることですから、あなたと議論をするつもりはありません。
と書いています。
同じ言葉を繰り返させないでください。
ただ、あなたが
>スペインの例を挙げていらっしゃいますが、それは特殊な例で、ほとんどの軍事政権というものは、
云々とおっしゃったので、そうではないということを例を挙げて示したのです。これは「思う」「思わない」といった話ではなく、歴史的事実ですから。
>なんだかなぁ・・・悪意の塊ですね。ものすごい力技ですね。そりゃ文脈を捉えて、そう持って行こうと思えばそうも言えますよね。
悪意も何も、普通にそう読めるんじゃないですか。
>でも、言いたいことはそんなことじゃないってことは分かりませんか?仮りの話に乗った私がバカでしたが、要は、日本の軍事政権があの敗戦で倒れてくれて良かったと言っているんで、別に戦争が良かったなんて言ってませんよ。まあ、あなたも分かってるんでしょうけど。
私がいつどこで、あなたが「戦争が良かったなんて言って」ると言いましたか?
>もうありえない仮想の歴史は止めましょうよ。それすると、わけ分からなくなりますから。あの時、戦争をせず、民主かもありえたなどという、仮想の歴史ではなく、現実の歴史から教訓を見出しましょうよ。なぜ、あのような軍事政権が誕生し、なぜ、侵略や戦争を止められなかったのかを、現実の歴史から考えましょうよ。あの時、民主かもありえたなどという、甘い歴史認識では何も教訓は得られませんよ。
「現実の歴史から教訓を見出」すというのは、どこで誤ったのか、どうすれば過ちを回避できたのかということを検討することではないのですか? それはすなわち仮想の歴史を形成することではないのですか?
何も私のような素人に限らず、あのときああしておけばと想定する歴史家はたくさんいますよ。
「わけ分からなくな」るのはあなたの自由ですが、「止めましょうよ」などとあなたに言われる筋合いはありません。私には私の考えがあります。
他人の考え方を支配したがるのはファシズムの第一歩です。
しかし、日本はどうにもはっきりしない。こういうところが危ないのです。誰が悪かったのかはっきりしないから、未だに日本は悪かったとか、悪くなかったとかいう議論になる。責任の所在が曖昧で、それが戦争責任もあいまいにしている。こういう体質は、今の東電の事故後に、誰も責任を取っていないのとよく似ている。また、クラスのいじめもこのたぐいでしょう。直接いじめる人と共に、それを許すクラスの空気がある。むしろこの空気のほうが怖いのです。
日本の場合、しいてあげれば軍部・・でしょうか。それと、それを許したか助長した、日露戦争後から続く国民のいけいけの空気。日本国民全体が発狂したとしかい言いようのない感じ。そういうところが日本人は怖いのです。日本人は相手の顔色を見たり、気持ちを察するのに長けています。それがいい方向に発揮された時は、一致団結して経済発展にまい進したり出来ました。しかし、こういう他人の顔色を見て、自分の意見を言わない国民性は、いつのまにか雰囲気に流されて、気付いたら取り返しの付かないことになってしまうこともあります。そして、一旦、弾みがつくとそちらに向かって突き進んでしまいます。昭和の戦争へ至る道がそうでした。ひとりの独裁者ではなく、全体の何となくの雰囲気で一方向に行ってしまう国民性なのです。だから怖いのです。
96条改憲でも、はっきり言って、国民の大多数は憲法なんて興味もなければ、読んだこともほとんど無いでしょう。無知といってもいい。私自身そうです。最近になって、自民の改憲案を見て、これは危ないと思い始めました。だから、議会で充分な議論のうえ、議会の3分の2の議決を要する今の96条を変えてはならないと思うのです。
