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旧愚だくさんブログ

愚だくさんブログ過去記事蔵です。

密教の哲学

2006年01月10日 | 仏教・仏像

あ~、今日のは難しかった。2時間の講義中、5回意識がぶっ飛んだ。何せ、一番眠たくなる午後2時からの講義なので、何時だって眠気防止には気配りしているものの、今日は内容の難しさに負けてしまってか睡魔に襲われっぱなし。強力なカフェイン剤も、ヘルシア茶も役に立たなかった。

カメが感じるに吉田先生のノリも今イチだった様な・・・。

さてと。今から、復習するか。・・・


今年最後の「密教の哲学」

2005年12月13日 | 仏教・仏像

今日で第6回目を終了したこの講義。
家族の協力の賜物で、これまで一度も欠席せずに来られたものの、はてさてその成果たるや如何に。
うーん・・・・相も変わらず「今日は、これこれこういう事を学びました」とクリアに言語化出来ぬ体たらく。
だって、難しいんだもん。それに、そう簡単に言葉で括れないのが哲学であり仏教じゃなかろーか。
なーんて開き直りばかり立派だったりして。

動物と違って人間は言葉を持つ。
心でも物でもないのが言葉。言葉は心と物の中間。
言葉の実体観が物を価値化し、それが我々の行動を決定する。言葉に囚われ差別化して見るのが我々の世界。
時に有るものを無いと言い、無いものを有ると言う様な虚妄性に満ちた言葉「戯論(けろん)」に我々が囚われる事で数々の煩悩が成立する。
想(想念)があり、想を実体化するのに戯論が起こり、人がそれに囚われて精神的な苦痛を感じるのであるから、戯論、そして想そのものを滅すれば良いわけだが、此処で釈尊は想を滅しようとせず、想を意識しない時に真に想を滅したことになる、と教える。
想うのでも想わないのでもない識別作用の止滅。
有る・無いの判断そのものの止滅。
あらゆる物への執着を断ち切り、無明(生老病死の苦しみの根本原因)と我執(自我に固執する見解)をうち破って、世界を「空」なりと感ぜよ。
※無明と我執で無我

・・・が、釈尊の教えの根幹で、これが大乗仏教の根幹ともなり、何れは密教に反映されて行く・・・なるところで、今日の講義終了。
「では皆さん、良いお年を」で終った。
それにしても・・・・嗚呼!むずっ!

講義が退けて、すっかり元の凡夫に戻ったカメは、子カメ達にデリシャスなお土産を・・・と思って銀座三越のデパ地下に行った。
そうしたら、何と琴欧州関がお付の人に囲まれながらスィーツ選びしてるじゃないのぉ。
流石は関取、大きかった~!
「今年は有名人と縁があるなぁ」と喜びながら、すぐさまケータイバチバチでご自慢メール。ヘヘ・・
まったく、これだもんなぁ。
つい先ほどまでの有り難い講義は何処へやら・・・・。
しかしですね、カメが大好きな言葉が
「煩悩即菩提」
あ~、救われるっ!
これだから仏教って好きよぉ!


「密教の哲学」第5回目終了

2005年11月22日 | 仏教・仏像

工事中をミスタイプして
恋路中だって!

我ながらナイスだわ~。

前にも書いたけど、22時30分以降になると「ブログ人」になる人が集中するせいかサーバーダウン気味で、上記の様な数行の文章をアップするだけでも時間が掛かって仕方が無い。それどころか折角入力した文章がぶっ飛んでしまう事すらあるので、ブログ作業をするのが遅い時間になってしまった時には、こうしてその日の「枠」だけ取って翌日書くようにしてる。
あ~、早くメンテしてくれないかなぁ~、OCN。

・・・それにしても「恋路中」はナイスだわ。←まだ言ってる
ミスタッチした「U」と「I」は並んでるから、今まで出なかったのが不思議な気がする。

ところで、今日は「密教の哲学」講座だった。
難解な講義にアップアップしながらも、専門書の力を借りつつ理解に近づける様に勉めたせいなのか、たまたま今日は頭がクリアだっただけなのか、嬉しくなってしまうくらいに講義内容が理解出来た気がする。
本当は、このブログで「密教の哲学」に関してカクカクシカジカと語れる様になれれば良いのだけど、哀しいかな、吸収した知識を文章化して発表するまでには自分のものに出来ていない。

