クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

中欧4ヶ国を訪ねて

2013年07月15日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 5月28日~6月04日
世界遺産チェスキークリムロフ歴史地区 → 世界遺産プラハ歴史地区 → 世界遺産ブラスチラヴァ歴史地区 → ブタペスト・ゲッレールトの丘 → ドナウ川クルーズ → 世界遺産ブタペスト歴史地区 → 王宮礼拝堂のミサ → 美術史博物館 → 世界遺産ウィーン歴史地区 → コンサート<モーツアルト&ヨハン・シュトラウス>

一度は行きたいと思っていた中央4カ国(チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリア)の旅がやっとい実現、ショパンの母国ポーランドが加われば最高だったのだがそれは贅沢というもの、素晴らしかった旅の思い出をやっと載せることができた。

ゴシック、ルネッサンス、そしてバロック時代の建築様式を今に残す美しい町並みが並ぶチェスキークリムロフ歴史地区(世界遺産)を訪れる。
アーチ状となった入口から旧市街地区に入り、旧い建物が続く街の角を眺めるとお城の塔が見える。
大きく屈折するヴルタヴァ川(スメタナの交響詩で有名なモルダウ川)に抱かれた旧市街が美しい。
  

13世紀にヴィートコフ家の居城として建てられ、その後何度も増改築が繰り返されたというチェスキークリムロフ城を見渡す。
逆に城の中からの旧市街の眺めも風情がある。
 

世界で一番美しい街と言われるプラハ歴史地区(世界遺産)を訪れる。
まずは、14世紀のカレル4世の時代にほぼ現在の形になったと言われるプラハ城を目指す。
プラハ城の入口には、兵士が門の前に立っていて訪れる観光客を迎えてくれているのが面白い。
 

城の中で圧倒的な存在感を持っているのが聖ヴィート大聖堂で、どこから眺めても目立つ塔の高さは96.6mもある。
ホールの中は素晴らしく、特にミーシャがデザインしたステンドグラスの美しさは際立っている。
  

プラハ城からの帰りの道から旧市街を望む。
いつも賑やかというカレル橋には30体の聖像が並んでおり、そこには聖フランシスコ・ザビエルの像もある。
橋を渡った先の広場には、プラハの街の繁栄を築いた神聖ローマ帝国の皇帝カレル4世の大きな像が立っている。
12時に時を知らせるプラハ旧市庁舎の仕掛け時計、時間になって像みたいなものが動き出しさあこれからと思ったら、それだけのことですぐに終了。
  

竹久夢二にも通じる独特の絵で有名なミーシャの美術展を見たあと、カレル橋のすぐ脇にあるスメタナ博物館を訪れる。
スメタナの像に挨拶して中に入ると、一番の代表作である交響詩「モルダウ」の美しいメロディーが流れている。
 

スロヴァキアの首都ブラスチラヴァ歴史地区(世界遺産)を訪れる。
ドナウ川と旧市街を見下ろす小高い丘の上に建つブラスチラヴァ城は、テーブルを逆さにしたようなどっしりとした四角い建物で4本の塔が延びている街のシンボル的な存在。
街角から通りを覗くと、あの特徴的なお城の塔がよく見える。
かつては旧市街を取り囲んでいたという城門の一つミハエル門からは、旧市街が一望できるらしい。
  

街を歩くと、リストが訪れて公開演奏を行ったという家、そして立派なスロヴァキア国立歌劇場もあって、ここも音楽の都の一つという印象を訪れる人に与えている。
 

次に訪れたドナウの宝石ブタペストと呼ばれるハンガリーの首都の眺めの美しさ、それこそ、口には表せきれないほどのものだった。
最初に訪れたゲッレールトの丘から眺めると、その美しさの訳がよく分かる。
ドナウ川が街の中央を南北に流れ、西岸のブダは王宮を中心に歴史的建造物が並び、東岸のペストは近代的な美しい街並みが広がっている。
夜になってドナウ川クルーズに参加したが、船から見るナイト・イルミネーションされた建物の美しさは感激そのものと言って良い。
 

イルミネーションされた国会議事堂の眺めも素晴らしい。
896年に建国されたハンガリー、英雄広場には、初代の王イシュトバーンから19世紀の独立戦争を指揮したコッシュートなど14人の英雄像が並んでいる。
 

1884年に完成したヨーロッパ屈指のブタペスト国立歌劇場、その入口にはハンガリーの代表的作曲家フランツ・リストの像が立っている。
  

ブタペスト歴史地区(世界遺産)を歩くと、私にとってまず目に入るのはベートーヴェンが公開演奏をしたという家。
ドナウ川を見下ろすブダ側の王宮の丘から見るくさり橋、ブタとペスト地区を結ぶ鉄の鎖の吊り橋でドナウに架かる最初の橋にして最も美しい橋と言われる。
 

マーチャーシュ教会で一番素晴らしいと言われるのは、屋根を飾るモザイクの美しさで、本当に何度眺めても魅力的。
教会の傍には、二重の十字架を持っている聖イシュトヴァーンの騎馬像が立っている。
これは、イシュトヴァーンがこの地にキリスト教を導入したこと、ハンガリー国内の大司教を決める決定権を法王から与えられたことのふたつを意味しているという。
 
 
聖イシュトヴァーン大聖堂はブダペスト最大のルネサンス様式聖堂で、ドームの高さは96m、収容人数8000人という。
内部はモザイク画や壁画、彫刻などの装飾がすばらしく、時間をかけてゆっくりと見ていたい誘惑に駆られる。
 

シシィの愛称で知られるハプスブルグ家の美貌の皇妃エリザベート妃の像、美しいハンガリーの国土とブタペストの街を最も愛した故に、市民にとても愛される存在となっている。
この教会ではエリザベート皇妃の載冠式が行われ、リストはこの日のために「ハンガリー載冠ミサ曲」を作曲している。
 

ウィーンはなんといっても音楽の都、まずは象徴的なウィーン国立歌劇場を眺める。
ウィーンは有名な作曲家の像が多い街、早速写真を撮ろうと地図を頼りに像巡りに出発する。
道を迷いながらも偶然に遭遇したのはブラームスの像、地図にも載っていなかったので嬉しい気持ちになる。
 

ベート-ヴェンの像にやっとたどり着く、すぐ近くには有名なヨハン・シュトラウスの像があって、こちらには観光客も多い。
 

ちょうど日曜日ということで王宮礼拝堂で行われたミサに行き、シューベルトのミサ曲第6番変ホ長調を聴くことができた。。
シューベルトの代表的なミサ曲を実際のミサという形で、ウィーン国立オペラ劇場の奏者とウィーン少年合唱団の演奏で聴くという貴重な体験であった。
 

ウィーン歴史地区(世界遺産)を巡る旅は、マリア・テレジア像がある広場からスタート。
マリー・アントワネットの母、マリア・テレジアの偉大さを語るのは難しい。
王室に男子が生まれなかったことにより事実上の「女帝」として23歳でハプスブルグ家を継ぎ、ハンガリー王、ボへミア王、オーストリア大公という称号を持つ。
16人も子供を産み、有能な君主として40年ものあいだ君臨し続けたというから凄いの一言に尽きる。
ウィーンは音楽だけでなく、有名な美術館もあり、中でも代表的とされる美術史美術館を訪れる。
ブリューゲルの「バベルの塔」、フェルメールの「絵画芸術」、ベラスケスの「青いドレスのマルガリータ王女」、そしてラファエロの「草原の聖母」などを鑑賞する。
シェーンブルン宮殿は、ハプスブルグ家の夏の宮殿として17世紀末から建設が始まりマリア・テレジア時代に完成している。
 

ウィーの街並みを一望するためにシュテファン寺院を訪れたが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、後には彼の葬儀もここで行われたということの方が私には印象が強い。
ベルヴェデーレ宮殿は、オスマン朝によるウィーン包囲から街を守ったオイゲン公の夏の離宮として建てられた所。
今は主にムスタフ・クリムトの代表作、「接吻」、「ユーディット」などを展示する美術館となっている。
 

済州島の自然と歴史を訪ねて

2012年07月16日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★5月26日~5月29日
龍頭岩 → 三姓穴 → 済州島民族自然史博物館 → 東門市場散策 → トケビ道路 → 漢拏山<車窓観光> → 万丈窟 → 城邑民俗村 → オルレコース散策 → 城山日出峰 → ソプチコジ(オールインハウス)→ 観音寺 → 法華寺址 → 薬泉寺 → 天地淵瀑布 → 済州4・3平和記念館 → 抗蒙遺跡址 → ウェドルゲ → 柱状節理帯(大浦海岸)→ 天帝淵瀑布 → ジョアン・スタジオ → 山房窟寺

兄弟姉妹、そして姪も参加して、みんなで済州島に行こうという事で楽しみにしていた今回の旅行、ひさしぶりに和気あいあいと話し合いながら、美しい景色の地やゆかりあるお寺などを尋ねることができた4日間だった。
最初に行ったのは「龍頭岩」と名付けられた巨大な岩がある海岸で、「・・・昔大蛇が龍になろうとして漢拏山の玉を盗んで逃げようとした時、怒った漢拏山の神霊の矢に射られて、体全体が海に沈み頭の方が空に向かって固まってしまった・・・」という伝説がある。
済州島のルーツ・耽羅(たんら・たむな)国を創始した三神が最初に現れたという聖地、三姓穴(サムソンヒョル)を訪れる。
説明によると、「・・・この三姓穴から高乙那(コウルナ)、良乙那(ヤンウルナ)、夫乙那(ブウルナ)の三神人が生まれ、狩りをして暮らしていたが、五穀の種を持ってきた碧浪国(ピョンナングッ)の三王女を迎え入れてから、農業が盛んになり、耽羅王国へ発展していった・・・」とある。
 

済州の自然と民俗の歴史が早分かりできるという済州島民族自然史博物館の入口には、済州島の守り神、石のおじいさんという意味のトルハルバンが目を光らしている(写真は城邑民俗村で撮ったものを借用)。
トルハルバンの特徴は、男性の性器を表す帽子をかぶり、大きな目鼻にお釈迦様の口、腕は右が上だと文官、左が上だと武官を表すという。
この島の台所と云われる東門市場を散策後、バスはトケビ道路へと向かう。
トケビというのは「オバケ」という意味で、登りに見えるのに実際は下っていくと言う不思議な道路のこと。
急な上り坂(下り坂)の途中に傾斜が緩くなった所で見られる目の錯覚なのだが、実際に道路全体の規模で味わうと本当に不思議な感じがする。。
 

済州島の中央にそびえる海抜1950mの山、世界遺産の漢拏山を車窓で眺めながらバスは万丈窟へと向かう。
世界遺産の万丈窟は大規模な溶岩洞窟で、暗い洞窟の中をひたすら奥まで歩いていくと、途中に名物となっている亀の形をした石などを見ることができる。
城邑民俗村では、現地のガイドさんが済州島独特の生活文化の話を丁寧にしてくれる。
済州島独特の三本の棒を使った門の説明、三多とは「石が多い、風が多い(強い)、女が多い」、トイレにもなっている黒豚の飼育場などなどで、最後は小さな部屋に連れて行かれて、冬蟲夏草、五味子(茶)、そして馬の骨で出来たサプリなどの購入を勧められる。
話が上手なので、健康維持とかお土産にという気持ちになって、つい購入する気持ちになってしまう。
 

済州島にたくさんあるオルレコースのうち、世界遺産の城山日出峰を眺めながらの海岸コースを歩く。
頂上までそんなに時間がかからないというガイドさんの話に乗せられて、済州島のなかでも1番景色が良いと言われる城山日出峰を登る。
確かに頂上からの眺めは素晴らしいものだったが、それ以上に日出峰から眺める日の出は最高とのことらしい。
 

ソプチコジ(オールインハウス)は、韓国ドラマ「オールイン」のロケ地。
この岬から眺める海はとにかく青くて美しく、ドラマの舞台に選ばれた理由がよくわかる。
オールインとは賭博用語“All In”で、「自分が持っている金を全て掛ける」という事を意味している。
この旅行に「全てを掛ける」とまではいかないが、良い旅行であることを祈りながら現地を後にする。
 

翌日は旧暦の4月8日「お釈迦様誕生日」という事で、観音寺はとにかく沢山の人々で賑わっている。
参道に並んでいる石仏が訪れる人々を暖かく迎えるという、とても良い雰囲気の寺。
次に訪れた法華寺址は、張保皐が韓国で造った二つの寺のうちの一つが済州島の法華寺と言われているところ。
残念ながら何もない敷地だけでは、眺めて見てもドラマの一シーンは頭の中に浮かんでこない。
比叡山延暦寺に張保皐の顕彰碑があるという。
それは、「・・・延暦寺3世座主の円仁は、師の最澄と同じ天台山で学びたいと思い唐に渡ったが許可を得られず追い返されます。山東半島の赤山浦にあった法華院<張保皐が建てた寺>の助けで密かに五台山に入って学ぶことができました・・・」という謂れによる。
 

朝鮮王朝初期に建てられた薬泉寺は、本殿の高さが30mもある東洋一の大きなお寺で、中にはこれも韓国最大という高さ5mの毘盧遮那仏が鎮座している。
海に面した高さ約22mの天地淵瀑布は、亜熱帯の樹木に包まれていて神秘的な雰囲気が漂っている。
「天地淵」とは、天と地が出会う池という意味があって、仙女たちが天からこの滝に舞い降りて、水浴びを楽しんだという伝説が残されている。
 

済州4・3平和記念館を訪れる。
説明員の話を要約すると、「・・・きっかけ自体は、1947年の3月1日の3.1独立運動の記念行事に始まります。 1948年4月3日に、済州島で起こった島民の蜂起に対し、アメリカ陸軍支配下にあった韓国政府のもと、韓国軍、韓国警察、朝鮮本土の右翼青年団などによって、島民の虐殺事件が行われていきました。 済州島に住む5分の1の島民が殺されたとも言われているひどい事件でした。 21世紀になって、初めて公式に故盧武鉉大統領が国家の責任があると謝罪したことも大きな歴史の一つです・・・」となる。
次に訪れた抗蒙遺跡址(三別抄のハンパドゥ城)。
2重の城壁をもつ広大な砦で外城の防塁が残っており、「抗蒙殉義碑」があって蒙古との戦いぶりを顕彰している。
三別抄はもともと高麗王朝の精鋭軍で、1270年に高麗が完全に蒙古軍の軍門に下った時、国王の解散命令に従わずに戦い続ける。
3年後に壊滅したが、その最後の拠点が済州島であった。
 

ウェドルゲの意味は「たった一つの塊」という意味で、その名の通り波間にそそり立つ勇壮な岩のことを指している。
それよりも「チャングムの誓い」のロケ地だったことのほうが有名で、多くの観光客もチャングムの看板の脇で写真を撮っている。
 

