徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

廃藩置県から道州制まで ③ -律令制の復活?-

2012年01月17日 08時32分25秒 | 明治維新とは・・・・

今日(1月17日)は、阪神・淡路大震災から17年が経ちました。
昨年は、東北大震災が起こり、あらためて日本は自然災害、特に地震の怖さを知らされました。
まだ、南海・東南海地震の発生が予想されています。
日本の宿命といえばそれまでですが、その対策を社会全体で考えていかなくてはならないと思います。

       ◎          ◎         ◎         ◎

現在の都道府県は、幕藩体制の藩を基礎に設けられたものでありません。
また、藩の領域を近代国家に相応しい地方行政の単位とすることは不適切でもありました。

最初は、版籍奉還がされた時は、江戸時代の藩がそのまま県になり、天領など群小領地はある程度まとめた上で同じく県とされました。

しかし、それが徐々に整理されて、明治4年ごろには北海道。沖縄以外が75府県にまとめられ明治9年ごろにはほぼ現在の形となりました。

その後も微修正が行われ、沖縄、徳島、福井、鳥取、富山、佐賀、宮崎、北海道、奈良の各道県が置かれ、明治21年に香川県が再登場して最終的に現在のかたちになりました。

ここまで書くと、すんなりと決まったようですが、中身は、かなり激しく離合集散がありました。
例えば、佐賀県は一旦三瀦(みずま)県(県庁所在地は久留米)に併合されたあと9年には長崎県に移されていました。
奈良県も堺県に吸収されたあと大阪府に入っています。

     
              今年 辰年だけではなく、今後の平穏、平和を祈らざるを得ません。


そこで、領域の具体的な決め方というのは、何を基準にされたのでしょうか?

大まかに言って、各県の大きさが極端に違っては困るということが根底にありました。
特に江戸時代の藩には飛び地が多くあり、その整理をもしてゆかなくてはなりませんでした。

そこで、新政府が注目してのが、律令時代の国だったのです。
ナポレオンの時代、フランスでは、馬で日帰り出来るくらいを基準に決められほぼ同じ面積の領地にしたと言われています。

そのため、フランスの県は、ほぼ丸い形をしています。
県の数も83、また秦の始皇帝も分捕った国々は全国同じ面積とし、それが48に分けたと言われています。

これが中央集権的に行政を進めていくのに都合の良い目安と考えられているようです。
従って、明治政府も、これらを参考に、中央集権体制を目指して決められた律令制の国の復活を基本としてことは、充分、合理的であったのです。


廃藩置県から道州制まで ②ー府藩県三冶体制ー

2012年01月15日 13時07分57秒 | 明治維新とは・・・・

このテーマの1回目(12月29日付)から少し日が経ちましたが、2回目をやっと載せることができました。

第1回で廃藩置県当時は、3府302県もあった行政区画が、今は1都1道2府43県となり、これが今後もっと少なくなる道州制が取りざたされていることを書きました。

江戸時代の行政区画が、その当時から”藩”と呼ばれていた訳ではありませんでした。
当時幕府による公式な呼称は、”領分”とか”領知”あるいは”知行地”でした。

そもそも藩というのは、本来の行政区画と一緒に考えない方がいいのかもしれません。
と言うのも、大名領は、将軍から臣従した大名に対して知行地として将軍からあてがわれたものです。
だから、将軍は、必要に応じてあてがった領地を追加したり、削ったり、没収したり、はたまた、領地替えをも出来ました。

   
     跳ね橋 (昨年の思い出 オランダにて)  水彩画F10号  

明治維新後の政体書によって始めて藩が公式の行政区画となり、そして、各藩は原則として藩庁のある所在地の名前によって藩名がつけられました。
例えば、「仙台藩」、鹿児島藩」など・・・・・

明治元年末までの戊辰戦争で若干の領地の入れ替えがあったものの、ほとんどの藩は幕末以来の領地をそのまま行政区画としました。

明治2年6月17日(太陽暦1869年7月25日) 版籍奉還で藩が明治政府の下で行政区画として、藩主が知藩事に任命され、ここで府藩県三冶体制が確立しました。
その体制は、廃藩置県ですべての藩が廃止されるまで続きます。

このように、廃藩置県の明治4年(1871年8月29日)まで、色々と変革しながら藩が廃止され、県が出来ました。

 


映画「聨合艦隊司令長官 山本五十六」

2012年01月14日 11時24分53秒 | 映画・社会

この映画には、「太平洋戦争70年目の真実」という副題がついています。
あの開戦(1941年)から、この映画が封切りされた2011年まで70年経っています。

この70年間に、真実が解明されたのでしょうか?