確かに、現行96条で憲法を変えるのは大変かもしれません。でも、大変だからといって、安易に変え易くすればいいってもんじゃ有りません。国民に発議して、国民の議論をと言いますが、国民や大衆は必ずしも賢明であるとは言いがたいのです。先の歴史を見ても明らかです。今ぐらいの厳しさは必要です。議会も国民も過半数でよしとするのは、どう考えても私は反対です。国会の3分の2も突破出来ないようなら、それは諦めるべきです。
誤解されないように言っておきますが、私は96条改憲には反対ですが、96条改憲をするための議決に反対しているわけでは有りません。それは、問いたければ、問うていけばいいでしょう。別に問うことを禁止されてはいませんから。しかし、問われた場合には、私は反対なのです。
なんだかなぁ・・・悪意の塊ですね。ものすごい力技ですね。そりゃ文脈を捉えて、そう持って行こうと思えばそうも言えますよね。でも、言いたいことはそんなことじゃないってことは分かりませんか?仮りの話に乗った私がバカでしたが、要は、日本の軍事政権があの敗戦で倒れてくれて良かったと言っているんで、別に戦争が良かったなんて言ってませんよ。まあ、あなたも分かってるんでしょうけど。
しかし、あなたは、敗戦はあの戦争の結果だから、あの戦争を肯定したみたいに論理をたぐって行った。あなたこういうの好きですね。あなたの仮想民主化の歴史はありえなかったという話が、いつの間にか、私が戦争を肯定したなんてことにすり替えられてしまっている。
もうありえない仮想の歴史は止めましょうよ。それすると、わけ分からなくなりますから。あの時、戦争をせず、民主かもありえたなどという、仮想の歴史ではなく、現実の歴史から教訓を見出しましょうよ。なぜ、あのような軍事政権が誕生し、なぜ、侵略や戦争を止められなかったのかを、現実の歴史から考えましょうよ。あの時、民主かもありえたなどという、甘い歴史認識では何も教訓は得られませんよ。
>??意味が分かりません。驚くべき論理です。いつ私が戦争の犠牲を無視したのですか?
あなたは、以前のコメントでこう書いています。
>ほとんどの軍事政権というものは、暴走を始めたら、後は倒れるまで暴走を続けるものだと思いますよ。ナチスにしても、ナポレオンにしても、ポルポトにしても。日本の国民性から言って、そちらの可能性のほうが高かったと思います。現実もそうでしたが。また、倒れずに民主化しても、しばらくは、韓国のように、非常に抑圧的な民主化である事が多いです。それよりは、完全に倒れてくれて、再出発のほうが良いと思います。
ですからあなたは、仮に昭和戦前期の体制が開戦と敗戦によって自滅せずに民主化したとしても「非常に抑圧的な民主化」であろうから、「完全に倒れてくれて、再出発」すなわち現実の歴史のままで良かったのだとお考えなのだと、私は理解しました。
私は、「非常に抑圧的な民主化」であろうが、あるいは民主化せずに軍国主義のままであろうが、あのような膨大な犠牲を払う戦争はすべきではなかったという立場です。
そのために、どの時点での判断がどう間違っていたのか、どうすればよかったのかと考えることは、将来同じ轍を踏まないために、意義があることだと考えています。
軍国主義が誤っていたのだ、ハイオシマイでは、何の教訓も見いだすことはできません。
??意味が分かりません。驚くべき論理です。いつ私が戦争の犠牲を無視したのですか?むしろあの馬鹿げた戦争の犠牲によって得た憲法を無駄にしないように大事にすべしと言っているのに。こじつけもはなはだしいです。
それに、日本が戦争を自ら回避して、その上、民主化したなどという仮想の歴史の上に立てた論理にこじつけて、「その仮想の戦争がなかったら、あの犠牲は無かったのに、おまえはその犠牲を無視した割り切り」・・云々など、ご自分でおかしなことを言ってると分かりませんか?