柱状節理帯は大浦海岸にある柱状節理の雄大な眺めで、つい最近訪れた東尋坊の眺めを思い出す。
天帝淵瀑布には、帝に仕える7人の天女らが、夜に紫色の雲に乗って舞い降り、澄んだ水でこっそり沐浴をして天に昇ったという伝説が残されている。
 

世界的にも有名なテディベア作家ジョアン・オ氏の作品を展示しているジョアン・スタジオを訪れる。
ペ・ヨンジュンをモデルにしたテディベアもたくさん展示されている。
最後に漢拏山の蜂をそっくりそのまま移したような標高395mの巨大な石山、山房山の中腹にある山房窟寺を訪れる。
時間が無くて行けなかったが、海を望む断崖の洞窟には一体の石仏像が安置されていて、洞窟の天井から滴り落ちる「長寿の水」といわれる薬水が参拝者ののどの渇きを癒してくれる。
  

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州> (後編)

2011年12月13日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月26日~11月2日
景福宮 → 昌徳宮 → 昌慶宮 → 大長今テーマパーク → 東九陵 → 鳳停寺 → 屛山書院 → 安東河回村 → 国立慶州博物館 → 聖徳大王神鐘 → 半月城・石氷庫 → 瞻星台 → 臨海殿跡(雁鴨池)→ 皇龍寺址 → 芬皇寺址 → 鶏林 → 大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など> → 五陵 → 武烈王陵 → 金庾信将軍墓 → 羅井 → 鮑石亭跡 → 南山<拝里三陵・三陵渓谷仏像群> → 水原華城<華城行宮・訪花隋随柳亭など> → 韓国民俗村 一 ソウル国立中央博物館 → 南山コル韓屋村 → コリアハウス

慶州は新羅千年の都と呼ばれる所だけあって、街中や郊外の見所を回るだけでも最低一週間は欲しい。
今回はぎりぎりの3日間という日程だったが、自転車を借りて目一杯に慶州を駆けることにする。
慶州の遺跡に後ろ髪を引かれる思いで、再びソウルを目指して新幹線に乗る。

まず最初に訪れた国立慶州博物館が無料で開放されているのに驚く。
慶州周辺で発見された先史時代から三国時代までの遺物、それと新羅の古墳からの出土品を展示する考古館が一番の目玉。
何百あるのか分からないという新羅の古墳では、必ず金製の冠、耳飾り、腕輪、帯飾り、沓がさん然と光を放ったまま発見されるのだいう。
博物館の一室に、これでもかこれでもかと言わんばかりに数多く展示されているのには驚かされる。


鶏林路から見つかった宝剣は、トルコ石などの玉を嵌め込んで、金の粒を貼り付けたもので、アジアのずっと西の方から入ってきている。
韓国最大の聖徳大王神鐘には、「・・・仏国寺の建立で知られる第35代景徳王が父である聖徳王の冥福を祈るため鋳造に着手したもの、鐘を鋳造するする時に女の子を人柱として溶けた銅の中に投げ込み、完成後に鐘を突いたところ「エミレ(お母さん)と聞こえた」という伝説が残されている。
宮殿だったという半月城の入口を見渡したが、昔の面影がほとんど感じられないのは残念。
説明書には、「・・・半月のような形に丘を削り、所々に土石を混ぜて築かれた城で、歴史書「三国史記」には朴赫居世21年には金城の東南に城を造り、月城と呼んだ。その長さは1023歩もあった」と書かれている。
 

石氷庫は朝鮮王朝時代に建てられた氷の貯蔵石室で、外形は古墳と同じだが、中がアーチ型の石組みで作られており、氷が長く残せるように工夫されている。
ユニークな形の瞻星台は、第27代善徳女王(632~647)の時に造られた天文観測施設で、一説では東洋で最も古い天文台と言われている。
 

臨海殿跡(雁鴨池)は統一新羅時代の離宮で、文武王14年(674)がそこに庭園を築造したもの。
池の名前は月池だったが、朝鮮王朝時代に廃墟となったここに雁や鴨が飛来して雁鴨池と呼ばれるようになったという。
国立慶州博物館の西にある雁鴨池館には、ここで発見された素晴らしい遺物の数々と臨海殿(雁鴨池)の模様が見事なレプリカで展示されている。
 

皇龍寺は新羅第24代真興王が553年に着工し、4代王、93年という長い歳月かけて造立した大伽藍だったが、蒙古の侵略によって消失してしまう。
礎石と金堂跡、九重塔跡、講堂跡、中門跡しか残っていないが、当時は2万坪の東洋最大の寺だったという。
レプリカにある九重塔を見るだけでも、この伽藍が巨大だったことが良く分かる。
皇龍寺址を見渡した時に感じる礎石と基壇のみが物語る昔の面影は、聖武天皇が創建の詔を発した全国の国分寺跡を思い浮かべるイメージと重なる。
 

百済の技術者の阿非知(アビジ)が建造した九重塔と、高さ一丈六尺の金堂丈六像がモンゴルの乱で消滅したのは、悔やんでも悔やみきれないものがある。
今は巨大な礎石を眺めて、金堂跡丈六像の台座(写真右)は大きいとか、心礎はどの石だとか、柱の穴がどうのこうのと呟くばかり。
 

芬皇寺は新羅27代善徳女王が634年に建立し、有名な高僧の元暁と慈藏が住んでいた寺で、境内にある国宝の模塼塔石塔<煉瓦の塔を模倣した石塔>は新羅時代の最初の石塔と言われている。
モンゴルの侵攻や文禄・慶長の役で遺物はあらかた破壊されてしまい、石塔も今は三層しか残っていないが、元は九層の塔だったと推測されている。
写真を撮り忘れてしまったが、門柱に彫刻されている金剛力士像は最高傑作と評価されている。
鶏林の地には次のような慶州金氏の始祖伝説があり、「・・・新羅4代脱解王の時に、瓠公がこの林の中で鶏の鳴き声を耳にしたので、近寄ってみると木の枝に金の装飾がほどこされた櫃が光を放っていました。このことを聞いた王は自ら林へ行き櫃の蓋を開けると中から男の子が出てきたので、この子を金閼智、この林を鶏林と呼ぶようになりました。鶏林は新羅の国号としても使われました」と云う。


大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など>は慶州に点在する古墳群では最も規模が大きい古墳群で、23基の王陵が集まっている。
「三国史記」に、「・・・第13代味鄒王は民に対する思い遣りが深く、五人の使いを各地に派遣して民情を聴取させた。大陵に葬られた」という記録があり、そこから大陵苑という名称が由来したという。
被葬者は不明だが、内部構造と代表的な出土品が公開されている天馬塚は必見の価値がある。
  
 

新羅の古墳の構造は、木室に被葬者の入った木の棺を納め、木室を頭ほどの石を積んで包み込み保護する形だった。
さらに積み石の上には高大な盛土で被っていたので、木が腐ると上の積み石と盛り土が落ちて墓室内のものはぺちゃんこに潰されてしまう。
落ち込んだ石や土を完全に取り除かない限り床に到着できないので、主体部が盗掘される心配はほとんどないという。
見事な金冠が盗掘されずによくも残っていたという理由が、この話を聞くと良く分かる。
白樺の樹皮に天翔ける白馬が描かれた、見事な障泥<馬蹄から飛び散る泥を防ぐ用具>が出土されたことから、この古墳を天馬塚と呼んでいる。


五陵へ向かう途中、寺を見つけたので入ってみると可愛い犬が迎えに出てくれた。
知られていない寺だったが、境内や拝殿には大小の仏像が沢山並んでいるのには驚いた。
寺を出る時も、先ほどの犬が寄ってきて健気に見送りしてくれたのは、とても嬉しいことだった。
五陵の前にある寺の門塀に人面文軒丸瓦の絵が描かれているので、善徳女王の635年に創建された霊廟寺址はここなのかと思ったが、訪問客もないし観光化されていないので本当のところはよく判らない。
何度眺めても素晴らしい人面文軒丸瓦について、慶州国立博物館のガイドブックには「軒丸瓦には蓮華紋が一般的だが、人の顔は非常に珍しく、自然な微笑を浮かべる新羅女性の姿が感じられる名品である」と書いてある。


五陵は新羅の始祖の朴赫居世王、第2代南解王、第3代儒理王、第5代婆娑王の四王と朴赫居世王の王妃である閼英を祀った陵のこと。
ここには五陵と閼英にまつわる二つの伝説がある。「・・・初代の赫居世王は61年間国を治めた後、71歳で天へ帰ります。ところが、王の死後7日がたつと、王の遺骸は5つに分かれて再び天から落ちてきます。このとき王妃も一緒に亡くなったといいます。国民は嘆き悲しみ、王の遺骸をひとつに集め埋葬しようとしたが、このとき大蛇が出てきて邪魔をします。国民たちはやむをえず5体を分散して葬ることにし、こうして出来たのが五陵です。・・・閼英井は新羅始祖王の王妃、閼英夫人の生まれた所です。紀元前69年、或る老嫗が井戸に水汲みに来て見ると、井戸端に大きな龍があるのを見て驚きましたが、その龍の傍に女の子が生まれているのを見つけ、抱き帰って育てたのが後に始祖王の王妃になった」と云う。


新羅の王は三国時代で29人、統一新羅時代で27人いるが、間違いなくどの王の墓だとわかるのは、武烈王陵のみだという。
王陵の前にある亀形をした石碑の台座・亀趺(きふ)は新羅石造美術の傑作とされているが、こ亀趺の上に6匹の龍を彫った碑首が乗り、その上に碑の本体が備えられている。
碑首に「太宗武烈大王之碑」という文字が刻まれていたため、この古墳が武烈王のものであると判明する。
韓国歴史ドラマ「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」に、金庾信と金春秋(後の武烈王)との面白いシーンが出てくる。
「・・・庾信は自宅の前で蹴鞠をしていた時、わざと春秋公の裙を踏みつけてその襟紐を裂いてしまう。庾信は姉の阿海に針で縫うように命じるが、阿海はこんな些細な事で輕々しく春秋公に近づけませんと辞退する。そこで庾信は妹の阿之に命じる。春秋は庾信の意を知って阿之とつき合うようになり、それからしばしば訪ねるようになる。庾信は阿之が身ごもったことを知って、父母に告げずに身ごもるとは何事かと叱りつけ、国中に妹を焚き殺すという噂を広める。善女王が南山に遊幸する日に、庾信は庭中に薪を積み上げ、火を焚いて煙を起てたので、遠くから眺めた女王はそれは何の煙かと問う。庾信が夫が無いのに身ごもった妹を焚こうとする煙でしょうと告げられた女王は、それは春秋公の所為なのだろうと声を荒立てる。王の間近に侍っていた春秋は顏の色が大変する。女王の速く行って救いなさいとの命を受けた春秋は、馬で庾信宅に駆けつけ殺さないでくれと伝え、その後すぐに妹と婚禮をあげる」。


新羅の英雄である金庾信将軍は、金官伽耶国の金首露王の12世孫で、15歳で花郎になってから断石山に入って学問と武芸を修練し、後に将軍として新羅の三国統一を成し遂げる主役となった人。
新羅の王陵や古墳の塚の周りには、十二支神像の板石を方角に合わせて配列しているものがある。
十二支の中の午は南の方角<墓の正面>にあり、裏側の北は子になっている。
金庾信将軍の墓を訪れた後、慶州市を流れる川に沿って造られた気持ちの良いサイクリング・ロードを通って一路ホテルへと向かう。


羅井(ナジョン)は、「三国遺事」に遺された新羅の始祖赫居世にまつわる建国神話がある場所で、見渡すと確かにそんな雰囲気を感じさせるから面白い。
建国神話には、「・・・蘿井の林で馬が跪いて嘶いているので、村の長がその場所に行くと馬が消えて後には大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。その子は人となりが優れていたので、6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であった」とある。
鮑石亭跡は新羅で一番美しい離宮とされ、石の溝に水を流し、盃を浮かべて詩を吟じる「流觴曲水宴(りゅうしょうきょくすいえん)」が開かれた所。
927年、55代景哀王がここでの宴会中に後百済の始祖甄萱(キョンフォン)に攻め殺され、その後新羅が滅亡に向かうきっかけとなった場所としても知られている。


「新羅千年の歴史は南山から始まって南山で終わりを告げた」と言われる南山は新羅の始祖朴赫居世が生まれた羅井と国の終焉を象徴的に見せてくれた鮑石亭が存在する所。
山登りは久しいが、<拝里三陵・三陵渓谷仏像群>と呼ばれる人気コースに挑戦する。
登ってすぐに見える拝里三陵には、手前から第8代阿達羅王陵、第53代神徳王陵、第54代景明王陵の三つの墓が並んでいる。
磨崖釈迦如来坐像は座仏の中で最も大きいとされるもので、胴体に近づくにつれ線刻で単純化して、まわりの岩の山と調和をなすようにしている。


線刻六尊と呼ばれる線を刻んで像を描いたものだが、写真だと立体感が見えにくく、単に岩の凸凹のように見えてしまうのが残念。
石仏坐像は、蓮華台に刻まれている蓮の花と眼象、そして全体的に落ち着いた堂々とした仏像の姿から見ると統一新羅時代8、9世紀の作品であると推定されている。


ソウルに戻ってから最初に訪れたのは、郊外にある水原華城で、500年の朝鮮王朝史上で最も波乱万丈の生涯を送った第22代正祖によって造られ、遷都も考えられていたが死んだため夢が叶わなかったという城。
全長5.7キロの万里の長城のような城郭と、その要所々々に門、砲台、櫓、軍事指揮所、訓練所などを東西南北に整然と組み込んだ素晴らしい建造物とされている。
華城行宮は王の別邸で、韓国の行宮の中でも最も規模が大きく美しいと言われている。
親孝行だった正祖が父親のお墓参りをした後、帰りに寄って休んだり、また母親の獻敬王后の宴を行った所でもあるという。
 

行宮の一角に米櫃が置かれていたが、ドラマ「イ・サン」で、サンの父親の思悼世子が謀反の罪を受け、祖父の英祖王によってによって米櫃に入れられ餓死させられるというシーンを思い出す。
「チャングムの誓い」の一部はこの行宮で撮影されたらしく、徐長今(ソ・ジャングム)がドラマの展開に合わせて着ていた衣装とその時の写真が展示されている。
 

美しい楼閣、訪花随柳亭は見張り台や兵士の休憩場所として使用されていたそうだが、今の時代、そこから眺める水原華城の城壁は流麗な曲線を描いて続いていて、芸術的な観点から観る者の目を離さない。
 

韓国の民族や文化を総合的に知るには、韓国民俗村を訪れるのが一番良いと思う。
22万坪の広大な敷地に、朝鮮時代後期の各地方に特有の家屋168棟を移築・復元している。
どういう意味なのかよく分からないが、黄色、赤色、白色の布が木に吊るされているのは、朝鮮独特の村の風景なのだと思う。
民族館では、朝鮮時代後期の歳時風俗、冠婚葬祭、民間信仰などを、季節の移り変わりに沿って分かりやすく展示しており、キムチを漬ける様子なども人形でリアルに再現していて面白い。


