今日(1月17日)は、阪神・淡路大震災から17年が経ちました。
昨年は、東北大震災が起こり、あらためて日本は自然災害、特に地震の怖さを知らされました。
まだ、南海・東南海地震の発生が予想されています。
日本の宿命といえばそれまでですが、その対策を社会全体で考えていかなくてはならないと思います。
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現在の都道府県は、幕藩体制の藩を基礎に設けられたものでありません。
また、藩の領域を近代国家に相応しい地方行政の単位とすることは不適切でもありました。
最初は、版籍奉還がされた時は、江戸時代の藩がそのまま県になり、天領など群小領地はある程度まとめた上で同じく県とされました。
しかし、それが徐々に整理されて、明治4年ごろには北海道。沖縄以外が75府県にまとめられ明治9年ごろにはほぼ現在の形となりました。
その後も微修正が行われ、沖縄、徳島、福井、鳥取、富山、佐賀、宮崎、北海道、奈良の各道県が置かれ、明治21年に香川県が再登場して最終的に現在のかたちになりました。
ここまで書くと、すんなりと決まったようですが、中身は、かなり激しく離合集散がありました。
例えば、佐賀県は一旦三瀦(みずま)県(県庁所在地は久留米)に併合されたあと9年には長崎県に移されていました。
奈良県も堺県に吸収されたあと大阪府に入っています。
今年 辰年だけではなく、今後の平穏、平和を祈らざるを得ません。
そこで、領域の具体的な決め方というのは、何を基準にされたのでしょうか?
大まかに言って、各県の大きさが極端に違っては困るということが根底にありました。
特に江戸時代の藩には飛び地が多くあり、その整理をもしてゆかなくてはなりませんでした。
そこで、新政府が注目してのが、律令時代の国だったのです。
ナポレオンの時代、フランスでは、馬で日帰り出来るくらいを基準に決められほぼ同じ面積の領地にしたと言われています。
そのため、フランスの県は、ほぼ丸い形をしています。
県の数も83、また秦の始皇帝も分捕った国々は全国同じ面積とし、それが48に分けたと言われています。
これが中央集権的に行政を進めていくのに都合の良い目安と考えられているようです。
従って、明治政府も、これらを参考に、中央集権体制を目指して決められた律令制の国の復活を基本としてことは、充分、合理的であったのです。