私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) | |
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講談社 |
☆本書36ページ。
人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人individual」ではない。複数の「(分割可能な)分人dividual」である。人間が常に首尾一貫した、分けられない存在だとすると、現に色々な顔があるというその事実と矛盾する。それを解消させるには、自我(=「本当の自分」)は一つだけで、あとは、表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないと、価値の序列をつける以外にない。
しかし、この考えは間違っている。
☆なぜ間違っているかというと、
☆この「本当の自分/キャラ・仮面・ペルソナ・嘘」という「個人」の構造・枠組み・概念が
☆近代の矛盾を生み出してきたからだと。
☆平野啓一郎氏のその理由を、近代の矛盾というレンズに通すと
☆その矛盾とはこうなるかもしれない。
1)実際には本当の自分は見えないから、可視化されているキャラや仮面、嘘が反映した社会が近代社会。本質なんて結局あってもなくても社会には関係がない。
2)分人は当事者のみならず社会のあちこちにいる人間同士の関係の中でその都度うまれてくるが、キャラ・仮面・ペルソナは固定化してしまう。レッテル貼りが起こる。了解志向ではなく成果志向に陥る。
3)「本当の自分」こそ、実は幻想で、価値を押し付けられる装置になってしまっている。近代がファシズムを生んだ理由が「個人」という概念が内包する矛盾素にあったのだ。
☆この近代の矛盾が、思春期の葛藤を乗り越えられない壁として現れるのも
☆「本物の自分/嘘の自分」を内包している「個人」概念に由来する。
☆思春期の葛藤を乗り越えられない状態について、平野啓一郎氏は
☆自分の中学時代を思い出してこう語っている。37ページ。
私たちは、たとえどんな相手であろうと、その人との対人関係の中だけで、自分のすべての可能性を発揮することは出来ない。中学時代の私が、小説を読み、美に憧れたり、人間の生死について考えたりしていたことを、級友と共有出来なかったのは、その一例である。だからこそ、どこかに「本当の自分」があるはずだと考えようとする。しかし、実のところ、小説に共感している私もまた、その作品世界との相互作用の中で生じたもう一つ別の分人に過ぎない。決してそれこそが、唯一価値を持っている自分ではなく、学校での顔は、その自分によって演じられ、使い分けられているのではないのだ。分人はすべて、「本当の自分」である。
私たちは、しかし、そう考えることが出来ず、唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。どこにも実体がないにも拘わらず、それを知り、それを探さなければならにないと四六時中嗾(そそのか)されている。それが、「私」とは何か、というアイデンティティの問いである。
☆本当の自分がどこかにあって、あとは嘘の自分が演じているという考えは、近代以前から実はある。しかし、それを近代人の特徴として全員に刻印したのは、歴史的には新しいということのようだ。
☆つまり、発想は近代以前にあり、「本当」という概念があるかないかは、結局普遍論争にたどりつく。
☆だから、平野啓一郎氏は、「個人」の萌芽を、キリスト教に見いだし、
☆キリスト教の布教の武器であった「論理学」に見いだしている。
☆しかし、それがキリスト教や論理学に由来するとしても、
☆その両者は、すでに「分人」的発想も有してきた。
☆三位一体という分人的神性をめぐってキリスト教の歴史は
☆壮絶な血の歴史でもある。
☆その論証を「論理学」が担ってきたということもあるが、
☆「論理学」自体、三段論法という本当の自分を正当化する論だけではなく、
☆弁証法やパラドクスの論理の興亡の歴史でもある。
☆平野啓一郎氏の小説と論考は、この時代の流れを文学という
☆ユニバーサルなメディアに浸透させたところに、得難い才能の広がりがあるのだと思う。