立派な展示物が多数あるソウル国立中央博物館も無料開放なのに再び驚く。
細かな彫刻が施された敬天寺十層石塔は高麗末に元の影響を受けて造られた独特の形をした塔だが、高すぎて展示室に入いらないせいかその間の通路に置かれている。
三国時代の国宝の半跏思惟像は、片方の足をもう一方の足の上にのせ、指を頬にあてて思いにふける姿の菩薩像で、韓国では一般に弥勒菩薩と見なされている。
その魅惑的な姿に誘われて、ショップ・ギャラリーで早速ポスターを購入する。


高句麗の7世紀前半の古墳、江西大墓玄室に描かれた四神図(朱雀・青龍・白虎・玄武)はあまりにも有名だが、嬉しいことに展示室にその模写が大きく展示されている。
載せたのは、何とかぶれないで撮れた南壁の朱雀の写真で、その迫力があるというか幻想的な姿には本当に息をのまされてしまう。
新羅という国名は、「三国史記」の第22代智證麻立干の四年の記述に、「新は徳業日に新たなり、羅は四方を網羅するの義、すなわちそれ国号をなす」とあり、ここから来ている。


南山コル韓屋村は、李氏朝鮮時代に詩人や墨客が多く住んでいた南山の北麓に、ソウルのあちこちにあった両班の屋敷や一般市民の伝統的な家屋など5棟を、移築し復元して造った場所。
日本では気恥しいせいかそういう習慣は無いが、韓国では結婚式を挙げるカップルは、王宮はもちろん、このような伝統的な家屋などを背景にして写真を撮り、式後に部屋に飾って愛の証を示すのが習慣なのだという。

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州>(前編)
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州> (前編)

2011年12月07日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月26日~11月2日
景福宮 → 昌徳宮 → 昌慶宮 → 大長今テーマパーク → 東九陵 → 鳳停寺 → 屛山書院 → 安東河回村 → 国立慶州博物館 → 聖徳大王神鐘 → 半月城・石氷庫 → 瞻星台 → 臨海殿跡(雁鴨池)→ 皇龍寺址 → 芬皇寺址 → 鶏林 → 大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など> → 五陵 → 武烈王陵 → 金庾信将軍墓 → 羅井 → 鮑石亭跡 → 南山<拝里三陵・三陵渓谷仏像群> → 水原華城<華城行宮・訪花隋随柳亭など> → 韓国民俗村 一 ソウル国立中央博物館 → 南山コル韓屋村 → コリアハウス

日本の歴史とも繋がりがある韓国の歴史の舞台や史跡を訪れようと、行き先だけは目一杯にという気持ちで計画を立てる。
言葉も十分に分かっていないのに、とにかく当たって砕けろ、行けば何とかなるという気持ちが優先、旅の心配よりもとにかく行ってみたい、そんな気持ちで慌ただしく羽田を旅立った。

ソウルに着いたら、第一に朝鮮王朝の王宮に行こうと思っていたので、まずは太祖・李成桂(イ・ソンゲ)が1395年に建立した宮殿・景福宮へと向かう。
ちょうど着くと一日に3回行われてるという王宮守門将の交代式が行われているのに遭遇、テレビでよく見る歴史ドラマの1シーンを思い出す。
景福宮の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての民が太平の御代の幸せを得ることを願う、という意味らしい。
建物の中で最も大きな勤政殿は景福宮の正殿で、王が臣下の朝礼を受けたりまた外国の使臣との接見などが行われたところ。
景福宮が最も活気に溢れ、幸せだった時代は、ハングルを領布した第4代世宗の頃と言われている。
 

景福宮が建てられた場所は「風水説」に基づいて選ばれているということで、その意味を見てみると「山を背にし、川を前に抱いて、風を塞ぎ水を得るような地に王都を築けば国運が長く続くとされる」とある。
たしかに、北岳山を背にしており、建物の正面は南に向き、漢江の流れを臨む場所に建っている。


王から愛されたという昌徳宮は1405年に建てられ、景福宮が正宮とすれば東側に位置する離宮にあたる。
景福宮が焼失後、再建されるまで歴代の王は正殿の仁政殿で執務をとったという。
東側敷地には楽善斎という建物があるが、日本の梨本宮家から嫁いで最後の皇太子英親王の妃となった方子が、晩年暮らした所として知られている。
 

昌慶宮は第4代世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身で、一時荒廃したが、第9代成宗が先王の大妃であった3人の王后のために宮殿を建て、それ以来この名称で呼ばれるようになったという。
生い茂った森を背景にした秋の春塘池の眺めは、風情があって素晴らしい。
 
 
「大長今テーマパーク」とは、京畿道揚州市にあるMBC文化庭園内に建てられた大長今<チャングムの誓い>オープンセットのこと。
出身の長今が御医まで上り詰めるという、実在人物の一代記の物語だが、ドラマの中に出てくる宮中の料理、衣装、医術、遊びなどが興味深く描かれている。
入口の脇には、徐長今(ソ・ジャングム)<イ・ヨンエ>と彼女を支える閔政治(ミン・ジョンホ)<チ・ジニ>の大きなパネルが置かれている。
彼女の親友で助けともなる李連生(イ・ヨンセン)<パク・ウネ>の可愛らしいパネルを見ると、ドラマでの健気なシーンを思い出す。
 

義禁府の獄舎の前には、罪人を取り調べるときに使う拷問器具などが無造作に置かれている。
宮廷で使われている全ての醤油や塩柄種を預ける所を醤庫(ジャンゴ)と言い、この周りで幼い女官たちが歌うシーンが撮影されたという。
残念なことに、ここのオープン・セットは今年一杯で閉鎖となり取り壊される予定とのこと。
 

朝鮮王朝時代の王陵の一つ、東九陵には太祖・李成桂をはじめとする9人の王と王妃が葬られている。
王陵の造りを紅門の正面から見てみると、陵の祭祀を行う丁字閣まで真っ直ぐに参道が続いており、陵の横には陵主の碑石や功績を記した神徒碑を収めている碑閣が建っている。
519年の歴史を持つ朝鮮王朝は儒教を統治理念としただけあって、先祖への尊敬と崇拝を示す600年前の王陵での祭礼が今日まで受け継がれているのだという。
 

ソウルから高速バスで3時間程かけて安東へ向かい、そこで最初に訪れた鳳停寺の由緒が面白い。
「新羅時代の文武王12年(672)に創建されたお寺で、義湘大師が浮石寺から紙で折った鳳凰を飛ばしたところ、その鳳凰がこの地に下りたことから、鳳停寺と名付けられた・・・」とある。
高麗時代に建てられた国宝の極楽殿は、色塗りはされているが韓国の木造建築物の中でも最も古いとされている。
極楽殿の前には同時代の三層石塔が置かれている。
 

鳳停寺は建物はもちろん石仏や石塔、そして美しい周りの風景も含め本当に来てよかったと感じさせてくれる寺であり、作家の立原正秋の父が鳳停寺の僧であったといういわれを知ると、日本人ならいっそう懐かしい気持ちを覚えると思う。
寺を出てすぐ横の美しい紅葉で彩られた階段を上ると、付属の寺の霊山庵が左手に見えてくる。
 

階段を上がり庵を見渡すと、庭の松を囲むように建物が配置されていて何か別世界に来たような雰囲気を覚える。
観てはいないが、「達磨はなぜ東へ行ったのか」、「童僧」という映画の撮影地でもあったという。
朝鮮時代の木造建築物の美しさを語るとき、必ず欠かせない建物であるという屛山書院を訪れる。
時間がなくゆっくり見れなかったのだが、説明書によると「書院は屏風を広げたように稜線の美しい屏山と手前に流れる洛東江の美しい景観に囲まれ、朝鮮5大書院の中でも最も美しい」とある。
ここもドラマ「推奴(チュノ)」や「千年の愛」の撮影地で有名になり、多くの観光客が訪れている。
 

朝鮮時代に作られた集落がそのままの姿で残り、今も子孫の方々が生活している安東河回村を訪れる。
ここで行われる世界的に有名な仮面劇を観たかったのだが、時間が合わず断念した代わりに長老の笑い顔の仮面を購入する。
河回村を代表する建物、大儒学者の柳雲竜<豊山柳氏の大宗家>の住まいだったという養真堂を見学する。
韓国には本貫というものがあり、河回村は柳氏が起こした村で現在も住民の70%が柳の姓を持っているという。
村祭りが行われる参神堂<樹齢600年以上の欅の霊木>は子供に関する願いの場所だが、仮面劇が初めて行われた場所でもあるという。
  

優雅に蛇行する洛東江と河回村の全景を見渡せる芙蓉台に登りたかったが、これも時間切れで断念する。
韓国ドラマでは絶壁から飛び降りるシーンがよく出てくるが、ここもドラマでよく使われる絶好の飛び降りのスポットらしく、ドラマ「黄真尹(ファン・ジニ)」でもこの場所が使われている。
 
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

ドイツ13日間作曲家の足跡を訪ねて(後編)

2010年10月03日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 8月19日~31日
フランクフルト空港→リューデスハイム→コブレンツ→ボン→ハイデルベルク→ミュンヘン→オーバーアマガウ→フユッセン→ザルツブルク→ニュルンベルク→バイロイト→ドレスデン→ライプチヒ→アイゼナハ→フランクフルト空港

ニュルンベルクはワーグナーのオペラ「ニュルンベルクの名歌手」の舞台となった職人の街、まずは旧市街地入口のすぐ横にある職人広場を訪れる。
ここにはニュルンベルク独特の手作りのおみやげが並べられていて、見ているだけでも結構楽しい。
メイントリートを進むと、13~4世紀にかけて建てられたゴシック様式の巨大な聖ローレンツ教会が見えてくる。
中に入ると美しいステンドグラスを背景にして、天蓋からつるされた受胎告知のレリーフがまず目に入る。
ここに来るまで知らなかったが、ファイト・シュトス作になる素晴らしい造りの作品と言われている。
   

旧市街を東西に流れるムゼウム橋からの眺めは絵になる風景といってよく、とても昔の雰囲気を漂わせている。
フラウエン教会の正面には、カール4世と7人の選帝侯の仕掛け時計があり、12時のスタートから見れたのがラッキー!
職人の技術の高さを誇るシンボルだったという「美しの泉」という高さ17mの塔の周りには大勢の人が賑わっている。
有名なニュルンベルクソーセージを食べてみたが、直火で焼いているせいかカリッとした香ばしい味がして、たしかにドイツ中で一番美味しいソーセージと、ドイツ人が言うのも頷ける気がする。
  

カイザーブルクは11世紀に基礎が築かれたという神聖ローマ皇帝の城で、この時代は首都というのは存在せず皇帝は各地の城を移り住んでいたらしい。
1050年~1571年における全ての皇帝が、この城に必ず滞在していたというから、この城の重要性がよく分かる。
塔へ上って街を一望すると、中世の雰囲気を漂わせる街並みが素晴らしい展開を見せてくれる。
 

城を出て少し坂を下ると、ドイツ・ルネッサンスの大画家デューラーが1509年から亡くなる1528年まで過ごした家がある。
内部は生活の様子がよく分かるようになっているほか、デューラーの複製画などが展示されていて、当時の画家の在り様がとてもよく分かる。
当日の18時からは無料公開ということを知り、職人広場の西にあるゲルマン国立博物館へ行ってみる。
 

入ってみると、その広さと充実した展示物の内容に驚く。
国立博物館だけあって、古代の遺物、生活用具、そして絵画や彫刻がテーマ別、時代順に展示されている。
写真撮影も自由で、肖像画の名手デューラーの描いた絵など印象的なものを載せておく。
とても2~3時間で見れるものではなく一日かけても足りないくらいで、今度訪れるときは時間をかけてじっくり見たいと思っている。
ニュルンベルクに来た人には、ぜひ訪れてほしい穴場ともいえる必見の場所。
  

とうとう昔から一度は来たいと思っていたワーグナーの聖地バイロイトへ到着、意気込んでいるせいか、駅前から遠くに見える祝祭劇場への道にさっそく足を踏み入れる。
レコードのジャケットでも度々見たバイロイト祝祭劇場、その正面に立って建物をじっと見ていると何故か目頭が熱くなってくる。
ワーグナーが、自作のオペラを理想的な音響と舞台効果で演奏できる劇場が欲しい、そんな思いで自分で設計し建立した劇場だけあって、今では全世界からここで開かれる音楽祭に多くの人々が訪れる。
私など最初から入場はあきらめていたけれど、劇場の横でチケットを求むと書かれた看板をかざしている日本人の女性がいるのに少々驚く。
 

祝祭劇場の手前の小さな公園には、ワーグナーと妻コジマの像が左右に立っている。
二つの像を見ていると、当時話題になっただろう二人の関係にどうしても触れざるを得なくなる。
ストーリー的な表現をすると、「・・・名ピアニストでもあった作曲家リストの次女コジマは、名指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚するが、新婚旅行の途上に天才的な作曲家ワーグナーと逢い、一目惚れしてしまう。
ついには夫を捨ててワーグナーのもとに奔り恋愛状態に発展し、やがてコジマは彼の妻となる。
二人は世間の非難、妨害に会うが、コジマはそれに立ち向かい献身的な愛を彼に捧る。
ワーグナーが多くの名曲を生み出した創作力の源、それを支えたのがコジマの存在であったことはまず間違いがない・・・」となる。
 

ハウス・ヴァーンフリートは晩年のワーグナー夫妻が過ごした住居で、今はワーグナー博物館となっている。
正面手前には、ワーグナーの熱烈な擁護者であったルートヴィッヒ2世の胸像が置かれている。
中に入ると、ワーグナーゆかりの品々や楽譜、そしてバイロイト音楽祭の舞台の写真などが展示されている。
小さなホールではワーグナーの音楽も流れていて、今まで訪れた作曲家の博物館では内容が一番充実しているのが嬉しい。
屋敷の裏側に行くと夫妻の墓があり、世界中のワグネリアンからの花が捧げられている。
 

すぐ横の通りには、ワーグナーの義理の父でもあるリストの旧宅(リスト博物館)がある。
リストの業績、人間関係がよく分かる。
バイロイトを後にして列車は一路、旧東ドイツの都市ドレスデン駅へと向かう。
第2次世界大戦中の都市における最大の空襲爆撃(1945年2月)を受けたとされるドレスデン、今は東西の統一からもう20年になる。
駅から旧市街へ向かう通りを歩いてみると、街並みは近代的なビルが立ち並んでいて、そのモダンな雰囲気の変化にはびっくりさせられる。
 

