民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

富山の葬儀に参加

2013-11-15 17:36:28 | 民俗学

魚津市の身内の家で葬儀があり、通夜から参加しました。10日の朝病院で亡くなり、11日に納棺・通夜、12日に葬儀・火葬という手順でした。ここは葬儀の後に火葬となっていましたので、どのような日程となるのか不謹慎ながら、興味深く参加しました。

私は11日の昼過ぎに葬家に着いたのですが、故人は自宅の床の間の前に安置されていました。お参りさせていただき、隣の部屋で休んだのですが、家族は飼い猫が個人が安置されている部屋に入ってしまうことを心配し、しばらく繋いでおいたがあまりに泣くので放したところ、どこか外へ行ってしまったといいました。夕方坊さんや近しい人たちが集まり、5時から納棺しました。寺は真言宗でした。坊さんが読経している中、葬儀社の納棺師が遺体にかけた白い布の下に手をまわして遺体を吹き清め、白装束を着せて手甲脚絆を付けました。その間親族は何もせずに見ており、身づくろいが終わると身内の方でお化粧をされますか、やられなければ私がしますがといい、(故人はおばあさん)娘が化粧をすると、それを見ていました。次に故人の敷いているシーツの四隅についている紐というか握る部分を4人の男性が持って、棺に納めました。そして、故人の死に装束の上に普段着ていた多分お気に入りの服をかけました。次にお花入れの儀とかいいましたか、参加者で遺体の顔の周辺を花で飾りました。故人の好きだったような物も棺に入れ、蓋をしましたが蓋をくぎで止めることはありませんでした。後からやるのかと思いましたが、火葬場に行くまで棺がくぎで閉じられることはありませんでした。蓋をされた棺は霊柩車に移され、通夜の会場、翌日の葬儀の会場でもありますが、に移送されました。外はもう暗く近隣の方が遺体を見送ることはありませんでした。
 通夜会場は、葬儀会場と同じで祭壇飾りがなされており、祭壇の手前に棺は安置されていました。通夜は通夜式と表示され、葬式と全く同じしつらえでした。坊さんが読経し、親族と参加者がお焼香し、喪主がお礼を述べて終わりました。喪主の勤務先の関係者が、かなりお通夜に来ていました。焼香の時、参加者全員が数珠を手にしているのに驚きましたし、焼香台に百円玉が小さな器の中に入っているのを不思議に思いました。翌日教えてもらい、数珠は必ず持つべきもの、焼香に際してはお賽銭として100円を入れる事がわかりました。通夜の後、簡単な通夜振舞があり、納棺に参加した近しい親戚が参加しました。遺体は別室の和室に移され、孫たちが一晩明かしました。
 翌日午前10時から葬儀。会社関係者は通夜に来ているので、偉いひとだけ来るといいます。葬儀後都合のある人は帰り初七日の法用。その後、棺の蓋をとり祭壇の花を切って参会者で最後の別れだと、故人の周囲を飾りました。後できくと、こんな趣向は初めてで、あれはちょっと、といっていた人もいました。そして出棺。近しい人(故人の兄弟関係者、故人の連れ合い関係者、故人の子どもの関係者)、だいたいが納棺に参加した人が、霊柩車とバスで焼き場へ。近隣の人などはここで見送りをしました。。焼き場で読経の後故人を釜に入れると、一旦葬儀会場に戻り昼食休憩をとりました。一時間半ほどの後、拾骨のためにまたバスで火葬場へ向かいました。火葬場は人家から離れた山間にありました。葬儀社のホールもその近くにある理由が、ようやくこれでわかりました。交通の便だけなら街の中にホールはあったほうが便利なのですが、葬儀場と火葬場の行き来を考えれば、火葬場の近くの会場の方がむしろ便利なのです。今回の会場の近くにも、もう1社の別のホールがありました。拾骨でも違っていました。ここでは、あらかじめ骨を選別して比較的大きなものと頭蓋骨だけが大きなトレーの上に乗せられていて、親族はそれをはしではさんで骨壺に入れました。2人ではしで受け渡してなどという事はありませんでした。また、小さな骨壺が手もと供養用に別に用意されていて、そこにも入れたのは初めてでした。拾骨が終わると葬儀会場に戻り、私は帰りましたが、近しい人々は葬家でこれから精進落しだということでした。葬儀会場に帰ったのは3時頃でしたか、葬家の人々は更にこれから一席設けなければいけませんから、大変なことです。

これについての考察は後ほど書こうと思いますが、火葬する時間の事を考えれば、葬儀の前に火葬するのは長野県人らしい合理的な方法だと納得しました。


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