民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

やられたらやりかえす、じゃなくて、もらったら必ず返す

2013-09-19 17:35:24 | 民俗学

このところ葬式の変化についてずっと考えています。ところが現実の方が激しく変化し、マスコミなどでは取り上げられない週はないくらいになってしまいました。こんなに話題になってしまいますと、研究として何を突いていけばいいのか、かえって迷います。最近考えているのは、義理に対する考え方、まあ義理そのものといってもいいんですが、それが変化してしまった、あるいは葬式が変化した結果、義理が変化したのかもしれませんが、ともかく義理が変わったんではないかと思います。そこで、そもそも「義理」とは何か。広辞苑によりますと、①物事の正しい筋道。道理。②わけ。意味。③人のふみ行うべき正しい道。④特に江戸時代以後、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行為やものごと。体面。面目。情誼。⑤血族でないものが血族と同じ関係を結ぶこと。とあります。このうち、葬式などでいうところの義理とは、④に当たるものですね。本人がたとえいやだと思っていても、務めなければならないものごとで、そうしないと体面を欠いてしまう。なぜ務めなければならないものごとであるかといえば、互酬性の原理が働くからなのです。

今テレビドラマでは、「半沢直樹」が話題です。やられたら、「倍返しだ」とか「100倍返しだ」というセリフ、そしてそのとおり耐えた主人公がやり返していくことに、視聴者は胸のすく思いをするのでしょう。この、やられたらやりかえすにある面似ていますが、贈り物はもらったら必ず返すというのが、世界の常識です。世の中には、贈り物競争をして、相手が絶対返せないほどの贈り物をして相手の面目をつぶす、そんなことをしていた民族もいました。ただ、身分の上下関係があらかじめありますと、目下から献上した物とは比べ物にならないほどを目上からは与えなければなりませんでした。日本と中国との国家間の貿易は、かつてそうしたものでした。このことを逆に考えると、人から多大な物をもらいながら、お返しが少なければ私はあなたの僕ですと表明したようなことになってしまいます。ましてや、もらっておきながらお返しをしなかったら、社会的には大変なことになり、面目丸つぶれということになりました。そこで、何の機会にどこの家から何をもらった、ということを細かにつけておいて、自分がもらった家には同程度を必ず忘れず返すということを続けてきました。長いスパンでのお返しの持続といってもよいでしょう。ここで注意しなければいけないのは、こうした行為はイエを単位として行われてきたということです。そのイエからもらったからそのイエに返すのです。前提は、イエの継続です。ところが、現代のように基本は夫婦で一代限りというようなイエの考え方になってきますと、義理も変わらざるをえません。もらった義理は、その場でのお返し物で済とする、という考え方に大方が変わりつつあるのではないでしょうか。