旧市街地区へ入ると建物の様相が一変、聖十字架少年合唱団で有名な聖十字架教会がまずは姿を見せる。
ドイツ音楽の父ハインリッヒ・シュッツも率いた聖十字架少年合唱団は、500年以上もの歴史を誇るというから驚かされる。
ドイツ最大のプロテスタント教会であるフラウエン(聖母)教会を建てるのに6118日もかかったのに、破壊にはわずか1夜しかかからなかったという。
とにかく戦争の恐ろしさ、空しさが身に染みる話ではある。
今は、10年かかって再建された教会がルターの像を前にして、昔の姿で立派によみがえっている。
ドレスデン城のほうへ進むと、欧州最古の武芸競技場だったシュタールホーフが再建されていて、その外壁には長さ101mの「君主の行列」という壮大な壁画が描かれている。
  

劇場広場から見るカトリック旧宮廷教会とドレスデン城の眺めも印象的だが、その北側に流れるエルベ川沿いの眺めは一層素晴らしいものがある。
 

再建されたゼンパーオペラ(ザクセン州立歌劇場)は歴史ある劇場で、初代音楽監督には「魔弾の射手」で有名なウェーバーが就いているし、後任として楽長の座に就いたワーグナーは、ここで「さまよえるオランダ人」と「タンホイザー」を初演している。
歌劇場の内部が見たくて、内部のガイドツアーに参加する。
華麗な劇場内部に感心させられたが、肝心の説明がドイツ語でほとんど理解できなかったのがとても残念。
 

ザクセン王国の栄華を伝えるツヴィンガー宮殿の内部に、名作が目白押しに並ぶアルテ・マイスター絵画館がある。
フェルメールの「手紙を読む少女」、ラファエロの「システィーナのマドンナ」、そしてレンブラント、デューラー、ボッティチェッリの絵などたくさんの素晴らしい絵画があり、とても少々の時間では見切れない。
ドレスデンの魅力に思いを惹かれながらも、夕方の列車で次の訪問先、音楽の街ライプチヒへと向かう。
聖トーマス教会は、バッハが15代目のカントル(オルガン奏者兼合唱団の指揮者)を27年間務め上げた由緒ある教会。
当時埋もれていたバッハを蘇えらせ、名作「マタイ受難曲」を復活上演させたメンデルスゾーンの像が教会のすぐそばに立っているのは当然かもしれない。
  

教会の前には有名なバッハの像も立っていて、観光客がひきり無しにカメラのシャッターを切っている。
写真では分かりにくいが、上着の左ポケットをよく見ると中身が外に出ているのに気付く。
これは「金がない」ことをアピールしているのだという。
教会内の主祭壇の前にはバッハの墓があって、訪れる人々の捧げる花が絶えない。
聖トーマス教会に朝訪れたところ、幸運にもバッハのカンタータのリハーサルが無料で公開されているのに遭遇、その素晴らしい演奏と音の響きにとても感動する。
  

教会のすぐ前にバッハ博物館がある。
バッハの作品を聴けるコーナーや、彼の生涯をビデオでたどるコーナーもあって楽しい。
ライプチヒはゲーテの街としても有名で、街を歩くとゲーテの像があったり、彼がよく通ったという酒場の前にはファウストとメフィストフェレスの像もある。
  

アウグストゥス広場に訪れるとオペラハウスとゲヴァントハウスが広場を中心として向き合って建っている。
特にゲヴァントハウスはメンデルスゾーン、チャイコフスキー、ワーグナー、そしてR.シュトラウスが指揮者として活躍した舞台だったというから、その伝統というか歴史の古さが偲ばれる。
 

好きな作曲家の一人、メンデルスゾーンが音楽活動をいそしみ、そして亡くなった時の家を再現したというメンデルスゾーン・ハウスを訪れる。
行く途中には、シューマン・ハウスもあるはずだったが、道に迷ってしまい見つからなかったのが残念。
偶然にシューマンの像を見つけたのは良かったが、肝心のワーグナー生誕の碑が見つからない。
代わりにと言ってはおかしいが、駅前のホテルに帰る道脇で、再来年ワーグナー生誕200年を記念するパネルを発見する。
  

バッハというと、どうしても生誕の地アイゼナハは外せない。
カールス広場を訪れると、この街の教会で説教をしたというルターの像が聖書を手にして立っている。
 

ヴァルトブルク城は、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」第二幕の歌合戦の舞台ともなった中世の面影を深く伝える城。
有名なミンネゼンガーのヴァルター・フォン・フォーゲルワイデとヴォルフラム・フォン・エッシエンバッハなどが、詩歌を競い合った歌合戦の様子を描いたフレスコ画が興味を引く。
 

歌合戦の大広間に出ると、嬉しいことに「タンホイザー」の大行進曲が聴こえてくる。
ルターが新約聖書をドイツ語に訳した部屋はとても質素なもの。
じっと見ていると、1521年5月から翌年の3月までの10か月間、厳しい状況の中で偉業を成し遂げたルターの偉大さが伝わってくる。
 

世界遺産にもなっている城からの眺めは、テューリンゲンの中世の森の雰囲気を感じさせて素晴らしい。
待望のバッハ生誕の家は、今はモダンな造りになっていて少々拍子抜けする。
前にあるバッハの像は、レコードのジャケットでもよく見かけるもので、なぜか懐かしいような気持ちがわいてくる。
  

中に入ると展示内容はなかなか立派で、いろいろなバッハの肖像画があったり、説明員が当時の弦楽器やチェンバロなどを演奏しながら紹介をしてくれる。
ルターが説教をしバッハが洗礼を受けた聖ゲオルク教会に行けたのも嬉しい。
信者でもなんでもないが、当時の世界というか雰囲気を味わえたことが貴重な経験だったと思う。
最後にドイツの印象を語ると、みんなとても親切、そして清潔できれいな街、若い女性の一人旅が多いわけがよく分かる。
そんなドイツに感謝!
  

ドイツ13日間作曲家の足跡を訪ねて(前編)

2010年09月18日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 8月19日~31日
フランクフルト空港 → リューデスハイム → コブレンツ → ボン → ハイデルベルク → ミュンヘン → オーバーアマガウ → フユッセン → ザルツブルク → ニュルンベルク → バイロイト → ドレスデン → ライプチヒ → アイゼナハ → フランクフルト空港

前から行きたいと思っていたドイツ旅行がやっと実現、好きな作曲家をたくさん輩出している国なのでタイトルも「ドイツ13日間作曲家の足跡を訪ねて」という願いをこめたような旅となった。
飛行機に乗っている前後の2日間を除くと、11日間に13の都市を訪問という欲張った旅程、挨拶以外はドイツ語は無理そうなので、かたことの英語でどこまで通用するのかと思いつつも、期待に胸を弾ませて旅をスタート。
ドイツの列車の旅は、ジャーマン・レイルパスがお得ということで、これを利用して最初の訪問地リューデスハイムへと向かう。
ホテル「ズム・グリュネン・グランツ」は、お菓子の家のような造りがとても可愛らしい。
個人経営の良さで、一家がシャンペンで迎えてくれたのにはびっくりというか、嬉しい気持ちでいっぱい。
遅くの到着だったので、残念ながらラインワインと「つぐみ横丁」で有名なこの街の散策は断念、翌朝一番で「ライン川下り」をと、KDライン観光船に乗船する。
 

ラインの語源はケルト語にあって「流れ」という意味、この川はドナウ川と共にローマ帝国最北の国境の大部分を形成したという。
高台に1870年から71年までフランスとプロイセンの間で起こったいわゆる普仏戦争の勝利を記念して建造されたニーダーワルド記念碑が見える。
バッハラハというワイン祭りで有名な小さな街の丘の中腹には、シュターレック城がそびえている。
 

カウプの街のライン川の中州には、通行税徴収のために造られたプファルツ城が建っている。
荒々しいローレライの岸壁は「妖精の岩」という意味でハイネの詩にも詠われており、ここを旅してきた船人が美しい黄金色の髪の乙女に魅せられて、舵を取り損ねて命を落とすという伝説の舞台となっている。
 

ローレライを後にして船は先に進むと、左手には14世紀に造られたラインフェルス城が見える。
 

マウス城は、すぐ上流のねこ城の主が「ねずみ」とあざけって呼んだことからきているという。
マルクスブルク城は中部ライン川地域で唯一破壊を免れた城で、中世の姿を完全に残している名城として知られている。
 

ライン川とモーゼル川が合流する地点に位置するコブレンツで観光船を降りる。
コブレンツの街をしりめに、べートーヴェン生誕の地ボンへ列車で移動する。
かつての西ドイツの首都ボン、私にとってはベートーヴェンの街というイメージの方が大きい。
ミュンスター広場には、楽譜を片手にペンを持つベートーヴェンの像が立っている。
ベートーヴェンはこの家の一室で生まれ、22歳でウィーンに活動の場を移すまで住んでいたという「ベートーヴェンの家」を訪れる。
内部は記念館になっていて、彼自身が使用した楽器、直筆の楽譜、補聴器、家具などが展示されている。
生誕の部屋に興味深い思いで入ってみたが、大理石の胸像だけが置かれているのには驚かされた。
  

翌日は一路ボンからハイデルベルクへ。
この街にはゲーテやヘルダーリーン、ショパンといった多くの詩人や芸術家が訪れ、この街を称える作品を生み出している。
まずは旧市街のメーンストリート、ハウプト通りを歩く。
この街を治めたプファルツ選帝侯の博物館を見学する。
15~18世紀の美術品(肖像画が多いのには驚く)を中心に展示されており、当時の王侯貴族の生活をよく知ることができる。
 

マルクト広場には多くの観光客が集まり、これから訪れるすぐ上のハイデルベルク城を見上げている。
 

ケーブルカーの利用はやめて城までの坂道を15分ほど歩く。
城の中庭で一休み、城からのハイデルベルク旧市街の眺めが素晴らしい。
 

対岸からハイデルベルクの古い街並みを眺めてみようと、橋を渡ってシュランゲン小道と呼ばれる急な坂道を上る。
前日までの疲れがどっと出たのか、やっとの思いで「哲学者の道」と呼ばれる森の通りに出る。
苦労の甲斐があってか哲学者の道からの旧市街の眺めは、ため息が出るほどの美しさだ。
 

次の目的地はミュンヘン、翌朝地下鉄に乗ってオデオン広場へ降り立つと、突然目の前に大きな教会が現れたのにはびっくり。
テアティーナー教会を見上げた後、すぐ横にある将軍堂を眺める。
ミュンヘンで英雄とされる将軍の像だという。
すぐ近くのレジデンツを訪れる。
バイエルン王朝の王家ヴィッテルスバッハ家の宮殿で、今は博物館になっている。
  

レジデンツ博物館の内部は数々の豪華な部屋や広間が続くが、特に豪華な円天井が印象的なアンティクヴァリウムというホールには目が釘付けになってしまう。
アーネンガレリエと呼ばれるホールの豪華な造りにも目を奪われたが、ギリシャ神話で有名なメドゥサの首を持つ英雄ペルセウスの像も印象に残る。
  

ミュンヘンでぜひ訪れたいと思っていたバイエルン州立歌劇場の堂々たる姿に感心、公演されるオペラの演目のポスターが並んでいたが、聴きたい曲目がたくさん載っているのにはうらやましい限り。
結婚式を挙げた花嫁が記念に写真を撮っているのか、たまたま居合わせたのが良い機会と、パチリと写真を撮らせてもらった。
 

マリエン広場にある新市庁舎は、ドイツ最大の仕掛け時計グロッケンシュピールが有名で12時に動き出す。
等身大の32体の人形が1568年のバイエルン大公結婚式を祝うもので、騎士が馬上槍試合をしたり、ビール樽を作る職人たちが踊るものだが、たくさんの観光客が面白そうに見上げている。
街角で素人にしてはとても達者な演奏を聴かせてくれる人たち、街を歩いている人々も集まって一緒に楽しんでいる。
  

駅前から毎日のように出発する人気の「ノイシュヴァンシュタイン城とリンダーホーフ城へ行く1日観光」のバスに参加する。
日本の個人ツアーの人たちもたくさんやって来て、出発前に日本語が飛び交うのが面白い。
アルプスに近いオーバーアマガウとフユッセンの街を目指してバスは出発。
私の好きな作曲家、R.ワーグナーのオペラに魅せられたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が建てた城、そのおとぎ話に出てくるような造りの美しさで有名な城を見れると思うと期待で胸が高鳴る。
まずは訪れる予定の最初の城、リンダーホーフ城へ到着する。
  

1874~1878年に造られたロココ様式のリンダーホーフ城、その前にある庭園と噴水の眺めがとても良い。
ワーグナーの「タンホイザー」第一幕の舞台となるヴィーナスの洞窟は、ルートヴィヒ2世が舞台に寄せていた幻想的な想いを偲ばせるものだったが、撮影禁止で写真が撮れなかったのが残念。
 

バスが休憩したオーバーアマガウという村は、キリスト受難劇が有名でこれを見るだけのために来る日本人もいるという。
ホーエンシュヴァンガウ城は、ルートヴィヒ2世の父、マクシミリアン2世が12世紀に築かれて荒れ果てていた城を再建し夏の狩りの城としたところだが、彼と弟オットーはここで幸せな子供時代を過ごしている。
 

17年の歳月と巨大な費用をかけて造られた白亜の美しい城、ノイシュヴァンシュタイン城を見ていると、ルートヴィヒ2世が妃をめとらず孤独と狂気に満ちた生涯を送ったこと、そして城に幽閉された翌朝シュタルンベルク湖で謎の死をとげたことなどが浮かんできて胸の中を駆け巡る。
ワーグナーの擁護者として、異常なまでに彼のオペラに取りつかれた王は、「ローエングリン」、「パルシファル」など数多くのオペラの場面を場内の壁画に描かせていて、見ているとその場面の音楽が胸の中にふっと浮かび上がってくる。
国の財政を傾けた城が、今やバイエルン随一の観光収入源として光り輝いているのが何とも皮肉。
城からの眺めは、本当に絵に描いたように美しい。
 

ミュンヘンからザルツブルクまでは1時間半の距離、モーツアルトの生誕地に行けると思うだけで嬉しい気持ちに駆られてしまう。
最初に訪れたミラベル宮殿は、ホーエンザルツブルク城をバックに旧市街を見渡せる絶好の場所にある庭園だけあって、多くの観光客がひっきりなしに訪れている。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場する美しい眺めの宮殿だが、高校卒業の頃にこの映画を見たせいかどんな場面だったのか思い出せないでいる。
少し先のザルツァッハ川に架かっている橋まで行くと、思わぬことに川沿いにカラヤンの生家を発見、玄関の前だと思うが指揮をしているカラヤンの像があって生前の活躍ぶりが目の中に浮かんでくる。
 

モーツアルトの生家は、1756年に生まれてから7歳まで過ごした家。
彼が最初に使った楽器類をはじめ自筆の楽譜や少年時代の肖像画などが展示されている。
好きな作曲家だけに興味の尽きないひと時を過ごしたが、写真が撮れなかったのが何とも残念。
中央にある高さ15mのレジデンツの泉、ザルツブルク大聖堂、そしてレジデンツ(大司教の館)など、見どころの多いレジデンツ広場には多くの観光客が集まっている。
  