.>自ら他国に戦争をふっかけ、あげく敗戦を招いて自滅したナチス・ドイツやわが国のようなケースがむしろ特異かと思います。
そうですよ。ご自分で言っていらっしゃるじゃないですか。日本は特殊だったと。だから、民主化なんか自力で出来たわけ無いでしょう。そのような冷静さがあれば、切れて国際連盟を脱退もしなかったし、負ける事が分かり切っていた太平洋戦争の中盤になっても、沖縄までやられても、考えを変えることはなかったのです。ご自分の都合の良い民主化物語は止めてください。
>スペインの例を挙げていらっしゃいますが、それは特殊な例で、ほとんどの軍事政権というものは、暴走を始めたら、後は倒れるまで暴走を続けるものだと思いますよ。ナチスにしても、ナポレオンにしても、ポルポトにしても。
ナチスやナポレオンやポル・ポトはいわゆる軍事政権とは違うと思いますが、これはおそらく独裁政権とおっしゃりたいのでしょう。
しかし、軍事政権、あるいは独裁政権でも、平和的に民主化したケースは多々あると思います。
スペインのお隣のポルトガルは、1932年から1968年までサラザールという独裁者の支配下にありました。やはり第二次世界大戦では中立を維持し、戦後はNATOに加盟しました。サラザールが病に倒れた後、その後継者は青年将校らによる無血クーデターにより打倒され、その後いろいろあって最終的には民主制が確立しました。
台湾(中華民国)も蒋介石・経国父子による国民党の独裁下にありましたが、李登輝総統の代に民主化しました。
ビルマも長年ネ・ウィンの独裁が続き、次いで軍事政権の支配下にありましたが、近年民主化への動きを進めています。
タイは軍政と民政を何度も繰り返しています。
自ら他国に戦争をふっかけ、あげく敗戦を招いて自滅したナチス・ドイツやわが国のようなケースがむしろ特異かと思います。
>それよりは、完全に倒れてくれて、再出発のほうが良いと思います。
それは、戦争による犠牲を無視した、安易な割り切りだと思います。
先の大戦はわが国にとてつもない人的・物的被害をもたらしました。
それがわが国の「再出発」と比べて引き合うものだったとは、私にはとても思えません。
仮に抑圧的体制が維持されたにしても、あの戦争は何としてでも回避すべきものだったと思います。
中身が問題なので、中身を言わずにただ押し付けられたものだからというのは、出来が悪かろうが何だろうが、国産が良いというようなもので、偏狭なナショナリズムとしか言えません。また、憲法を変えたい人のすりかえです。その論議はもううんざりです。中身を論議し、それが反対か賛成かで議論すればいい話です。
それから、長年、憲法を改正していないのはおかしいというのもおかしい。変えるところがあれば変えればいいし、無ければ、百年経とうが変えなくて良い。とにかく変えたいからと言って、おかしな論理にすりかえるのは止めたほうが良い。どうどうと、個別の憲法を問えばいいだけの話だ。
>現在のルール(96条)にのっとったプレイ(改正手続)を否定する者こそがむしろルール違反ではないのだろうか。
これはおかしい。改正させようとするのも自由だが、改正はダメだというのも自由だからだ。お互いその立場で投票すればいいだけだ。その投票の際の考えとして、改正に反対しているのであり、投票自体を禁止しているのではないのだから。
>たったの過半数では、国民の半分の意見を無視することになり、国民の総意とは言いかねるからです
なぜ51%ではいけなくて66.7%では良いのでしょうか。49%の異論は尊重しても、33・3%のいろんなラバ無視しても良い、その線引きはどこから導き出されるのですか?私は「発議」自体はどんどん行えば良いと思いますが、理由は国民が憲法について考える機会が増えるからです。
>半数で良いという人は、憲法の重要性をまったく理解していない人なので、話すのは無駄になります
ならば、私の意見にコメントをする必要はないのでは?時間のムダでしょうから。
>選挙に勝てないというのは、すなわち国民は望んでいないということです
当方浅学非才なので、「勝てない」と「国民~」がなぜ繋がるのか理解しかねるのですが、何もしないこと(憲法云々を話題にすること)=国民が望んでいない、ということなのですか?
ならば「護憲平和」で生きている社民党が選挙のたびに議席を減らしているのは、大多数の「護憲」を望んでいないということでは?
