小規模な大谷石採石場跡。
赤さびたやぐらの下には深い立坑穴があると思われ。
とある廃坑マニアサイトには
「大谷には古い採石場の立坑穴が何の前触れもなく出現するから恐ろしい」
みたいなことが記されている。
数々の廃坑道を突破して来たマニアですら恐れる大谷RUIN。
大谷石。
需要が下火になって来たところに大谷陥没の大打撃で、採石量は激減、そのまま打ち捨てられた採石場もあれば厳重な囲いを持って閉められたところもある。
しかし、その後の管理がなけりゃ厳重な囲いも朽ちて立坑穴は露わにもなり、この採石場はその例なのだろう。
数十メートル先が底の落とし穴。
ああああっ!
その横を走り去る度に背中がゾクッとする!
久野健「日曜関東古寺めぐり」によると大谷磨崖仏は、
薬師三尊像が最も早く藤原中期頃、
千手観音と伝阿弥陀如来は、恐らく12世紀にはいってからの造像で、
伝釈迦三尊像は最もおくれるのではと考えている。
西の臼杵と並んで日本の磨崖仏を代表する大谷磨崖仏。
同寺寺伝の弘法大師の開基(?)はともかく、勝手な憶測を廻らせば、真言寺院として開かれたのではないでしょうか?
カメ様の御寺の開山が下野薬師寺に派遣された真雅高弟とすれば、大谷寺創建は、久野健氏推定年代(藤原中期)とあわせて考えれば、真雅高弟のそのまた弟子辺りになるのかもしれません。つまり、カメ様の御寺が下野での真言宗伝播の拠点になったと!飛躍し過ぎでしょうか。
地下に眠る大谷石の分布はこの辺を中心に広範囲に渡っており、地下坑道は宇都宮駅にまで及んでいるそうです。
この写真を撮った場所は宇都宮市福岡町で、そこから東に向かって新里町、田下町をまたいで大谷町となり、そこに平和観音や大谷寺、巨大地下空間として有名な採石場跡があります。
そうそう、この写真を撮ったところ直ぐ近くには同じ真言宗の多気不動尊があります。ぜひ一度お参りを!
話を大谷寺に戻すと、あの磨崖仏は「空海が自らの爪で一夜にして彫った」なる爪彫伝説があり、恐らく高野聖による口伝かと思われます。
その高野聖が真雅につながるものであるのか?
その可能性は無きにしも非ずと言うか、繋がっていない方がむしろ不自然かも知れません。
当寺は兎角謎が多くて・・・
と、これには先代、先々代の住職が歴史的なことに無頓着だったがために、昔を知る人からその当時の寺の様子を聞くこともなく過ごして来たことに責任がないわけではありません。
先々代時代のご年輩者の話であれば、この寺がたどって来た道のりが大よそながらも想像付くものであったでしょうに。
当然にして、今は話を聞きたくとも存命でいらっしゃるのはせいぜい大正生まれの方々です。
それと、鹿沼市千手山公園にお祀りされている千手観音(平安だったか?鎌倉だったか?)も、どうも当寺の管理下にあったようなのです。
それがどうして10キロも向こうの千手山に行ってしまったのか・・・それも分からないのですね。
手掛かりがごく少ない中でも何とか探り出し、多少肉付けもして寺伝をこしらえたいと思っております。
>カメ様の御寺が下野での真言宗伝播の拠点になったと!飛躍し過ぎでしょうか。
↑肉付け候補ナンバーワン!(笑