疲れていたせいもあって、ケーブルカーを利用してホーエンザルツブルク城にたどり着く。
説明書を見ると、この城は「・・・神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争の際、教皇派のザルツブルク大司教ゲープハルト1世が1077年に築いた要塞に始まる・・・」とある。
そんな城から、城主になったような気分でザルツブルク市街を眺めてみる。
統治する人々が住む街並み、そして周りの風景が重みをもって自分の目の中に入ってくる。
眺めているうちに、責任ある立場にいる城主の気持ちが何となく理解できるような気がしてきた。
  

「台湾ぐるり周遊5日間」の旅

2010年03月10日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★ 2月1日~5日
台中<宝覚寺>→日月潭<玄奘寺>→<文武廟>→台南<赤嵌楼>→高雄<蓮池潭>→<寿山公園>→<六合二路夜市散策>→墾丁<ガランピ岬>→花蓮<三仙台>→<太魯閤峡谷>→台北<国立故宮博物院>→<中正紀念堂>

2月はじめ、寒い日本は遠慮しようと旅行ツアー「台湾ぐるり周遊5日間」に参加する。
台湾の人々は親日的だし、料理も美味しいということなので期待に胸を弾ませる。
まずは、台北から約180Kmほど南、台湾海峡側のやや中央にある台中市を訪れる。
日本人とも深いつながりのある寶覚禅寺は、高さ約30mの金色の弥勒菩薩像が有名ということで、どんな仏様かと思って見てみると、どうみても布袋様にしか見えないから面白い。
 

終戦後、在留日本人は総て故国に引き揚げたが、着の身着のままで物故者の遺骨を持ち帰る余裕もなかったとのこと。
台湾で日本人と結婚した中国人の方(日本名・野沢)が、戦後10数年もかけて島内で引き取り手のない約2万人の日本人の遺骨を集め、そのうち1万4千人分を収めているのが境内にある納骨堂なのだという。
次に訪れたのは台中から40Kmほど内陸にある台湾有数の景勝地「日月潭」、日本で言うと箱根芦ノ湖の感じとよく似ている。
そこにある玄奘寺は1965年に創建された寺で、西遊記でよく知られている玄奘大師(三蔵法師)の霊骨が祀られている。
玄奘大師は602年に出生、11才で父母を失い、13才の時に洛陽にある浄土寺に入り出家、20才の時に長安を出てインドに向かったと云われている。
インドから長安に帰ったのは645年、43才の時とされているから23年間にわたる長い旅だったことになる。
 

玄奘大師にお参りした後、何やら厳かな気持ちで境内へ出る。
そこから眺める湖は、一段と素晴らしい景色を見せてくれる。
 

次に訪れたのは日月潭の畔にある文武廟、ここに祀られている神様はいわゆる有名人。
廟は前殿、中殿、後殿の三殿様式になっており、前殿は文廟で文の神である孔子が、中殿は武廟で武の神である岳飛や関羽が祀られている。
建物の壁に彫られているのは、龍や虎が多い。
  

台湾の小京都とも呼ばれる台南市の赤嵌楼(紅毛城とも)を訪れる。
ここは、1653年に台湾南部を占領したオランダ人が建てたもので、当時はプロビデンシア城と呼ばれていた。
その後、台湾の英雄とされている鄭成功が、1661年にここを奪還して承天府と改名した歴史のある建物。
鄭成功は日本とも関係がある人で、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」を紐解くと、「主人公・和唐内こと鄭成功は、1624年福建省出身の貿易商・鄭芝龍と平戸の女性・田川マツとの間に平戸で生まれ、幼名福松の名で弟七左衛門とともに幼少期を過ごした」とある。

 

台北につぐ大都市、高雄にある蓮池潭という池には面白い話がある。
畔にある二つの塔の入り口が、それぞれ龍と虎になっていて、多くの観光客が龍の口から入って虎の口から出ている。
これは、災いから逃れられるという中国のことわざ、「虎口逃生」に基づいているのだという。
 

夕方になって訪れた寿山公園の忠烈祠の近くから見下ろす高雄港や高雄市内の眺めが素晴らしい。
忠烈祠には国民革命の烈士たちの霊が奉られており、敷地内には清代の大砲が戦士たちの魂を弔うために供えられている。
 

夜になって、高雄市の名物の六合二路夜市を散策する。
500mほどの間の道路両側を屋台がひしめく市場で、夕方から深夜にかけて食を求めてやってくる人達でごった返し、にぎわいをみせている。
港町の高雄だけあり、新鮮な海鮮を並べた屋台の多いのが特徴となっている。
 

台湾の最南端の地、墾丁にあるガランピ岬の前方には陽光にきらめく大洋が広がっている。中国との間の台湾海峡が広々と横たわっている。
ここにある灯台が、海域を航行する船舶の重要な道しるべとなっていることは間違いない。
 

台湾でも人気の名所となっている「三仙台」の名称が気になって調べてみると、「・・・八人の仙人が荒れ狂う海を超える時に、そのうちの呂洞賓,何仙姑,李鐵拐の三人がこの島に降り立ち、三つの巨石となって陸の方をいつもじっと眺めている」という伝説に因るらしい。
バスが「北回帰線記念碑」があるところで停車、早速その大きな塔を眺める。
「北回帰線」そのものが良くわからなかったので、またもや調べてみると、位置は北緯23度27分で、夏至と冬至に太陽の真下となる地点を連ねた線だという。
  

花蓮の街からバスは、太魯閤峡谷(タロコ渓谷)を一路目指す。
この渓谷は世界でも珍しいという大理石の大峡谷で、立霧渓を挟んでそそりたつ大理石の目もくらむような断崖絶壁が、約20Kmも続く風景はたしかに素晴らしい。
奇岩怪石と水の美しさもあいまって、台湾の中でも特に人気のある観光地になっている。
「タロコ」の地名は流域の台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとか、高名な頭目の名に由来するとかではっきりしていない。
  

今回の旅で最も楽しみにしていた国立故宮博物院、ここには中華民国政府が台湾へと撤退する際に、悪く言うと紫禁城から掠め去った多くの美術品が展示されている。
その数が60万8985件にも及ぶというから大変なもので、世界四大博物館のひとつにも数えられている。
限られた時間の中を通り過ぎるように見たので、何が良かったのかあまり思い出せないのが残念。
中正紀念堂は中華民国の初代総統・蔣介石(本名は「中正」)を顕彰して1980年に建てらている。
北京の天壇を模して造られた本堂の屋根は八角形で、これは「忠、孝、仁、愛、信、義、和、平」の八徳を象徴しいるのだという。
 

蒋介石とその夫人、そして孫文のことが気になるので、略歴を述べてみる。、
蒋介石:日本の陸軍士官学校へ留学し、その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得、後に国民政府の主席となる。
第二次大戦後、中国共産党との国内戦に敗れ台湾に逃れたが、その後死去するまで中華民国総統の地位を続ける。
蒋介石夫人:美齢夫人は、当時高名な財閥であった宋家の三姉妹の三女にあたる。
長女靄齢は財閥の孔祥煕へ、次女慶齢は革命家の孫文に嫁ぎ、「ひとりは金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した」ともいわれる有名な美女三姉妹のひとり。
孫文:中国の清末から民国初期の政治家・革命家で初代中華民国臨時大総統になっている。
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」とか「国父(国家の父)」とも呼ばれ、二つの中国で尊敬される数少ない人物とされている。
 

「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>

2009年11月03日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺址→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

翌朝一番に訪れたのは、百済の都扶餘で仏教の中心的な寺院であった定林寺跡。
この寺の五層石塔は益山(イクサン)の弥勒寺跡石塔と共に、ただ二つだけ残された百済時代の石塔という点で、とても貴重な遺跡として評価されている。
この寺の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ形で、日本に伝わった「四天王寺形式」と見られていた。
ただし最近の発掘で、金堂の東西に長い建物があったことが判明したとの話も聞いているので、伽藍配置については今後しっかりと見守る必要がありそう。
塔の一層目には、百済を攻めた唐の将軍蘇定方が戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」の文字が見える。
奥の方の建物には、高麗時代の作と言われる石仏が安置されており、雪だるまに似た顔の表情は慈愛に満ちている。
  

王興寺跡は、百済の王宮があった扶蘇山の脇を流れる白馬江の対岸に広がっている。
心柱の礎石の中から発見された舎利容器には、「亡くなった王子の冥福を祈り威徳王(百済第27代)が577年に創建した」と寺の縁起が刻まれていた。
発掘された王興寺跡と、6世紀末に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺との間には、伽藍配置、仏舎利を納めた塔の心礎の構造、その周辺を飾った宝飾品などに類似点があるという。
「日本書紀」には、王興寺発願の577年に百済王は造寺工と造仏工を日本に送ってきたとあり、その約10年後に飛鳥寺が建立されている。
この発掘跡を眺めていると、タイムスリップして壮大な寺を建立している造寺工の姿が目の中に浮かんでくる。
 

国立扶餘博物館には、百済芸術の極致である百済金銅大香炉が展示されている。
ドラマ「薯童謡」の最終回を思い出す。
王妃ソンファは百済の栄光と王ソドンへの思いを込めて博士モンナスに香炉を作らせる。
5羽のオシドリは百済を支える民を意味し、上部の鳳凰は民を抱く王の姿を現しているのだという。
その眩いばかりの光を放つ金色の香炉の姿形を何と表現したらよいのか、言葉では表しきれずただただじっと見つめるばかり。
七支刀にしろ、百済の工芸技術の水準の高さにはとにかく感心させられる。
  

四神図の一部分と思われる白虎と朱雀を描いたパネル、そしてこの後訪れる予定の弥勒寺にある韓国最大、最高(14.24m)の石塔のパネルも表示されている。
 

陵山里古墳群(バスにて)は扶餘をとりまく羅城のすぐ外にある古墳群で、百済王陵として伝承されている。
王陵は城壁の外に築かれたというし、正規の使節を迎え入れる東門のすぐそばにあるという事がその根拠らしい。
バスは一路、論山(ノンサン)近くの般若山にある潅燭寺(クァンチョクサ)へと進む。
石段を登りながら大きな山門を見上げる、この後ろには恩津弥勒と呼ばれる有名な石仏がのっそりと立っているはず。
 

高麗時代、10世紀の作品という石造りの弥勒菩薩の立像をじっと見つめる。
中国の智安という名僧がこの像を見て、あたかもローソクの明かりのように光ると言い、この寺を潅燭寺と名づけたと言われている。
韓国で最も大きな石仏だというが、表情がかわいいしユーモラスな温かさがあるので、拝む人には全く威圧的な印象を感じさせない弥勒さんである。
  

益山(イクサン)の弥勒寺は百済の巨大な国立寺院で、中国にも日本にも例がない三塔三金堂一講堂様式は、百済人の独創性によって造られたのだと思う。
それに熱烈な弥勒信仰と国家の精神的象徴を目指した武王の仏教信仰が結びついたらしい。
背景の山頂を挟んで立っている二本の柱は幢竿支柱(とうかんしちゅう)と呼ばれている。
法会や祈祷の儀式の際に旗を掲げるが、その竿を支えるための柱のことで、実際はそれぞれが東と西にもっと離れて置かれていたはず。
中院の東西に置かれていたと思われる九重の塔は、東のほうだけ復元されて白くそびえている。
 

国立扶餘博物館のパネルで見た大きな石塔は、17年かけての解体・復元作業中だったが、塔の心礎に置かれた金銅製舎利容器と由来を記した金板が見つかった事は大きい。
銘文から塔が建立されたのは639年、更に弥勒寺は国家の寺だったと判明、四隅にある像もその通りだと頷いている。
  

輝きを保ったまま見つかった黄金の舎利容器、現物は別の所で展示中との事で見れなかったが、完全な形で発掘された金色に輝く金銅香炉は展示館に置かれている。
バスで少し先に進んだ所にある王宮里五重塔は、扶餘定林寺跡の五層石塔とよく似た形をしている。
百済第30代武王の離宮だったとか、武王が都を一時期扶餘からこの地に移したのではとか、いろいろの説が言われている。
周囲からは「官宮寺」銘の瓦などが出土しているので、大官寺ではという見方もあるが、いずれにしても発掘中の建物は武王時代の建立だと思う。
  

ホテル到着後に観光パンフレットを見ると、全州は500年の花を咲かせた朝鮮王朝の発祥地だとか、伝統舞踊ハンチュム、そしてパンソリの本場という様なことが一杯載っている。
”700余りの伝統家屋が立ち並ぶ昔からの文化の香りが漂う全州”というキャッチフレーズに誘われ、早速すぐ近くにある全州韓屋村を歩く。
韓屋村で食べた韓定食、スープ湯とチゲに30種類ほどのおかず、食道楽の五感を満足させてくれると共に人の心まで温めてくれるのが売りとなっている。
 

韓国で一番有名な物語「春香伝」のふるさと、南原の広寒楼苑を訪れる。
中に入ると、きれいに整備された公園になっている。
物語の主人公で烈女の鑑とされる春香(チュニャン)を祭っている祠の前に立ち、礼を捧げる。
   

「春香伝」のストーリーは、「・・・妓生の娘、春香と両班の息子、李夢竜は互いに愛し合っていたが、夢竜の父が転勤となり結局2人は離れ離れとなる。
代わりに赴任してきた悪役人に強く迫られ獄にまで入れられたが、春香は必死に貞操を守り続ける。
厳しい科拳の登用試験に合格した夢竜は暗行御史(日本でいう隠密同心?)として南原に潜入し、ついに春香を救い出す。」というもの。
皮肉なことに、赴いた地方官吏の業績を示す沢山の碑が堂々と並んでいる。
 

紅葉の季節はさぞかし美しい渓谷だろうなと思いながら、風光明媚な智異山麓の名刹といわれる雙溪寺(サンゲサ)を目指して、長々とした坂道を登る。
やっとたどり着いた寺の山門が、立派な構えをして訪れる者を迎えてくれる。
 

大雄殿の手前にある石碑は後で知ったのだが、この寺の唯一の国宝「真鑑禅師大空塔碑」で、「韓国四大金石文」の中で最高とされているものらしい。
梵鐘閣の鐘と太鼓はどういう時にどう使われるのか、興味を惹くところではある。
 

露梁津と呼ばれる南海島と半島本土との間の海峡に立ち、ここで行われた朝鮮の役最後の大きな海戦(韓国では露梁大捷と呼ばれている)に思いを馳せる。
順天城守備の小西行長らの撤退を支援するため、海路出撃した島津軍を中心とした日本軍と激しい戦を展開するも、ついに朝鮮・明連合水軍が大勝する。
しかしながら韓国最大の英雄、李舜臣はこの戦いで戦死してしまうという悲劇に見舞われた所でもある。
 