>国民の総意なのですから。それさえ過半数でよしとする人は、単純に自己本位なだけです
以前のコメントで「国民を信用していない」と仰ったようですが、そんなに総意を求めるのならば、100%賛成を主張されてはいかがですか?100%に限りない賛成が見込める国に、北朝鮮がありますが、北朝鮮はさぞかし民意が反映されている国なのでしょう。
国民が信用できないのであれば、100%でも66.7%でも51%でも、国家はあなたの望まない方に行くと思いますよ。
むしろ民主制を廃止して、「正論」を持った賢人会議でも作って、国家を運営しては如何でしょうか。
それだったら、国会を緩和する代わりに、国民投票は過半数ではなくて、3分の2にすべきです。重要な憲法なのに、国会は無いも同然で、国民投票だけで言いというなら、それぐらいは必要です。たったの過半数では、国民の半分の意見を無視することになり、国民の総意とは言いかねるからです。国会も国民投票も過半数で良いという人は、憲法の重要性をまったく理解していない人なので、話すのは無駄になります。
それから、今まで改憲がされなかったのは、特に緊急必要性も無かったからであり、国会に掛けられたことさえなかったからです。また、これを持ち出すと、選挙に勝てなくなるからです。選挙に勝てないというのは、すなわち国民は望んでいないということです。とにかく、憲法改定が出来ないことを、憲法96条のせいにするのは、筋が違います。
何も私は改憲するなといっているのではありません。簡単に発議(国民投票へ)出来るようにするなら、国民投票をもっと厳しくしなければいけないといっているのです。国民投票を3分の2ことには文句無いはずです。国民の総意なのですから。それさえ過半数でよしとする人は、単純に自己本位なだけです。
何かある度に「数の横暴」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、あくまで「発議要件」ですから私は過半数どころか3分の1ですらいいと思います。
ポンポンと改憲発議が出されようと、決めるのは国民投票ですからね。
戦後の憲法論の不幸なところは、103も条文があるにもかかわらず、改憲、護憲ともほぼ「9条」のみしか語られなかったことです。
103の条文に、重いも軽いもありません。
103の条文すべてが、憲法なのであります。
そうすれば、枢軸側の不利を悟って中立を維持し、戦後の世界の大勢に合わせて、より民主的な政権が誕生する可能性もあったと思います。
・・・それは全く無かったと思います。そのままの事態の推移を見守るも何も、中国とは開戦してましたし、満州国はあるし、朝鮮は併合状態ですし、それをアメリカが許すわけありませんから。許すためには、最低限、中国や満州から手を引く必要があったでしょう。そもそも暴走で中国に手を出した軍部がそれを飲むわけがありません。終戦の間際まで、往生際悪くバカな戦争を続けたぐらいですから。とても冷静な判断など出来る政体ではありませんでした。
また、百歩譲って、アメリカとの戦争を一旦は回避したとしても、満州支配や朝鮮併合は続いていたでしょうし、それも撤退したとしても、日本国内の抑圧的内閣はそのままであったわけです。その状態で民主主義を立ち上げるには、革命でも起き無ければ無理です。あまりにも楽観的なお考えだと思います。
スペインの例を挙げていらっしゃいますが、それは特殊な例で、ほとんどの軍事政権というものは、暴走を始めたら、後は倒れるまで暴走を続けるものだと思いますよ。ナチスにしても、ナポレオンにしても、ポルポトにしても。日本の国民性から言って、そちらの可能性のほうが高かったと思います。現実もそうでしたが。また、倒れずに民主化しても、しばらくは、韓国のように、非常に抑圧的な民主化である事が多いです。それよりは、完全に倒れてくれて、再出発のほうが良いと思います。
やはり最後のところでどこまでいっても意見は違うのだと思います。深沢さんは私よりも、96条改定に少し楽観的なようでいらっしゃいます。私は突如として96条と言うものが持ち出されてきた時にはじめてそういう憲法があることを知りました。当初は良く分からず、憲法を改定しやすくすることに半信半疑でした。また、そんなに重要とも思ってませんでした。
