このテーマの1回目(12月29日付)から少し日が経ちましたが、2回目をやっと載せることができました。
第1回で廃藩置県当時は、3府302県もあった行政区画が、今は1都1道2府43県となり、これが今後もっと少なくなる道州制が取りざたされていることを書きました。
江戸時代の行政区画が、その当時から”藩”と呼ばれていた訳ではありませんでした。
当時幕府による公式な呼称は、”領分”とか”領知”あるいは”知行地”でした。
そもそも藩というのは、本来の行政区画と一緒に考えない方がいいのかもしれません。
と言うのも、大名領は、将軍から臣従した大名に対して知行地として将軍からあてがわれたものです。
だから、将軍は、必要に応じてあてがった領地を追加したり、削ったり、没収したり、はたまた、領地替えをも出来ました。
跳ね橋 (昨年の思い出 オランダにて) 水彩画F10号
明治維新後の政体書によって始めて藩が公式の行政区画となり、そして、各藩は原則として藩庁のある所在地の名前によって藩名がつけられました。
例えば、「仙台藩」、鹿児島藩」など・・・・・
明治元年末までの戊辰戦争で若干の領地の入れ替えがあったものの、ほとんどの藩は幕末以来の領地をそのまま行政区画としました。
明治2年6月17日(太陽暦1869年7月25日) 版籍奉還で藩が明治政府の下で行政区画として、藩主が知藩事に任命され、ここで府藩県三冶体制が確立しました。
その体制は、廃藩置県ですべての藩が廃止されるまで続きます。
このように、廃藩置県の明治4年(1871年8月29日)まで、色々と変革しながら藩が廃止され、県が出来ました。