今日は朝一番で釜山市立博物館を訪れる。
統一新羅時代の優れた工芸技法を窺わせる金銅菩薩立像(国宝)をじっと見る。
高さ34cmで当時の金銅菩薩立像としては大きい方らしいが、優美な姿と凛々しい顔立ちには、しばし心を奪われてしまう。
  

真鍮の器を作っている工房の模様を見ていると、主人公イム・サンオクが吐血の思いで修行に励む、ドラマ「商道(サンド)」の1シーンを思い出す。
朝鮮通信使の行列も、当時の模様をリアルに再現してくれている。
楽しかった旅行も今日がとうとう最後、寂しい気持ちを抑えながら、後ろ髪を引かれる思いで博物館を後にする。
 

今回の百済の旅行、終始親切丁寧に解説してくださった李進煕先生、行く先々で適切なアドバイスをしてくれたガイドさん、そしてこのツアーをしっかりと運んでくれた幹事の皆さんには感謝の念で一杯。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>

2009年11月01日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺跡→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

韓国の中でも一番行きたいと思っていた百済への旅、しかも李進煕先生の中身の濃い説明が聞けるとても充実した五日間(10月9日~13日)であった。
NHK教育テレビ放送開始50周年を記念しての番組、シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」の第3回目「仏教伝来」には、今回訪れた王興寺跡の発掘模様とか益山(イクサン)の弥勒寺跡など重要な項目が出てくるので、興味ある方はぜひ見てほしいと思う。

空港からバスは一路、釜山から西へ130Kmほど離れた古都・晋州(チンジュ)へ向かう。
晋州は壬辰倭乱(文禄慶長の役)の激戦地だった所で、洛東江の支流・南江のほとりにある「晋州城跡」をまず訪れる。
晋州城を守る砦、実際には主将が兵卒を指揮する指揮所として使用されたという楼閣「矗石楼(チョクソクル)」を見上げ、当時の激戦に思いを馳せる。
朝鮮王朝第14代宣祖王の1592年10月、金時敏将軍率いる3800人の城兵と民は、細川忠興らの2万の軍と6日間にわたる戦いのすえ勝利を治めた。
だが翌年6月には宇喜多秀家を総大将とする7万余りの軍が再び城を包囲、晋州城の3千の兵と6万の民が侵略に抵抗して戦ったが、全員殉国したという悲運の場所でもあった。
 

朱論介(ジュノンゲ)は韓国の烈女の中でも、教科書に必ず出てくる人だという。
矗石楼で行われた秀吉軍の祝宴の際、官妓の論介は酔い痴れた相手将校を南江のほとりに誘い出し、手が離れないよう両手の指すべてに指輪をして将校に抱きつき、身を一体にして南江に沈んだのだという。
一説には、この不名誉な将校は加藤清正の将官、毛谷村六助だとも言われている。
朱論介(ジュノンゲ)が祀られている霊廟には、お参りに訪れる人々の列が絶え間なく続いている。
 

城址内の少し先に足を進めると、近代的な建物「国立晋州博物館」があり、壬辰倭乱に関する資料などがたくさん展示されている。
戦闘絵図、記録文、武器類、李朝や秀吉の各文書、そして晋州城攻防戦のパノラマなど、さらに亀甲船の模型もある。
晋州城の戦いだけにこだわらず、壬辰倭乱の全貌が学習できる展示内容となっているのが良いと思う。
 

翌日、晴天に恵まれた中バスは公州市の南方、鶏龍山の麓にある古窯跡へと向かう。
鶏龍山陶磁器は、朝鮮陶磁器の中でも定番中の定番とされているらしい。
お茶とか陶磁器は全くの素人なので、鶏龍山陶磁器の資料を紐解くと「・・・李王朝初期、公州郡に近い鶏龍山に点在した陶窯で、素地は鉄分が多く鼠色で粗いため白土を下地に刷毛塗りを用いた。
この白土の上に鉄砂で簡素な絵を描いたものが多く、絵刷毛目などと呼ばれる。」とある。
ここで拾った陶磁器の破片をじっと見ると、たしかにひなびた趣があり、これでお茶を飲んだらさぞかし美味しいだろうなという気持ちが湧いてくる。
 

今回の旅で一番楽しみにしていたのは、未盗掘の墓、宋山里古墳群の武寧王(ムリョンワン)陵が見れることだった。
百済第25代武寧王(謚=おくりな)は「日本書紀」に記されている筑紫の島で生まれた百済の斯麻王(諱=いみな)であること、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると「続日本紀」に記されていることなどから、武寧王は日本との関係がとても深かったことがうかがえる。
1971年に6号墳の排水工事中に偶然に発見された武寧王陵は、百済の確実な年代を証明するもので、韓国発掘史上最大の歴史的価値を持つと言われている。
そんな古墳群を眺めていると、古代日本と朝鮮との関係をもっと知らねばという強い思いが湧いてくる。
 

国立公州博物館には、武寧王陵をはじめとした熊津百済の歴史と文化を示す遺物が展示されている。
この図は青龍だと思うが、説明文を読むと「・・・武寧王陵に隣接する6号墳は横穴式塼室墳で、四神(東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武)の図がそれぞれの壁の中央に大きく描かれている。」とある。
 

武寧王の墓室全体は煉瓦を積み上げて作られた煉瓦墓で、入り口通路に当る羨道と遺体を安置する玄室で構成されている。
墓室は全て蓮の模様の煉瓦で刺繍を施したように美しく積み上げられており、東西の壁には各二個の龕が設けられていて、その一つには燈芯の燃えかすが残っていたという。
 

一番重要な遺物は墓誌石で、「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記されている。
このことから、墓の主人公が武寧王であること、生年は462年でこの年は雄略天皇5年、蓋鹵王7年であることも分かる。
日本書紀の記述の正確性が裏付けられるし、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたことにも驚く。
石獣は王と王妃のお棺前に置かれる悪鬼を追い払う魔除け像とされ、死者を守るという中国の墓葬風習から伝わったものとされている。
 

副葬品も国宝に指定されたものだけでも全12種17点に及んでいる。
王の木製頭枕と木製足座は遺体がしっかりと置ける様に、それぞれ中央がU字型、W字型に切り取られている。
金製冠装飾、金銅製靴、耳飾、首飾、そして腕輪などを見ると、鮮やかに光り輝いて王と王妃の威厳をまざまざと示していたことが良くわかる。
  

泗・百済の都城を守っていた扶蘇山城を訪れる。
泗門を入って先に進むと、「三忠祠」(サムチュンサ)がある。
百済滅亡直前の臣下であった成忠(ソンチュン)、興首(フンス)、そして堦伯(ケベック)の三人の忠臣を祀っている。
資料によると「・・・成忠は誤った政治をただすために努力した諫臣だったが、獄につながれ断食をして死した。
興首は敵の攻めに対し5000名の決死隊を作り戦ったが、大臣達の反対もあり炭峴の城を守りきれず戦死した。
堦伯将軍は唐・新羅の連合軍に対して4度戦い、4度とも勝利したが衆寡敵せず、最後は妻子の命を絶ったのち討ち死にした。」とある。
 

扶蘇山の南にある半月楼から、百済の都であった扶餘(プヨ)の街を一望する。
百済は滅亡するまで、漢城、熊津、そして扶餘と三度都を変えながら678年間続いた国、そして漢字、仏教、灌漑技術などを日本に伝来、もしかしたら国家形態そのものまでをも伝えていたのかもしれない。
そう思いながらこの街を一望していると、滅亡前の盛んだった百済の都の姿が眼の中に鮮やかに浮かんでくる。
扶蘇山の頂上にある百花亭から眺める白馬江の大河が、その悠々とした流れを見せている。
 

新羅・唐連合軍の攻撃で泗城が落城する時、百済の宮女3000人は敵に辱めを受けるよりはと断崖から白馬江に身を投げ、そのチマチョゴリの舞う姿は花が散るようであったと言う。
落花岩から身を投げた女性の霊を慰めるため、高麗時代に皐蘭寺が建てられ、今では多くの人々が訪れ祈りを捧げている。
白馬江を下る船の中、宮女3000人が飛び降りた断崖(落花岩)を見ていると、惜別の念がひしひしと胸の中に迫ってくる。
 

この旅の後半は「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>に続く。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」

2008年12月01日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★
<釜山>梵魚寺→ジャカルチ市場→<対馬>大船越(美津島)→万関橋→小船越→梅林寺→円通寺(峰)→韓国展望台(上対馬)→佐須奈の港→対馬野生生物保護センター→天神多久頭魂神社(上県)→海神神社(木坂)→金田城遠望(美津島)→黒瀬観音堂→石屋根(厳原)→歴史民族資料館→長寿院→厳原町資料館→万松院→西山寺→<釜山>子城台→倭館・日本人居留地→龍頭山公園

釜山と対馬の自然、古代の朝鮮と日本の史跡、そして朝鮮通信使の歴史を巡るという中身満載の贅沢な旅に参加する。
「居る所絶島にして、方四百余里ばかり、土地は山険しく森林多く、道路は禽鹿のこみちの如し。千余戸有り、良田無く海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴す。」...「魏志倭人伝」に記述された対馬である。
実際に対馬を訪れその感じを体感したいというのが今回の旅に一番期待したことだが、釜山でのおいしい韓国料理も期待大、胸を弾ませつつ成田から釜山へ旅立った。

最初に訪れたのは、釜山金井山麓にある梵魚寺という由緒あるお寺。
参道を歩き始めるにつれ、周りの山々が紅葉に映えて素晴らしい眺めを見せてくれている。
前を見ると参道の先に山門が見えてきた。
 

一匹の金色の魚が五色の雲に乗って梵天から下りてその中で遊んだといわれ、金色の井戸(金井)という山名と天井の魚が棲んでいたことに因んで、梵天と魚、すなわち「梵魚寺」という寺名がつけられたとのこと。
右下には、紅葉に囲まれた安養庵(祖室棟)が望める。
天安門に安置されている四天王像のユーモラスな表情が面白い。
広目天は塔を、増長天は竜を、時国天は剣を、そして多聞天は琵琶を持って立っている。
   

寺に参入する最初の門(一柱門)を通ると、二重基壇の上に石で造られた統一新羅時代(9世紀頃)の典型的な三重石塔が建っている。
大雄とは真理で衆生の苦痛を救う釈迦を示す言葉らしい。
そして、殿とは「家」という意味になる。
建物の中では、訪れた人々が本尊仏である釈迦如来に熱心に祈りを捧げている。
 

心を洗われた面持ちで寺を下りると、一転してバスは東南アジア最大?の魚市場「ジャカルチ市場」へと向かう。
店頭にはたくさんの魚介類が所狭しと並んでいて、じっくり見ている暇などは全く無い。
 

釜山港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を、その場で味わうというのがこの市場での楽しみらしい。
店先で食べたい魚介類を選び、急ぎ足で二階の食堂へと向かう。
新鮮な刺身を目の前にして、何やら贅沢な気持ちになってしまうが、ついつい食べすぎ飲みすぎになってしまうので気をつけないと。
 

旅は釜山からフエリーで一路対馬へ、大船越を過ぎ次に訪れた万関瀬戸は対馬の交通の要所とされる所。
万関瀬戸は浅茅湾と三浦湾の間に開削された運河で、ここに架かる橋が万関橋。
明治33年(1900)、旧大日本帝国海軍が浅茅湾にある艦船を対馬東方海上に速やかに移動させるために開削し、1905年に起きた日露戦争の日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃したという。
橋からの眺めが素晴らしく、今は対馬の人気観光スポットの一つになっている。
 

小船越と呼ばれる地、日本海側の小船越浦と朝鮮海峡側の深浦の距離は300mほどしかない。
船で往来していた古代の頃、ここは日本海と朝鮮海峡を繋ぐ場所だった。
遣隋使・遣唐使の船が丘を越えて曳かれて行った姿が目に浮かぶ。
梅林寺は、百済の聖明王から欽明天皇に献呈された仏像を仮置きするために建立された日本最古の寺と伝えられている...対馬は古い歴史のある島。
この寺に置かれている誕生仏、予想よりずっと小さい体には短い裳をつけたのみで、右手で天を、左手で地を指している独特の形が印象的だ。
  

東岸の峰町佐賀(さか)は15世紀の宗氏の本拠地とされる所で、応永15年(1408)に宗貞茂が佐賀に居館を構え、貞盛・成職と三代続いたという。
円通寺は当時の宗氏の菩提寺であり、すぐ横に宗氏の墓所とされる中世の宝篋印塔群がある。
 

寺の梵鐘は李朝初期の朝鮮で鋳造されたものとされていて、形状も日本にはない特徴的なものがうかがえる。
円通寺の本尊である薬師如来坐像は13世紀作の高麗仏だが、ふくよかで慈悲に満ちた顔の表情は見るものの気持ちを和らげる。
  

バスは北上しその日は比多勝の国民宿舎、上対馬荘に泊る。
翌朝の朝焼けが何とも言えない色合いで、各部屋のツアーの連中も一斉にベランダに出てこの素晴らしい風景を眺めている。
ぜひ釜山を見ようとバスは一路、韓国展望台へと向かう。
ここから約50Km先には韓国があり、対馬はまさに国境の島。
 

空は晴れていたのに、海の向うは霞がかかっていて残念ながら釜山が見えない。
夜になると、釜山の夜景が特に素晴らしいらしい...何とも残念。
断腸の思いでバスへと引き返す。
佐須奈の港には昭和の終戦まで釜山と結ぶ定期航路があり、佐須奈の町もずいぶん賑やかだったという。
物資や人々の流れはもちろん、対馬住民は買い物や病院通いでも釜山まで気軽に出掛けていたという。
残念ながら、その面影は今は無い。
 

対馬ヤマネコを見ようと野生生物保護センターへと向かう。
期待してセンターを訪れたのだが、ヤマネコの体調が悪く公開は中止とのこと、残念だが諦めざるを得なかった。
対馬ヤマネコのポスターの写真と高麗キジの剥製の展示で我慢するしかない。
今度の旅で一番印象が深かったのが、神社の原形とはまさしくこうだったのだと体で感じさせてくれた天神多久頭魂神社(あまのたくずたまじんじゃ)を訪れたことだった。
  

対馬ガイドブックには、この神社のことを「・・・貞観12年(870)3月5日「日本三大実録」の授位にその記載があり、上県の佐護と下県の豆酸に天道法師伝説の信仰として天神地祇を祀った古い神社で、杜の無い磐座(いわくら)の祭壇で有名・・・」と書いてある。
ご神体は山そのものであり、山の辺の道にある大神神社(おおみわじんじゃ)を訪れた時のあの神聖な気持ちをここでも深く味わったのだった。
 

全国一之宮を訪れようと思っている私にとっては、対馬一之宮である海神神社(わだつみじんじゃ)に来れたのはとても嬉しいことだった。
神社周辺の木坂山(伊豆山)は千古斧を入れない原生林で、境内はかなり広く山全体が御神域とされている。
伊豆山の伊豆とは「稜威」「厳」であり、不浄を許さない聖地を意味するという。
ここにある如来立像は統一新羅(8世紀初め)時代の作で、白鳳仏のような古様を残している。
40cm弱の高さは私には小さいように見えるが、新羅仏としては大型なのだそうだ。
鎌倉・室町時代頃の鬼面や舞楽面が8面ほど展示されており、その表情はとても魁偉なもの。
  

