江戸時代の教育体制には、大きく分けて寺子屋、藩校、私塾があります。
寺子屋が庶民の教育を担っていたのに対して、藩校は、武士の教育が目的でした。
なお、私塾は、後日述べますが、専門分野の教育(蘭学、医学など)が目的でした。
武士を教育するのが目的である藩校は、ほぼ一つの藩に1校はありました。
内容や規模はまちまちでしたが、ほとんどの藩では、藩士の子弟を強制的に入学させ、庶民は入学出来ませんでした。
日本初の藩校は、寛文9年(1669年)に岡山藩主池田光政が設立した花畑教場だそうです。
江戸時代に入り、武断政治から文治政治へと転換し、武力より学問を重視する傾向から各地に設立しました。
藩によって違いますが、初等教育から始まり、武芸・儒学・兵学・漢学などを教えていたようです。
藩校が全国的に広まったのは、宝暦期間(1751~64年)ごろ以降であり、多くの藩が藩政改革のため有能な人材を育成することを目的として設立された学校が多いようです。
長州藩の明倫館 会津藩の日新館
藩校が盛んになるにつれ、地方文化の振興や、地方をリードする政治家や学者が出てきました。
代表的な藩校としては、会津藩の日新館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、薩摩藩の造士館などが有名です。
幕末には、国学や漢学に止まらず、医学、化学、西洋兵学等の学寮を併設し、現代の総合大学にまで発展してゆく藩校もありました。
しかし、明治維新以後は学制改革の中で廃止された藩校も多くあったのですが、生き残った藩校は、旧制中学校となりました。
その後全国に文部大臣の管理する官立高等中学校が開設され、旧藩や藩医学校の流れをくむ多くの学校が生まれ、それが大学にまで発展してゆきました。
例えば、仙台藩の明倫養賢堂は、現在の東北大学医学部となっています。
その他主な所では、松江藩の文武館などが統合され、現松江赤十字病院。
岡山藩の花畑牧場は現在の岡山大学教育学部。
彦根藩の弘道館は現在の滋賀県立彦根東高等学校などで、その他にも現在小学校、中学校、高等学校が各地に残っています。
私立の高等学校では、藩校の名前を借りたものもあります。
例えば、秋田藩の明徳館は、その名前を借りて秋田明徳館高等学校などです。
ちなみに、江戸幕府直轄の昌平坂学問所は、現在の東京大学です。