民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

政治の言葉と私たちの言葉

2015-05-16 18:38:16 | 政治

 先の大戦で大本営は負け戦を認めようとせず、撤退を「転戦」といいました。満州侵略を認めず、満州は日本の生命線であり、それを守るのだと言いました。今の政権は、集団的自衛権の行使は、戦争をするためではなく平和をまもるためだといいます。閣僚の奥さんたちが、政府の説明を聞いてもわからないといっているそうです。これはどういうことでしょうか。

 私たちが日常に使用している言葉は、できるだけわかりやすくして自分の真意が正確に伝わるようにと思われたものです。つまり、意味する「言葉」と意味される「中味」が、情報の発信側と受信側とで齟齬がないように、共通のコードを使用しようと努力します。共通のコードは世間で誰もが普通に使っている語と文法に依拠しています。

 ところが今回の法案は、意味するものと意味されるものが意図的にズラされているので、文章を読み説明を聞いても理解できないものとなっています。新たな用語を作って、その意味するものを、そのままの言葉の意味を無視して定義するから、訳がわからなくなります。たとえば、戦争の準備をして相手を威嚇することを、「平和」と名付けるようなことです。言葉の意味する内容を意図的に変更してありますから、いくら国会で論戦しても議論はかみあわないと思います。かみあわない議論の時間を積み重ねた上で、十分議論したとして多数決で法案を押し切るのでしょう。いつからこんな国になってしまったのでしょうか。中国との間の宣戦布告のないズルズルとした長期戦への突入、そしてやけっぱちの日米開戦もこのような状況で知らず知らずのうちに引き返せなくなってのものだったのでしょうか。馬鹿な国民のせいなのですが、その中に自分もはいっています。

 「絶対に戦争をするための法案ではなく、確かな平和を構築するためのものだ」といっている安部は、将来戦争になったときにはどんな責任をとってくれるのでしょうか。戦場に送る自分の子供がいない気楽さが言わせているとも思いますから、これからどれだけ年をとろうとも生きている限り、彼には最前線に身を置くことを約束してほしいものです。


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