しかし、決定的にこれはあぶないと思い始めたのは、自民党の改正案を見たときからです。公共の福祉を公益と変えて、それに服することを義務とするとか、自衛隊を国防軍と呼ぶとか、天皇を象徴ではなく、元首とするとか・・・戦前の抑圧的な世を彷彿とさせるような内容でした。こりゃだめだわ。と思いました。おまけに最近の高支持率に酔って、閣僚は靖国に参るは、安倍総理はそれを支持するのみならず、侵略否定みたいなことは言うはで。
こんな政権に96条を変えられて、中韓の脅威を利用して、前期の様な憲法改正に国民を誘導されたらたまったものでは無いと思いました。そんな思惑に異を唱えなければと思いました。今、きな臭い段階で止めないと大変なことになると思いました。この国の国民は、一旦勢いが付くと止まりませんから。戦前(私が言う戦前とは昭和以降の戦前ですが)は、そのきな臭い前兆があったにもかかわらず、止めることが出来ませんでした。
本当の個人主義や民主主義が定着するのを待っていては、いつになるやら・・とのことですが、私はそうでもないと、そこは楽観的です。(と言うか、それでも待つべきと考えていますが。)この前の衆院選では、初めて政策で投票するという”芽”がでてきたように思います。まだまだムードや名前を知ってるからだけで投票する人が多いと思いますが、少しづつ日本も政策で投票するようになっていくのではと思っています。(ほとんど願望に近いですが)
どちらにしても、まず96条の改定と言うことではなく、堂々と現行条件のもとで、個々の憲法改定をひとつひとつ問うべきだと思います。もしそれで否決されれば、それはそれでまだ機が熟していないと思うべきです。何が何でも変えたいが為に、96条をまず変えよましょうという理屈には、どうにも納得いきません。
ちなみに私は、日露戦争までは割りと肯定しています。あのまま放っておいたら、中韓のみならず、日本もロシアの植民地になる危険性がありましたから。でも、その後満州に居座ったり、朝鮮を併合したり、中国に手を出したり、南方アジアに向かったり、勝ち目の無いアメリカとの戦争を始めたりはまったく否定します。特に、戦争に関わらず、戦前(昭和)の抑圧的な体制は間違っていたと思います。
私も基本的にはそういう立場です。記事本文中にも、
>また、現憲法や、占領下の諸改革の意義を全否定するつもりもない。評価すべき点は多々あろう。
>現憲法が諸悪の根源であるかのごとき主張もあるが、私はこれに与しない。
と明記しています。
この記事は、権力側が憲法改正規定を改正しようとするのは「ルール」違反であり、立憲主義に対する反逆であるという主張に対して、ではその「立憲」は誰によってなされたのかと問いただしたものです。日本国憲法が日本国民によって制定されたかのような欺瞞を突いたものです。
私は別に昭和戦前期のわが国を全肯定しているわけでも、占領憲法だから全てダメだと考えているわけでもありません。
>アメリカ軍は、進駐軍であると同時に、解放軍でもあったのです。だから、多くの日本人はあの敗戦と原爆まで落としたアメリカに恨みを持っていないのです。
そうした面があったことも事実でしょう。
>言いたいのは、あの時、日本はアメリカに負けたからこそ、民主主義を得れたと言うことです。もしも、アメリカに負けていなければ、あのまま抑圧的な軍政が続き、国民や他国を抑圧していたでしょう。
ここはちょっと違うと思います。
わが方からあの時点で開戦せずにそのまま事態の推移を見守るという選択もあったと思います。
そうすれば、枢軸側の不利を悟って中立を維持し、戦後の世界の大勢に合わせて、より民主的な政権が誕生する可能性もあったと思います。
スペインのフランコは枢軸側の協力を得て内戦に勝利しましたが、第二次世界大戦では中立を維持し、国土と国民を戦火にさらすことなく、戦後は西側陣営の一員となり、その死後に王政を復古し民主化を実現しました。
もっとも、こんなものは結果論でしかありませんが。
>だから、私はあの時、アメリカに負けて本当に良かったと思います。これが中国やロシアに占領されていたら都思うとゾッとします。アメリカだから、民主主義も手に入れられ、その後の経済発展もあったのです。そういったことを抜きにして、アメリカが作った憲法だからダメだと言う考えはどうなんだろうと思います
この点には同意します。だから、GHQ製だからダメだとは言っていません。現憲法の憲法制定権力が日本国民ではなかったことを指摘しているだけです。
>アメリカの意図はどうであれ、結果的にけっこうアメリカにはお世話になっているのです。
この点にも同意します。
>私としては、とにかく戦前のような抑圧的な国家にするような改憲は絶対にして欲しくないと言うことです。
私もそう思います。