太平洋戦争開始までの日本は、今と同じようには比べようがありませんが、国民が閉塞感を持ち、三国同盟などで国論が二分されていました。

そんな中、ハワイ真珠湾攻撃が、世間では成功したと有頂天になりましたが、彼の意図とは違い、裏目に出てしまったようです。

最後通告が、ハワイ攻撃より1時間後になったことにより、アメリカの国民に対日戦争への闘志に火をつけてしまったことです。

 

 


この攻撃が、世間では、成功と言われているのですが、本当は大きなミスを犯しているのです。
まず、肝心の空母を1隻も沈められず、ハワイの燃料基地も手をつけず、あとの2次攻撃も出来ず、作戦的には中途半端な戦績でした。

そのミスを取り返すべき「ミッドウエイー海戦」でも甘い判断で好機を失い、壊滅的な失敗に終わってしまいます。

この状態で、山本五十六は、「講和」のために戦い続けるしかなかったようです。
本来は、もっと早く「講和」したかったのですが、まずハワイで勝ったという世間とのギャップに五十六が悩んだということです。

英雄視され偉人化されたところが多分にあるのですが、家族との団らんもあったのですが、軍人としてではなく、もっと人間的な面も掘り下げて欲しかったと思います。

 
 航空母艦”飛龍” 司令官 山口多聞(阿部寛)  東京日報 新聞記者 真藤利一(玉木宏)

この映画は若手の新聞記者とのやりとりが、映画の進行に欠かせないものとなっており、新聞記者の真藤利一(玉木宏)のマスコミとしての在り方の苦悩も見逃せないものでした。

山本五十六は、多くの格言・名言を残しています。
それが、より一層彼を偉人化にしてきた帰来があります。
もっと、なぜ彼が、開戦に反対したのか、部下に慕われたのか、この格言を見れば少しは分かる気がします。

人を動かすには

 やってみて、言って聞かせて、させてみて  ほめてやらねば 人は動かじ。
 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば 人は育たず。
 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

男の修行

 苦しいこともあるだろう。     言いたいこともあるだろう。
 不満なこともあるだろう。     腹の立つこともあるだろう。
 泣きたいこともあるだろう。    
 これらをじっとこらえるのが男の修行である。

アメリカとの戦い

 是非やれといわれれば、初めの半年や1年は、ずいぶんと暴れてごらんにいれます。
 しかし、二年、三年となっては、全く確信が持てません。
 
  (開戦の見通しについて、当時の近衛首相から聞かれた時の言葉ですが、後日談として、
   五十六は、絶対にやめるべきとなぜ言わなかったかと後悔したそうです。)
   
まだまだありますが、またの機会に・・・・・

 

 


大阪 三ヶ所の戎めぐり

2012年01月12日 10時47分44秒 | 旅行・観光

昨日、1月11日 大阪の3ヶ所の残り福のえべっさん巡りをしてきました。
と言っても始めから3ヶ所のえべっさんめぐりではなかったのです。

と言うのも、天満宮にえべっさんがあるとは思わず、堀川戎の近くということで天満宮に行けば、ここでもえべっさんのお祭りをしていたのには、少々驚きました。

ともかく、今日の予定は、堀川戎、天満宮、今宮戎であり、期せずして結果的に3ヶ所の戎めぐりとなりました。

今年の3社とも、人出が少なく、残り福の昼間だからでしょうか?
一昨年は今宮戎、昨年は西宮戎と尼崎戎をお参りしたのですが、その時より格段に人出が少ないように思います。

  
 本殿までガラガラの堀川戎      一人しかいない天満宮    警備員も手持ち無沙汰の今宮戎

心なしか、威勢の方も今一つだったようです。

堀川戎も天満宮もスピーカーの”笹もってこい”の掛け声だけが空しく響いているように思ったのは僕だけなのでしょうか?