遠くに金田城を望む、この城は朝鮮式山城と呼ばれるもので、逃げ込み城とも云われる。
「日本書紀」に、白村江の戦(663)で敗れた後、天智天皇6年(667)に大和・高安城(奈良県平群町)、讃岐・屋島城(高松市)とともに、この金田城が築かれたとある。
金田城と対岸の入江にある黒瀬観音堂には、新羅仏の如来坐像と菩薩立像が安置されている。
如来坐像は地元では「おんながみさま」と呼ばれ、安産の神様として信仰されている。
仏像の専門家ではないので私感になってしまうが、仏像の種類の中では一番好きな観音様である如来坐像の表情がとても端整で美しいと感ずる。
  

対馬空港へ行く途中の道脇にある石屋根の家を見る。
対馬で産出する「島山石」という板状の石で屋根を葺いた高床式の建物で、穀物を中心とした食糧や日常生活用品を保管するための倉庫として使用されたという。
この朝鮮通信使の碑は場所の記憶が薄れてしまったが、歴史民族資料館の横に建てられていたと思う。
 

朝鮮との交隣に尽くした雨森芳州の墓がある長寿院を訪れる。
雨森芳州は滋賀県の出身、木下順庵の門下生で後に朝鮮との外交官として対馬藩に仕官した人。
「誠信の交わり...互いに欺かず争わず、真実をもって交わり候事」と説く外交哲学は、時を隔てて現代にしてなお光りかがやいている。
彼はこの寺の裏山に静かに眠っている。
  

金沢の前田藩、萩の毛利藩とともに日本三大墓所の一つとされる宗家の菩提寺「万松院」は、宗家20代義成が父義智の冥福を祈って元和元年(1650)に建立したと伝えられている。
門を入ると、諫鼓(かんこ)という見慣れない文字が眼に入る...説明板には「領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓」とある。
そういえば韓国ドラマで、後の世宗大王がまだ子供の時に王である父に諫言しようと太鼓をしきりに打ち鳴らすシーンがあった。
朝鮮と交流していた対馬藩は、いろんな意味で朝鮮王朝の影響を受けていたに違いない。
宗家の墓へと続く参道を、ゆっくりと足を踏みしめて上っていく。
  

大きな杉の木が鬱蒼と散立するなか、宗家代々のお墓がひっそりと佇まっている。
宗家19代宗義智の墓を詣でる、正室のマリアは小西行長の娘、義智は文禄慶長の役や関ヶ原役に出陣、幕府と朝鮮との中に入って国交回復にも尽力したとある。
 

江戸時代に幕府の対朝鮮外交機関が置かれていたという西山寺を訪れる。
豊臣秀吉の無謀な出兵によって最悪の状態に陥っていた日朝関係を修復し、平等な友好関係を維持するの大きな役割を果たしたのが、対馬臨済宗を統括した府中の西山寺の僧だったという。
旅路は釜山へと移り、「子城台」(正式名称「釜山鎮支城」)の石垣を見に行く。
もともと釜山浦には関門ともいえる「釜山鎮」があり、日本軍がそこを陥落した後、毛利輝元がその東南側に支城として築き上げたものが「子城台」とのこと。
 

江戸時代、釜山倭館と呼ばれる地は石垣を廻らせた日本人居留地(倭館)であり、対馬藩の人達だけが交易や朝鮮通信使の接待の為に住んでいたという。
当時の建物の面影を残す屋根が少しだけ残っている。
龍頭山公園のタワーから対馬方面を望むと、何と山の右側に対馬がはっきりと見える。
遠く島が見えると、そこに行きたくなるのが人間の自然な心情というもの。
多くの古代の人々が海をわたって倭の国に渡来した訳が理屈ぬきで良く分かる。
旅の終わりに、こんな感動的な一シーンが待っていたとは!
 

今回の旅で、終始親切丁寧に解説してくださった李進煕先生や行く先々で適切なアドバイスをしてくれたガイドさん、そしてこのツアーをしっかりと運んでくれた幹事の皆さんには、感謝しても仕切れない気持ちでいる。
ツアーに参加した方々も同じ気持ちでいるはずで、私などは次回の旅にもう夢を馳せている。
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」
「壱岐・対馬の旅」

エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その2(トルコ編)

2008年06月30日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★
イスタンブール(ボスポラス海峡)→トロイア遺跡→エフェソス遺跡→パムッカレ(石灰棚・ヒエラポリス遺跡)→コンヤ(メヴラーナ博物館)→カッパドキア(カイマクル地下都市・ギョレメ野外博物館)→トゥーズ湖→アンカラ→イスタンブール(トプカプ宮殿・ブルーモスク)

カイロ空港から飛行機で一路イスタンブールへ、「飛んでイスタンブール!」の気分。
古代からのヨーロッパとアジアの架け橋だったイスタンブールに到着、東西文明の接点にあるトルコ、これから訪れる沢山の古代遺跡がとても楽しみ。

マルマラ海と黒海を結ぶボスポラス海峡、それはまたアジアとヨーロッパを分ける海峡でもある。
2つの大陸を眺めながらのクルージング、しばらくするとアジアとヨーロッパを繋ぐ第1ボスポラス大橋が目の前に迫ってくる。
もう少し進むと、ルメリ・ヒサールと呼ばれる要塞が見えてくる。
ビザンティン帝国時代の首都コンスタンティノープル、時のオスマン帝国スルタン・メフメット2世(征服王)は、ついにこの街を1453年に陥落させる。
その際の軍事拠点として建てられた要塞がこれで、その威容を誇る建物は眼を見張らせるばかりの壮大さだ。
 

イスタンブールの市内に戻っての夕食、どの店も外にテーブルを出して食事を提供している。
トルコ独特の音楽も流れていて、この国の人々は、食事はとにかく楽しく取るものという習慣が身についているらしい。
夜は情熱的なベリーダンスの踊りにしばし見とれる。
踊り手の女性は、素晴らしい美人(イスラム圏の若い女性は皆とにかく飛び切り美しい、年をとると一律に太ったおばさんになるけれども)で、尚且つダンスの上手なこと、男どもが皆すぐ惑わされるのも無理は無い。
イスラム圏の女性、男どもの指図だと思うが、誘惑されないようにチャドルを着て、顔と体全体を隠す訳が良くわかる。
 

イスタンブールから伝説と神話に彩られた古代都市トロイアを目指し、バスは約350Kmの道のりをひたすら突っ走る。
この遺跡の発掘者シュリーマンは、子供の頃に見聞きした炎上するトロイアの挿絵や、ホメロスの語る英雄達の物語が忘れられず、ついに遺跡発見の夢を実現したという。
ホメロスの英雄叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」のトロイア戦争の話を要約しよう。
「・・・トロイアの王子パリスは世界一の美女といわれたスパルタ王妃ヘレネを、王の留守中にくどき落とし故郷に連れ帰る。
妻の不実と友の裏切りを知ったスパルタ王は、全ギリシャの英雄達を募り復讐の軍を起こす。
神々も二分する争いとなり、不死身といわれたギリシャ軍のアキレウスは唯一の急所の足首をパリスに射抜かれて命を落とす。
また、パリスもついで仆れてしまうが、戦争は10年間決着が付かないまま続く。
そんなある朝、ギリシャ軍は大きな木馬を残して撤退してしまう。
勝利を疑わないトロイア軍は、城門を壊して木馬を街の中に入れ祝宴を開く。
その夜、夜陰に乗じて戻ってきたギリシャ軍と木馬に隠れていた50人の兵士がトロイアを激しく攻め立てる。
全てはずる賢いオデュッセウスの策略で、全くの無防備だったトロイアの都は一瞬に陥落してしまう。
スパルタ王は、ヘレネを取り戻しスパルタへ帰り、こうしてさしものトロイア戦争は終わりつげる。・・・」
写真右は神々の儀式に使われた場所で、ペルシャ王が雄牛100頭を、アレクサンダー大王もここで神々に供物を捧げたという。
アレクサンダーが立った場所に、自分もいると思うと不思議な気持ちになる。
 

トロイアから南に約150Km、エーゲ海沿いの港町アイワルクに泊る。
ホテルの窓から眺める青く透き通って輝くエーゲ海が何とも美しい。
翌日、約250Km南にあるエフェソス遺跡へ向かい、まずは「聖母マリアの家」を訪れる。
聖母マリアはイエスの死後に聖ヨハネとともにこの地に移り住み、余生を送ったといわれ、後にその家の跡に小さな教会が建てられ、現在ではキリスト教徒の聖地になっている。
このマリアの家の場所は長い間忘れられていたが、19世紀にドイツの修道女カトリーヌ・エメリッヒが、一度も訪れたことがないこの家の場所を記録に残し、後にこの記録を元にこの場所が突き止められたという。
 

紀元前300世紀頃から建設されたエフェソスの街の名は”地母神の王国”という意味を持つ”APASAS(アパサス)”から由来しているという。
ハドリアヌスの門を見ながらクレテス通り(神官通り)を下っていくと、セルシウス図書館と呼ばれる優美な建築物が見えてくる。
この街の知事を務めた父の墓の上に、息子が壮麗な図書館を建設したのだという。
アレキサンドリアのそれと並ぶ、一万冊以上の蔵書を収めていたらしい。
このあたりはこの遺跡のハイライトの場所で、壮大な建物を背景にたくさんの観光客がカメラのシャッターを切っている。
 

アントニウスとクレオパトラが歩いたアルカディアン通り(港通り)を眺める。
港から大劇場へと続く道で、夜は街灯が灯り、国家の要人の歓迎式典もここで行われたという。
現在エフェソスフェスティバルが大観衆を集めて開かれると言う大劇場を望む。
パナユル山の斜面を利用して造られた劇場で、2万5千人を収容するエーゲ海地方でも最大規模のものであった。
 

エフェソスからトルコ語で「綿の城」という意味を持つパムッカレへ、再びバスは150Kmの道のりを移動する。
石灰棚には温泉水が流れ込んでいて、観光客は足湯に浸りながら、目の前に開ける雄大な景色を眺めている。
写真が上手く取れなかったが、幾重にも重なり合った石灰棚が透き通った青色の湯をたたえ、段々畑のように広がっている景色は幻想的。
 

この石灰棚のすぐ後ろにある、紀元前190年に始まった聖なる都市という意味を持つヒエラポリスの遺跡も素晴らしい。
都市を囲む城壁の内には劇場、神殿、アゴラ、浴場、住居などの跡が残っている。
時間が無く、遠くから眺めるのみとなってしまったのはとても残念。
ペルガモン王エウメネス2世がローマ軍に加勢し、シリアとの戦争に勝利した見返りに、ローマ皇帝からこの街の支配を許される。
やがてはローマの直接支配となり温泉保養地として繁栄したが、14世紀の大震災で壊滅的打撃を受けたという。
 

パムッカレから今度はコンヤまでの約410Kmの長旅、コンヤのインジェ・ミナーレ神学校の前で出合ったトルコの少年少女、とにかく明るくて可愛いい。
即席で覚えた”メルハバ(こんにちわ)”を連発する。
トルコ人は親日的というが、どこへ行ってもそんな感じがしてとても嬉しい。
6月2日のブログに載せた”トルコの神秘な踊り”を読むと話がわかると思うが、独特の旋回舞踊で知られるメヴラーナ教団の総本山、メヴラーナ博物館は多くの訪問者で一杯。
 

バスはカッパドキアまでさらに約230Kmの走り、翌朝、カイマクル地下都市を訪れる。
キリスト教徒がアラブ人の圧迫から逃れるために造った地下都市で、多い時は3000の人々が住み、教会はもちろん、台所、食料庫などの部屋、そして通気孔や石の扉も完備されているという徹底振りに驚く。
 

カッパドキアは、アナトリア高原の中央部に広がる大奇岩地帯で、観光スポットでバスから降り、そこで眺めた不思議な景観は何とも印象的。
ニョッキリと突き上げるキノコのような岩のユニークな形には思わず笑いがこぼれてしまう。
とにかく自然の力の大きさには、無条件に脱帽する。
 

ギョレメ野外博物館の入り口には、ロバと少女がいて盛んに写真撮影を誘っている。
この博物館で見ることが出来るギョレメの地には、4世紀頃から多くのキリスト教徒たちが共同生活を営んでいたが、9世紀頃、イスラム教徒の迫害を逃れた信者たちが、この地に洞窟教会や修道院などを造り始め、「カッパドキア様式」といわれる芸術性の高い鮮やかなフレスコ画を残したという。
 

自分の意思でトルコ絨毯の店に行くというよりも、ツアーにつき物の買い物タイムがあって、バスは一路ガイドさんお勧めの店に向かう。
たしかに、店の説明員が進める絨毯は飛び切り素晴らしいものばかりだが、提示値段が折り合わない。
伝統工芸品のキリムが欲しかったのだが、値段が予想以上に折り合わず断念する。
ツアーなどの場合、値段の交渉は提示額の一割から交渉しろとか、いろいろ聞いていたが、客の度胸次第では充分に満足する買い物が可能なのかもしれない。
トルコの首都アンカラへ向かう途中、トゥーズ湖という大きな塩の湖に立ち寄る。
湖のそばまで塩が覆った道を歩いていったが、湖の周りを囲む真っ白な塩の塊がとにかく印象的。
 

アンカラからは、特急寝台列車アンカラ・エキスプレスに乗って、一路イスタンブールへ向かう。
翌日は、3大陸を制したオスマン帝国のスルタンの栄華を今に伝えるトプカプ宮殿を訪れる。
15世紀に、征服王メフメット2世によって建てられたトプカプ宮殿は、歴代スルタンが約370年にわたって居住した場所、ハーレムは見れなかったが強大な権力を物語る財宝の数々は口では表せないほどの見事なもの。
さじ屋が山で見つけたという86カラットのダイヤモンド、役人が私物化して死罪になったという逸話があるが、宝石が好きな人ならその大きさと輝きを見るだけでも特別なものがある。
  

ラマザン月に王が一日の断食を終えた後、夕食をとったところといわれるテラス、そこから眺める金閣湾やその向うに見える新都市の様子は絶景としか言いようが無い。
イスタンブールを代表するオスマン様式の巨大なモスク、正式名はスルタンアフメット・ジャーミィだが、モスク内部を彩る青いイズニック・タイルの美しさから”ブルー・モスク”の名で親しまれている。
 

独特の雰囲気を作り出している高い丸天井、260にも上るステンドグラスに差し込む光、そして青を主体とした2万枚以上のイズニック・タイルの内壁が織り成す美しさは想像を絶するほどのものがある。
敷き詰められた絨毯も見事で、今でも多くの信者が集う神聖な場というのもうなずける。
 