ただ、抑圧的な国家になったのは明治憲法のせいだけではないと思います。大正デモクラシーなんてものもありましたし。
>深沢さんはあの戦前の態勢をどう思われますか?肯定されますか?あのまま日本がアメリカに勝って、中韓やアジアを支配していたほうが良かったと思いますか?勝っても国民は今の北朝鮮のような軍事国家に管理されていたと思いますが・・・その辺をお聞きしてみたいです。
全肯定はしません。全否定もしませんが、かなり否定的です。
詳しくは、このブログの左に表示されているサイドバーの「カテゴリー」中、「靖国」「日本近現代史」「大東亜戦争」「「保守」系言説への疑問」といったカテゴリーのt過去記事をご参照いただければ幸いです。
>このような低い民度の元で、自主憲法がどうのなんてこと自体がおこがましいのです。一人一人が考えられもしない国民がなぜ自主憲法なんて出来るでしょうか?最低でも、世襲議員に疑問を持って、彼らを生み出す一票の格差を是正しなければなりません。本当の個人主義や、民主主義が育ってないと思います。まだまだ民度が足りなさ過ぎだと思います。
そうした考え方も理解できます。しかし、人間のやることは所詮完璧ではありません。
わが国には戦前からポツダム宣言に言うところの「民主主義的傾向」があり、そして戦後70年近く民主制の下でやってきたのです。今さら戦前のような体制に戻るでしょうか。
また、わが国にはわが国独自の歴史があり、社会観や政治観も当然欧米と同一ではありません。
「本当の個人主義や、民主主義」なるものが定着するのを待っていては、いつになるやらわかりません。
「民度」というあなたのキーワードを用いるなら、民度が低いが故に、法の支配を徹底させるために、改憲を実現する必要がある。そのためには、憲法改正要件を緩和するのもやむを得ないのではないかというのが、今の私が傾きつつある考えです。
解釈改憲のままでいいと国民の過半数が考えているなんて、ふざけていると思います。
自主憲法は民主主義や国民主権によってなされなければなりません。そして、民主主義には、個人主義が必要だと思います。個人主義とは何か?他人に同調ばかりせず、自分で考えることも出来ることだと思います。これが西欧にはあったから、アメリカやフランスで民主主義が生まれたのだと思います。
日本はどうか?日本人は相手の心のうちをいつも気にしておもんばかります。これはいい時はいいのですが、悪い状態の時にも遠慮して、誰も異を唱えず、一気に悪い流れに乗ってしまうことがあります。戦前の軍事態勢や、バブルなどをみれば分かると思います。体制や世の流れに異を唱えず、従いやすいと言えます。だから、ものすごく、善良な面を見せる時と、戦前の軍事国家のような急に真反対の面も見せます。どちらかに突っ走りやすいのです。護憲出なければ、改憲、ハトはとタカ派みたいに。この国民性は要注意です。
また、自分で政策を考えて、政策で候補者を選ぶことはしません。だから昔ながらの世襲議員が多く当選してきます。自民党を見てください。ほとんどといっていいぐらい世襲議員です。
このような、大勢に流されやすく、自分で考えようともしない国民は、個人主義とは言えません。個人主義でなければ、正しく民主主義は出来ません。個人主義で個々人がしっかりと考えたものを基にした投票結果ではないからです。往々にして、世の大勢やなんとなくの空気に支配された投票行動だからです。
だから、このような低い民度の元で、自主憲法がどうのなんてこと自体がおこがましいのです。一人一人が考えられもしない国民がなぜ自主憲法なんて出来るでしょうか?最低でも、世襲議員に疑問を持って、彼らを生み出す一票の格差を是正しなければなりません。本当の個人主義や、民主主義が育ってないと思います。まだまだ民度が足りなさ過ぎだと思います。
それでも、道州制など憲法改正すべきものはすべきだと思います。しかし、この民度の低さを補う上でも、簡単に憲法を変えられるような96条をいじくるのは止めたほうがいいと思います。今の低い民度では危険です。ちゃんと日本人、個々人がしっかりと考えて決められるように、ハードルは今ぐらいに高くしておくべきです。世襲議員の比率が減り、日本人がムードで無く、政策で投票できるようにならない限り、96条の改憲はとても危険です。
結局、何度も言いますが、私と改憲(特に96条)積極派の違いは次の二点に尽きます。戦前の大勢を肯定するかしないかと、国民の民度を信じるか信じないか・・・です。私は戦前否定、民度は低しです。そのスタートが違う方とは、おそらくいくら議論しても平行線でしょう。