講義中の余談。
「人は死後何処に行くのかとしきりに聞きたがるが、自分が生まれる前の世界が分からないのだから、死んだ後の世界なんて分かる筈がない。生きている今でさえ、自分で自分の顔を見る事は出来ないじゃないか」
「夜空に浮かんだ月を指して、月が出ているのを自分に教える人が居るとする。その時、意外と人は月を指す指を見て月を見ないのではなかろうか。この場合、月が実体なら指は虚妄。月が実体で指は月を表す言葉でしかない。人は実体を見ずして虚妄・言葉に囚われている。それと同じく、悟りと言うのは言葉でしかない。自ら実践してこそ実体としての悟りが開ける」
「夢から覚めた時にはじめて、自分は夢を見ていたのだと分かる。悟りを得た時にはじめて自分が迷っていたのだと分かる。そして他人の迷いも分かるから、覚者(悟りを得た者)は説法をする」
・・・こんな風に、余談ですら印度哲学。

この2時間は、コンソメキューブの様にうまみがギュッと詰まってる。
難解の余りに途中意識が飛ぶことが間々あるものの(笑)カメにとっては掛け替えの無い時間だなぁ。


松本明慶仏像彫刻展

2005年11月06日 | 仏教・仏像

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東武宇都宮百貨店に出向いて、5階イベントプラザで松本明慶大仏師の作品展、4階で下子カメの絵を観て来た。

松本明慶氏は、当寺御本尊・聖観世音菩薩を刻んで下さった方だけに、展示された250以上もの数の御仏達は当寺の観音様と御兄弟と言ってもおかしくないのかな?
ただ、当寺御本尊を制作された15年前と比べると、現在の作風は益々円熟味を増した感がある。
氏の仏像は、何と言っても御顔が良いと思う・・・丸顔、素直で上品な目鼻立ち。
それと、切金文様(極細に切った金箔で色々な模様を作り、御仏の衣を飾り立てる)が精緻を極めて、それは見事だった。


仏の教え=仏教

2005年10月12日 | 仏教・仏像

昨日は「密教の哲学」講座の日だったけど、相変わらず難し~!
難易度が高いせいか、回を追うごとに受講者数が減って行く様な気がする。
このカメも何時脱落するか分かったもんじゃない。

そう言えば、高校の倫理社会は、ソクラテス、ニーチェ、マルクスなどに充てた時間に比べると、釈迦のそれは少なかった気がする。
こうして今、考えると釈迦の哲学は広範に渡り尚且つ深度充分なので、授業に使うには適してないと判断されてたのかもしれないなぁ・・・。

これほど有意義な講義を分からないままにしておくのも勿体無いので、講座が退けた後に八重洲ブックセンターと三省堂書店をはしごしてソレ関係の本を何冊か選んで来た。
岩波文庫青ラベルの中、経典の直訳本がどんどん廃刊になっているのがツライところ。
副住職が学生時代に買い求めた本の再版などは、今じゃトンデモナイ値段が付けられてる。

・・・ところで、講座会場フロアの隣は畳何畳もの大広間になっており、昨日はそこで御詠歌講習会が開かれていた。
お大師様を讃える御詠歌を聴きながらの密教の哲学講義も、中々オツなものざんす。


面白いけど難しい

2005年10月02日 | 仏教・仏像

「密教の哲学」講座で取り上げられた経典「大乗起信論」がぜ~んぜん分からないので、「きっと、誰かが解説してるであろう」とネットで検索掛けたら、結構な数のサイトが出てきた。
書籍の紹介から大学教授のレポートまでの幅広さの中に、寺のHPがチラホラ混ざる・・・それは、自分の寺のHP内で、住職若しくは副住職が仏教経典に関する詳しい解説を書き綴っており、そのレベルの高さには、ただただ唸るしかなかった。
中には、より沢山の人に経典を知って貰おうとしてなのだろう、“若々しいご隠居”と“聞きたがり屋の寅雄さん”の2人の架空人物(もしかして実在だったりして。しかし何故に“若々しい・・”なのか)を設定してのシナリオ形式で読みやすく・分かりやすくまとめられているものまであった。

・・・いやぁ、寺院HPも此処までのレベルに到達出来れば本望だわなぁ。

「如来と菩薩はどう違うのですか?」、「曼荼羅って何?」、「地獄は本当に存在するのですか?」などの質問を受けることがあるけれど、それらの答えは全て経典の中に明らかにされている・・と言うか、それらは全て経典が元になっているから、経典を噛み砕いて説けるまでの知識を持てたら、どれ程的を得た答えが言えるだろうと思わずにはいられない。

・・・しかし、難しいんだなぁ、仏典。

子カメ達は、「宇宙は果てしない」の「果てしない」を考え始めると頭が痛くなると言うけれど、カメは仏教の真髄とも言うべき「空」を考え始めると頭が痛くなって来る。
・・・もしかして、両者、似たようなものか?