まだ今宮戎の方が、人出はましではあるのですが、今までの内で一番人出が少なかったようです。
平日ということもあって、やはり宵から夜にかけて、務め帰りのサラリーマンが増えるのかも知れません。

いずれのしても、最後には、昨年の災害などや、景気の悪さからということになるのでしょうか?
考えようによっては、このような時期だからこそ威勢よく、活気が必要と思うのですが・・・・
福をもらいに行きながら、そのような気分になれず、考えさせられるえべっさんでした。

大阪、三ヶ所のえべっさんを見比べてください。  ↓   


古都奈良の初詣めぐり -大仏殿ー

2012年01月10日 09時10分10秒 | 旅行・観光

二月堂から土塀のある坂を下りて行くと大仏殿の屋根が見えます。
大仏殿の裏側に出てきます。   大仏殿の東回廊沿いを辿ってゆくと鏡池に出てきます。
入口は、中門を通り抜け、西回廊の端にあります。

 

   二月堂を出ると、大仏殿への標識  土塀の坂を歩いてゆくと・・・・後ろに二月堂が見えます。   



大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」、大仏の正式名称は「蘆舎那仏像(るしゃなぶつぞう)」といいます。
大仏は、聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が行われました。

現存する大仏は、当初の部分として残っているのは、台座、腹、指のごく一部が残っているにすぎません。
ある試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円となるそうです。

 


 

 後で知ったのですが、南大門の屋根裏金堂の前の参道の石が必見だそうです。
屋根裏は、巨柱の林立はまるでビル工事現場の骨組みの要だそうです。
また、参道の石は、インド産、中国産、韓国産、そして日本産の石が並んでおり、色などが違うそうです。 これらの国は、仏教の伝道の国を表しているそうです。



 
     台座のハスの模様                   あなたは通れるでしょうか?

 


古都奈良の初詣めぐり -二月堂ー

2012年01月08日 13時51分07秒 | 旅行・観光

東大寺は、西南部は興福寺、南東部には手向山八幡宮に接し、中央に金堂である大仏殿を配し、二月堂、三月堂もその境内にあります。

従って二月堂は、正式には、東大寺二月堂といい、奈良時代(8世紀)創建の仏堂で、現存する建物は1669年の再建で日本の国宝に指定されています。

二月堂は”お水取り”で有名ですが、正式には”修二会(しゅにえ)”といい、8世紀から連綿と継続され1250年以上続いている奈良の早春の風物詩ともなっている宗教行事です。

  

二月堂からは奈良市街方向を見ると大仏殿の大屋根が見え、この眺めは、いにしえの奈良の都を彷彿させられました。

 

東大寺は、永禄10年(1567年)の兵乱により創建時の建物の大部分を失ったのですが二月堂は類焼をまぬがれたのですが、寛文7年(1667年)に失火で焼失しました。
が、江戸幕府の援助を得て2年後には再建されました。

「お水取り」は3月12日の深夜に行われ、「お松明」とも云われ、関西では、「お水取り」でやっと春が訪れると言われています。
今から、その季節が待ち遠しいです。

 奈良東大寺二月堂 動画


         東大寺 境内図                                          


古都奈良の初詣めぐり ー若草山と手向山八幡宮ー

2012年01月07日 09時24分25秒 | 旅行・観光

春日大社を再び 

春日大社の動画

 
春日大社から二月堂に向かいました。
二月堂については、次回に書きますが、ここでは、その途中の若草山と手向山八幡宮の動画を・・・

 

若草山と手向山八幡宮

若草山
山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山とも云われています。
以前、訪れた時とあまりにも変わっており、少々驚きました。
ふもとが奇麗に整備されており、山腹にも柵などはなく、山頂まで駆け上がったのを覚えているのですが・・・・・

若草山と言えば、山焼きが有名ですが、毎年1月に行われています。
これは東大寺と興福寺による領地争いが発端とか言われていますが、真偽のほどは不明です。
標高は342mだそうです。

  
      若草山(三笠山)                     手向山八幡宮    


手向山八幡宮
この八幡さんは、東大寺及び大仏を建立するにあたり、宇佐八幡宮(大分県)より東大寺の守護神として勧請された。
天平勝宝元年(749年)のことだそうです。


今日は、小寒、一番寒い時期が・・・・・

2012年01月06日 09時42分45秒 | 今日は、何の日

今日1月6日は、小寒です。
今日から2月3日の節分までの期間は、1年で1番寒い時期と考えられて「寒中」と呼ばれています。

ということで、      ”寒中 お見舞い 申し上げます”


今日以降の1月の歳時記・・・・・・

1月 7日(土)   七草かゆ                 
1月11日(水)   鏡開き
1月15日(日)   小正月
1月21日(土)   大寒
1月23日(月)   旧正月

    
     春日大社のおみくじ                     我が家の床の間です
   ”大吉”だったので持ち帰りました。      今年のトラも掛け軸のように吠えて欲しいですね。          
 
