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江戸時代の生活 ⑩ -教育(寺子屋)②-

2010年02月05日 11時12分09秒 | 江戸時代とは・・・・・

寺子屋による初等教育の就学率は、農村部まで含んで70~85%と推定され、これは、当時では世界一で、1837年頃のイギリスの大都市でさえ20~25%、革命後のフランスでは1793年に初等教育を義務化したにもかかわらず1.4%だったようで、これらからして、日本の江戸時代の就学率が高かったことがわかります。

しかも、幕府には教育を管轄する役所はなく、お上の計画に則って作られたものではなく、庶民の自発的に発生したシステムだったようです。

ということで、寺子屋に関する記録は、幕府や藩の公文書にはありません。
また、決まった入学年齢があるわけでもなく、家庭の事情によってまちまちでした。

        

寺子屋の起源は、室町時代からと考えられています。
当時は、僧侶となる少年を対象とする教育と、武士の子供を預かって初歩的な読み書きを教える教育の二面性を備えていたようです。

それが、庶民の子供にも手ほどきを与える風習が一般化してきました。
それには、親の子供に対するしつけや教養の必要性が、一般庶民に広まり、それに経済的な余裕も多少は出来てきたのではないかと思われます。

寺子屋の先生、師匠の職業も地域によって違っていたようです。
明治初期、東京府が小学校設立のために寺子屋師匠に提出させた調書には旧身分が書かれており、多いのは農民や商人などの平民(町人)でついで士族でした。
また、千葉県の調査での師匠の職業は、僧職が多く、ついで農民、神官、医師です。
このことから、江戸では、町人が多く、農村では僧職などが多かったことが分かります。

  

寺子屋の教科書は、総称して「往来物」が多かったようです。
往来とは「往復一対の手紙・書状」のことで、日常生活の中で使われているもので、これによって、季節の挨拶や年中行事や人の付き合いなども教えていたようです。
「往来物」は、江戸の民衆にとっては実生活に即した教科書で、教科書の代名詞にもなりました。

その他に文字を学ぶ「千字文」、地名・地理を学ぶ「国尽」「町村尽」。
「四書五経」などの儒学書、「徒然草」「百人一首」などの古典が用いられていました。