先週、NHK学園通信講座から「はじめての仏典」の受講案内パンフが郵送された。
わ!タイムリーじゃん、NHK学園・・・流石に15年の付き合いだけある。(関係ないか)
受けようかな?「はじめての仏典」
しかし「はじめての・・・・」かぁ・・・何だかなぁ。
でも、実際そのレベルだよなぁ。


難解も、また楽し

2005年06月14日 | 仏教・仏像

本日「密教の哲学」第二回目講座に行って来たけど、二回目にして早くも脱落か・・と危惧するくらいに難しかった・・・聴いてる事の概要は分かるものの、それが理解に通じているのかどうかは、甚だ疑問。
特に、空海が24歳の若さにして初めて著した「三教指帰(さんごうしいき)」に続く二番目の著作「辯顕密二教論」の引用あたりは付いていくだけで精一杯で居眠りする余裕も無かった。ハハ・・
・・・暇があると、副住職が学生時代に買い溜めた本を引っ張り出しては読んでるけど、智山派の能化様である宮坂宥勝管長猊下と梅原猛共著の空海または密教関係の本は、とっても分かりやすくて、読み物としても楽しい。

さて、この講座も来月・再来月と休講になる。
それは、来月7月は、都心部の御寺院が、翌8月は田舎(?)の御寺院が盂蘭盆会で忙しくなるから。
こんな時、寺の人間ってのは季節労働者だよなぁ・・・と、今更ながらに感じ入ってしまう。
農繁期、農閑期ならぬ寺繁期(ん?自販機?)と寺閑期(ん?時間給?・・・あ、かなり無理アリ?)ざんす。


案ずるより横山やすし

2005年05月11日 | 仏教・仏像

悩みに悩んだ末、真言宗智山派伝法院平成17年度講座のうち「密教の哲学」を受講することに決め、昨日が第一回目。
伝法院講座は、仏教や真言密教を学ぼうとする僧侶や寺族、または一般人向けに開かれたものなので、カメが何を受講しても一向に差し支えない筈なのだけど、この「筈」が中々の曲者。現代社会にあってすら封建的な寺社会ゆえ、このカメ如きが智山派研究機関・伝法院の門扉をくぐっても宜しいものだろうか・・・などと結構深刻に悩んだが(詳しくは「アウトロー嫁の嘆き」に)、どう悩もうと、どう自分に対して否定的になろうと、講座への興味の方が勝っている気持ちを抑える事が出来ずに、「此処は一つ思いきろうじゃないか」と決めた。
しかし、案ずるより生むが易し・・・講義会場に堅苦しい雰囲気は無く、受講生の皆様は「聴く悦び」に満ち溢れている。おおっ!
それに何より期待以上に面白き内容!
初日の昨日は、神を頂点し、その下に人間→動物→植物→鉱物と下がるピラミッド型の思想をするギリシャ哲学やキリスト教と、天・人・阿修羅・地・餓鬼・畜生を横一列に平たく並べる思想のインド哲学や仏教の差異を取り掛かりにしながら、密教の世界の入り口前にたどり着いたところで終了。
次回からは、経典に基づいて「密教の歴史」を学び、更には「弘法大師密教の哲学的問題」と発展し、「密教の哲学とその現代的意義」で収束となる予定。

あ~!思い切って受講して良かった!
1ヶ月後の次回が待ち遠しい!


アウトロー嫁の嘆き

2005年04月20日 | 仏教・仏像

真言宗智山派「伝法院」からの講座案内が届いた。
「伝法院」とは、弘法大師や興教大師(真言宗中興の祖)の真精神を体得し、これを現代の人々に伝えるを旨とする智山派の研究機関。
「密教の哲学」「近代仏教を学ぶ」「両部曼荼羅の世界」などなどの講座名が並び、読んでるだけでワクワクもの!中でも「(略)密教は釈尊の悟りの世界そのものへ、今ここで直ちに入る方法を説くものである。それは如何にして何故可能なのか、これらについて釈尊仏教から弘法大師の仏教に到る全歴史を原典に基づいて解明したい」なる講義概要の「密教の哲学」に興味津々。
し、しかし!「寺庭婦人講座」と特別に設けられた講座は「寺庭婦人のための心理学入門」だって・・・。
「本講座で学んだことが、実際の寺院生活における檀信徒理解や応対の仕方にも役立つようになることを目指します」だって・・・。
・・・つ、つまんねぇ。
しかし、それをつまらないと感じるのは自分だけで、周りは「そういう講座こそが、貴女に一番必要なものだ」と思い、それが本当の処なんだろうな。
それは分かっていても、折角こうして偉大なる空海の教えを伝える真言寺院の末寺に暮らすのだから、やはり真言密教の不思議を知りたいし、機会あらば学びたい。

此処で我が身を振り返るなら、昔から「優先順位付け」が苦手だった。
そして、今もこうして前後を違えた順位付けをしている。
寺庭婦人としてのプロ意識(?)が高けりゃ、迷う事無く「寺庭婦人のための心理学講座」チョイスだよなぁ・・・・しかし、今までと同じ轍を踏もうと、やはり「密教の哲学」が良いなぁ・・・。