七草がゆーーー七草の節句とも云われる通り、現在でも「七草粥」を食べて祝う行事です。
           江戸時代の公式な祝日であった五節句の最初の節句で、当時は七日の朝食に
           七草粥を食べました。
           七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。
           現在のように粥にして食べるようになったのは室町時代以降だそうです。

1月15日ーーー小正月は女正月とも呼ばれ、昔は対外的(公的)折衝は男の社会ですが、家庭内
           の活動は女性の社会という感覚が強く(今もそのようなところがありますが・・・・)
           大正月と小正月の役割の違いを云い現わしたものと思われます。

 1月23日ーーー旧正月は、旧暦の正月で、現在でも中国、台湾、韓国、シンガポール、ベトナム
           モンゴルでは、重要な祝祭日の一つです。
           なお、ベトナム、モンゴルはそれぞれ独自の暦があり、日付は、年によっては異な
           ります。


古都奈良の初詣めぐり -春日大社ー

2012年01月05日 11時19分03秒 | 旅行・観光

興福寺を後にして、奈良公園を通り抜けと春日大社の一之鳥居が見えてきます。
ここから直線の参道が続いているのですが、後で知ったのですが、ここが馬場なのだそうです。

一之鳥居すぐに馬出橋があり、ここから馬止橋までが直線になって、ここから流鏑馬が行われます。
この流鏑馬は、12月17日の春日若宮おん祭で催されるそうです。

春日大社は、1300年前の平城京の頃、称徳天皇の勅命により国の繁栄と国民の幸せを願って、香取神社や枚岡神社から神々をお招きし、荘厳な社殿を造営してお祀りしたのが始まりだそうです。

 

春日大社と言えば、灯篭が有名です。
夏の中元万灯籠や節分の時の節分万灯籠には灯が入り、実に幻想的だそうです。

流鏑馬とか万灯籠などを含めて多くのお祭りが行われています。
まわりは、春日山原始林におおわれ、去る平成10年12月に、この一体は「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

 

当初、初詣として余り人出はないものと、タカをくくっていたのですが、どうしてどうして、一之鳥居から多くの参拝者でいっぱいでした
ただし、混雑で歩けないと言うほどではなかったのですが、想像以上の人出でした。

 

本殿は国宝で、境内には、多くの社殿があり、その多くが重要文化財となっています。
このご神域には、若宮を始めとする摂社、末社として合わせて61社お祀りされています。


なお、春日大社という名称は、昭和21年(1946年)に春日神社から改称されました。


古都奈良の初詣めぐり -興福寺ー

2012年01月04日 12時23分23秒 | 独り言・社会・ニュース

2009年には神戸八社めぐり2010年は、京阪沿線の伏見稲荷、石清水八幡宮 そして昨年2011年は神戸三社めぐりと初詣をしてきましたが、今年は、僕自身も久しぶりの奈良を訪れました。

特に、今回は春日大社を主眼におき、近鉄奈良駅から興福寺、春日大社、二月堂、大仏殿を徒歩でゆっくりと物見遊山で回ってきました。

 今日は、まず最初に訪れた興福寺について書きます。
近鉄奈良駅から東向商店街を南に歩くとすぐ左側の道を入ると興福寺の西に出ます。

 
  北円堂                            南円堂       


左に北円堂、右手に南円堂が見えます。
さらに進むと仮金堂が工事中で、それを覆う塀が、ここでは無粋な空間に見えました。

興福寺は法相宗の大本山で、前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その「山階寺」は天智8年(669年)に藤原鎌足が重い病になった時に、夫人が夫の回復を祈願して造営されました。

  


2010年に創建1300年を迎え、多くの国宝や重要文化財
があり、まず興福寺と言えば”阿修羅像”を思い出しますが、これは国宝館に安置されているそうで、次回に訪れた時には是非とも見て見たいと思っています。

   


興福寺の名前は
、平城遷都の際、和銅3年(710年)藤原不比等の計画によって移されるとともに「興福寺」と名付けられました。

平安時代になっても、摂関家との関係が深く手厚く保護され、寺勢はますます盛んになり、一時は大和国を領し、守護を置かず、興福寺がその任に当るほど権勢が盛んでした。

江戸時代でも2万1千石を与えられ、明治になり、神仏分離令などで荒れていましたが、その後寺僧有縁の人々の努力で今日に至っているということです。

以前に訪れたのは、猿沢池から興福寺の五重の塔を眺めたものです。
特に南円堂は、西国三十三ヶ所の9番札所であり、今回納経帳を忘れたので、やはり再び訪れることになりそうです。

       
                 奈良公園にて