教育のヒント by 本間勇人

身近な葛藤から世界の紛争まで、問題解決する創造的才能者が生まれる学びを探して

養老孟司先生とW.ジェームズ

2006-03-11 09:17:31 | 学びの時空

前回「W.JAMES“PRAGMARISM”の発想 【2】 」の中で

“The new contents themselves are not true, they simply come and are. Truth is what we say about them, ・・・truth is satisfied by the plain additive formula.”という箇所を引用した。

養老孟司先生のベストセラー「バカの壁」の中にこういう箇所がある。

「(脳への)入力は情報が脳に入っていくことで、出力は、その情報に対しての反応。入力は五感で、出力というのは最終的には意識的出力、非常に具体的に言うと運動のことです。運動といっても、別にスポーツのことを指しているわけではありません。話すのも運動だし、書くのも運動だし、手招きも表情も、全部運動になる。さらに言えば、入力された情報について頭の中で考えを巡らせることも入出力のひとつです。この場合出力は脳内の運動となっていると考えればよい。コミュニケーションというか形を取る場合は、出力は何らかの運動表現になる」

つまり「言葉」というのは「脳内出力運動」のもう1つの「出力表現」という「運動」が加わっているということだ。

この「出力表現運動」がW.ジェームズの“the plain additive formula”である。

そして養老孟司先生は、この入出力の運動系をy=axという方程式で表現する。xを入力、yを出力、aを「現実の重み」係数。

W.ジェームズのいう“The new contents themselves are not true, they simply come and are.”は、a=1のケースをいうわけだ。

この係数「現実の重み」が軽いか重いか、はたまた虚数なのかどうかで、出力は変わる。

そして「表現方法」=g(x)によってそれは増幅も縮小もありうる。

真理はだから、y=ax=f(x)だとすると、y=f(x)・g(x)となる。もっともg(x)も脳の出力運動の一形態であるとすれば、

真理=言葉=脳内出入力運動=y=axということになる。

ということは唯脳論=唯言論ということになる。

W.ジェイムズのプラグマティズムは唯脳論であり、唯言論でもあるということか。

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