・・・とのことでいらっしゃいますが、私はどこがこの憲法をもたらしたからいいとか悪いとかはどうでもいいと思っています。悪いところがあれば直せばいいし、無ければ直さなければいいと思います。
それと、結局はあの戦前(昭和)を肯定するかどうかということに尽きるように思います。ここが結局はすべての出発点のような気がします。私は日本史上でもっとも暗く重苦しい時代だと思います。あのような国家が国民に重苦しくのしかかる時代は二度と嫌です。あの戦争を肯定する人達もいますが、その人達は、あの自国のみならず他国にも圧制を強いた体制を肯定しているのでしょうか?私は絶対に肯定したくありません。
そしてその圧制に終止符を打ったのが、太平洋戦争の敗戦です。普通、敗戦した国はがっくりきますが、なぜか、あの敗戦後の焼け野原の人々の風景映像には、なんとも言えない明るさとや希望を感じました。これは、敗戦と同時に、あの軍事体制からの解放でもあったからです。そして、アメリカ軍は、進駐軍であると同時に、解放軍でもあったのです。だから、多くの日本人はあの敗戦と原爆まで落としたアメリカに恨みを持っていないのです。
言いたいのは、あの時、日本はアメリカに負けたからこそ、民主主義を得れたと言うことです。もしも、アメリカに負けていなければ、あのまま抑圧的な軍政が続き、国民や他国を抑圧していたでしょう。だから、私はあの時、アメリカに負けて本当に良かったと思います。これが中国やロシアに占領されていたら都思うとゾッとします。アメリカだから、民主主義も手に入れられ、その後の経済発展もあったのです。そういったことを抜きにして、アメリカが作った憲法だからダメだと言う考えはどうなんだろうと思います
。じゃあ、日本はあのままで自分で民主主義を作れたのか?と思います。アメリカのおかげじゃないか思います。アメリカやフランスのように、自分で打ち立てた民主主義じゃありません。敗戦によってアメリカからもらった民主主義です。そして、多分にその民主主義や国民主権の精神が憲法に反映されたと思います。それなのに、よくもこの憲法はアメリカの押し付けだからダメだなんて簡単に言えると思います。
大体、明治で富国強兵でなんとか欧米(特にロシア)の植民地からまぬかれたのも、アメリカが黒船で早々に目を覚まさせてくれたからです。アメリカの意図はどうであれ、結果的にけっこうアメリカにはお世話になっているのです。今だって尖閣に中国が手を出しづらいのはアメリカのおかげです。
だから、そういうことを抜きにして、一概にアメリカに押し付けられたからダメだと、憲法の中身も何も抜きにして飛躍するのは、おかしいと思います。要するに、成立の経緯などはどうでもいいのです。問題は中身。これがおかしければ変えれば良いし、今のままで別段、支障なければこのままでいいのです。私としては、とにかく戦前のような抑圧的な国家にするような改憲は絶対にして欲しくないと言うことです。
その際に、もっとも恐れるのが、憲法96条の改定ということです。これだけは、一番、戦前に戻す際の憲法改定のキーとなるものだからです。それが分かっているからこそ、靖国参拝に熱心な自民党は、これの改定に一番こだわるのです。なぜ、彼らは戦前を美化するのか?それは、世襲議員だからでしょう。世襲議員はいわば特権階級です。一般国民とは違います。生まれながらに、国民の上に立つものとして誕生しました。生まれながらの支配階級なのです。だから彼らは、国民主権ではなく、戦前のような国が国民の上に立って政治を行う体制を欲するのだと思います。
話がそれましたが、要するに、戦前を肯定するかどうかが改憲に積極的かどうかに関わるのです。私が願うのは、とにかくあの戦前のような体制を復活して欲しくないと言うことです。あれを復活しようとするきな臭いがすると、非常に不安になります。だから、がちがちの護憲ではないながらも、簡単に96条を改正しましょうなんて考えることも出来ないのです。
深沢さんはあの戦前の態勢をどう思われますか?肯定されますか?あのまま日本がアメリカに勝って、中韓やアジアを支配していたほうが良かったと思いますか?勝っても国民は今の北朝鮮のような軍事国家に管理されていたと思いますが・・・その辺をお聞きしてみたいです。
過半数で決めたなら財産没収も虐殺もアリってのが民主主義であり、それを抑制するのが憲法。
自由・平等・普通選挙に関しては、三分の2ですら甘いと考える。