長いバス移動の旅だったが、焦点を絞ってもう一度訪れたい魅力一杯の国。
但し、お腹をこわす確立90%なので要注意。
日本で直接触れる機会がとても少ないイスラムの文化、その一端に少しでも実際に触れられた事、それが今回の旅行の一番大きな収穫であった。
エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その1(エジプト編)

エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その1(エジプト編)

2008年06月19日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★
カイロ空港→アレキサンドリア→アレキサンドリア国立博物館・カタコンベ・ポンペイの柱→アブ・メナ遺跡→カイロ→ギザ三大ピラミドとスフィンクス→ベン・エズラ・シナゴーグ→エル・ムアッカラ教会→エジプト考古学博物館→モハメッド・アリ・モスク→ハン・ハリーリ市場→カイロ空港

5月後半、一度は行きたいと思っていたエジプト・トルコの旅がやっと実現した。
体調的には、お腹を下したことや移動距離の長いバスの振動で、ダウン寸前ということもあったが、内容的にはいろいろ新しい発見がある面白い旅であった。

まずはエジプト編から:
飛行機は成田からエジプトまでの直行便、深夜にカイロ空港へ到着後すぐにジョゼルパートナーホテル(写真左)へ向かう。
翌日、バスで一路地中海に面するアレキサンドリアへ移動(約235Km)、まずはアレキサンドリア国立博物館を見学する。
紀元前332年にエジプトを征服したというアレキサンダー大王の像、前に教科書かどこかで見たような気がする。
 

古代エジプト唯一人の女性ファラオといわれるハトシェプスト女王の貴重な頭像、在位中は男装していたらしいが、顔の表情はやはりどこか女性的である。
旧約聖書「出エジプト記」でモーゼをナイル川で拾って育てた義母は、彼女だとも言われている。
次にイタリアのものよりも大きいというカタコンベを見学、残念なことに写真撮影は禁止だった。
ラムセス2世の墓から持ってきたと言われている「ポンペイの柱」の遺跡を見学する。
近づいてみると想像以上の大きさで、27メートルもある柱は、一枚岩の花崗岩で造られている。
柱の前には、クレオパトラがこの地に運んできたというラムセス2世の顔をしたスフィンクスがある。
  

アレキサンドリア郊外にある世界遺産のアブ・メナ遺跡を訪れる。
4世紀からこの地域で独自に発達したキリスト教(コプト)の最大の聖地として街が栄えたという。
古代ローマで殉教した聖者メナス生誕の地でもあり、教会、修道院、巡礼のための宿泊施設等がある。
 

アレキサンドリアでのホテルのすぐ裏は、エメラルド・グリーン色の地中海が広がっている。
じっと海原を見つめていると、いつのまにか鮮やかな夕焼けの景色が目の前にせまってきた。
 

カイロに戻って、エジプトで一番に訪れたかった三大ピラミッドがあるギザに到着。
紀元前2560年クフ王によって建てられた大ピラミッド、世界の石造建築で最大といわれる威容を誇っている。
正面の凹んだところが入り口、終始腰をかがめての歩行が続く、たどり着いた王の間?には何も無くがっかり、出て来た時は腰が痛くてしょうがない。
遠方から眺めた三大ピラミッド、左からクフ王、カフラー王、そしてメンカウラー王のもの。
 

カフラー王のピラミッドの前に鎮座しているスフィンクス、ギリシャ神話に面白い話がある。
女神ヘラの命令でテーベにやって来たスフィンクスは、謎かけをして通る旅人を懲らしめていた。
その謎かけとは「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く者とは、誰のことか?」というもの。
テーベの王もこれに挑戦したが、結局答えられずに殺されてしまい、テーベの街はすっかり寂れてしまう。
そこに、勇敢な若者オイディプスが通りかかり、謎かけに対して「それは、人間だ」とずばり答える。
実はそれが正解で、スフィンクスは恥ずかしさのあまり、丘の上から身を投げ出して死んでしまう。
人生の朝・・赤ん坊の時には四つんばいで這うから4本足。
人生の昼・・若い時は2本の足でしっかりと歩く。
人生の夜・・老人の時には杖をついて歩くので3本足。
テーベの街は大いに沸き返り、勇敢なその若者を新たな王として迎え再び栄えたという。
 

カイロの発祥地でもあるオールド・カイロへ向かう。
ベン・エズラ・シナゴーグ(ユダヤ教の教会)では写真が撮れず。
エル・ムアッラカ教会のあたりには、幼いキリストと聖母マリアがエジプトに逃れてきた際に身を隠した地下道があったと言われている。
エジプト考古学博物館は、この旅行の中でも一番期待していたところ。
過去5000年にわたる古代エジプトの歴史的遺産を約250,000点も収蔵しており、その歴史的及び芸術価値も高い。
 

一番の収穫は、ツタンカーメン王の黄金のマスクをじっくり見れたことで、その何とも見事な仮面を前にして、出てきた言葉はただただ「素晴らしい」の一言だった。
巨大なドームとそびえたつ2本のミナレットがとっても印象的なモハメッド・アリ・モスクを訪れる。
 

イスラム教の礼拝堂は土足厳禁、厳かな気持ちでドームの中へ入ると、無数のランプと、巨大なシャンデリアが眼に入る。
サウジアラビアのメッカの方向に祭壇があり、礼拝者はそちらを向いて祈る。
モスクの天井がドームになっているのは、声が響いてみんなに聞き取れるようにするためだとのこと。
最後に訪れたハン・ハリー市場は、約200m四方の地区に1000軒を超える商店がひしめき合っていて、独特の熱気が充満している。
余り時間が無く、ツタンカーメンのマスクの像を値切って購入するのがやっと。
 

エジプトの遺跡、長い時間の歴史があるだけに、ツアーのような急ぎのスケジュールでは深い内容を理解するのはとても無理。
自分でスケジュールを組んでの旅行をと何時も思うのだが、文化や習慣が異なる国ではリスクが伴うし、何とも痛し痒しである。
エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その2(トルコ編)

中国・北京の旅、延々と続く万里の長城に感動!

2007年10月29日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★
明の十三稜→八達嶺国家森林公園→万里の長城→頤和園→胡同→天安門広場→故宮→景山公園→天壇公園

オリンピックに向かって近代化が進む街、そして旧い歴史遺産が沢山ある街、いつかは訪れたいと思っていた中国・北京に到着、ツアーのうたい文句「充実の旅」の中身に期待の胸を弾ませる。
特に一度は見たいと思っていた万里の長城、北方の匈奴から身を守る為とはいえ、その遠大な構想とあくなき執念をもって建設を進めた歴代皇帝には敬意の念さえ覚える

まずは北京の北、明代13人の皇帝とその皇后が眠る「明の十三稜」へ向かう。
訪れたのは定稜と呼ばれる第14代神宗万歴帝の稜墓、入り口は大勢の観光客が溢れかえっている。
墓は御神体の山を背景に、一直線にあたるところに造るのが皇帝の稜のしきたりとなっている。
  

皇帝と皇后・側室の肖像を横目に、二年分以上の国家予算と六年の歳月をかけて造ったという巨大な地下宮殿。
これが農民の反感を買い、明の滅亡に繋がって行ったという。
  

地下室には、巨大な石の玉座が鎮座ましましている。
中国皇帝の強大な権力をまざまざと見せつける地下宮殿、とにかく巨大さにビックリすることの連続だ。
バスに引き返し、ツアー旅行につきもののショッピング店へ、まずは七宝焼きの店に連れて行かれ、工房での模様付けを見学。
  

紅葉が美しいという八達嶺国家森林公園に登る。
紅葉は期待したほどではなかったが、ここから見渡す万里の長城の眺めが素晴らしい。
  

期待に胸を弾ませ万里の長城へと到着、見張り台へ足を進める多くの観光客で一杯だ。
長城の砦の城壁には、敵の侵入を窺い、多くの兵士が覗いたであろう窓が整然と並んでいる。
長城から兵士が挙げる狼煙(のろし)、何故狼の煙と書くのか?
ガイドさんの説明によると、狼の糞を燃やすと一直線に煙が上がるからなのだそうだ。
  

見晴台から、あえぎあえぎ登ってきた急階段を見下ろす。
この急階段では、足の裏がバンバンになるのもしょうがない。
翌朝、バスの中から見る朝もやの中に浮かぶ長城、その幻想的な風景に感動することしきり。
  

西太后が愛した避暑地だったことで有名な広大な庭園、北京市の郊外にある皇帝の離宮「頤和園(いわえん)」を訪れる。
入り口の広場は、ここも多くの観光客で一杯だ。
「頤和園」の額を見上げながら、中へ入る。
   

清王朝を打ち立てた満州族の後裔であった西太后は、漢の書(文字)を学びこの額にそれを残したとのこと。
龍は皇帝、孔雀は皇后の象徴だが、権力に奢れる西太后は配列のしきたりを破り、孔雀を中央に置くように指示している。
  

西太后が毎日歩いただろう広大な池を見渡せる回廊の長大なのに驚く。
人工の池とのことだが、向こう岸が遥か遠くに見えるその広さはどうだろう、中国の遺産は国の広さに比例してどれもとにかく大きい。
  

近代化が進む北京市街だが、昔の家並みが残っている胡同と呼ばれる地区を人力車(輪タク)で走る。
昔の家の門構えだが説明によると、敷居が高いほど位が高く、手前の置石は丸は軍人、四角は文人、獅子は貴族を表すとのこと。
河の名前は忘れてしまったが、悠然とした河の流れは格別の眺めで、見れば見るほど心が和らいでくる。
  

いよいよ北京市の中心、天安門広場へ足を進める。
人民大会堂の屋上には、並べられた国旗が風に棚引いている。
広場に掲げられている国旗は、毎日上げ下ろしされ、その間二時間ごとに交代する兵士は、真っ直ぐ前を見詰めたまま直立不動の姿勢で立っている。
  

故宮を背景にして、天安門広場の出口の門には、大きな毛沢東の写真が飾られている。
世界一広い建物、故宮の中心をなす本殿は北京オリンピックに向け改修中で中を覗くことは出来ず残念。
  

建物の入り口に続く階段の中央には、立派な彫刻を施した一枚岩の大理石が敷かれている。
これを運ぶには、冬に土の上に水を撒いて凍らせ、その上を滑らせて運んだらしい。
約600年前に建てられたこの宮殿に造られた部屋の数は9999、一万は神の数とされ使うことは許されなかったのでこの数になったという。
広い宮殿の中は、どこも観光客で一杯だ。
  

ガイドさんの案内で、中国で高名な書家が希望者の望みの文字を書いてくれるとのことで、故宮の一角にある建物に案内される。
飾ってあった「福」の字は中国人が最も好む文字で、”ネ”は着物、一口は家、田は田んぼを意味していて、この三つがあれば最高の幸せなのだそうだ。
この間に飾ってあった書画骨董は高価なものばかりで、鑑賞するだけにとどめる。
  

故宮の裏手にある景山公園、明の永楽帝が故宮の外堀を掘った土で造り、故宮(紫禁城)の鎮守の役割を持っていた言われている。
頂上から眺める故宮の景観は、つとに壮大。
  

最後の訪問場所の天壇公園、天帝に五穀豊穣と国の繁栄を祈願した祭壇がある。
梁と釘を一本も使わない円形の祈念殿に多くの観光客が出入りしている。
北京滞在の最後となる晩に京劇を観る。
どうもツアー用の小劇場だったらしく、舞台は背景の飾りや照明効果が無く期待はずれ。
  

この中国・北京の旅で、月から見える唯一の建設物という長城を見、そして足がパンパンになるほど歩くことが出来たのが最大の収穫。
四国と同じという北京の広さや、遺跡の規模の大きさにも驚くことしきりの旅であった

アリゾナの魅力(その2) ルート66

2007年03月16日 | 歴史・旅(海外)
ケーブルテレビを観ていたら、ルート66のシリーズものをやっていた。
ジャズ調の音楽を背景にして、ルート66の歴史や車窓の風景を丁寧に見せてくれるなかなか良い番組だ。
見ていたら、約十年前にアリゾナ州のルート66をちょっとだけツーリングしたことを思い出した。
いつか、アメリカの故郷の道、ルート66の全制覇をしてみたいものだ。
とりあえず、アリゾナの景色の素晴らしさを写真で味わい、楽しいツーリングの夢を見よう。

どこまでも一直線に続く道。


サンセット・クレーター・ヴォルケーノ(Flagstaff郊外の魅力的な山)


砂漠の虹


サボテンと夕焼け


モニュメント・ヴァレーの幻想的な眺め


アリゾナの月

アリゾナの魅力(その1)

「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

2006年09月05日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★
金海・亀旨峰→康津青磁資料博物館→茶山草堂→頭輪山大興寺→木浦共生園→新安海底遺物展示館→高敞邑城→高敞支石墓群→白岩山白羊寺→雙溪寺→釜山竜頭山公園

一度は行きたいと思っていたすぐ隣の国、韓国「全羅南道」を旅し、日本と韓国の深い歴史的繋がりを身をもって体験した。
この旅を通し、その「繋がりの重み」というものを分かり易く詳しく解説して下さった李進煕先生にいくら感謝しても仕切れない程の気持ちで一杯である。
面白い経験だったのは、想像以上の食べ物の辛さにいつの間にか魅入られてしまったこと。
最初は食事を取る度にキムチをはじめその辛さにひどく閉口したが、何度か食べているうちにその辛さが麻薬のように私の味覚をむしばみ、今は持ち帰ったキムチを真っ先に口にする状態で、何とも驚きの状態なのである。

金首露妃陵_天孫降誕神話のひとである駕洛国王金海の土地を訪ねる。
亀旨峰に登り広大な墓陵を見渡す。
司馬遼太郎の「韓のくに紀行」に「すべての男女がたがいに他人でない。
ことごとく金海の金氏なのである。」という興味を惹く一文がある。
正面にこんもりと盛り上がった金首露妃の墓陵が見える。
 

康津青磁資料博物館_千年の神秘、高麗青磁の発祥地。
展示されていた陶器の青磁の色合いは、ただただ見入るしかない程の魅力的なものであった。      
当時の窯跡が保存されている。
茶山草堂_丁若(チョン・ヤギョン)、字は丁茶山の流配地を訪ねる。
500冊余りにのぼる著書をここで残したという。 
  

すぐ裏山からの眺めは素晴らしい。
頭輪山大興寺山門_全羅南道海南郡の名刹。
 

背景の頭輪山がとても印象的だ。
木浦共生園_韓国人、故伊致浩氏とその日本人妻、故田内千鶴子氏が営んだ木浦の海のすぐそばにある児童養護施設を訪ねる。
園長さん、そして子供たちの純粋な笑顔が忘れられない。      
映画「愛の黙示録」で、子供たちへの無償の愛に生きた夫妻の激動の人生を偲ぶ事が出来る。
 

木浦の海の風景
「新安海底遺物展示館」で海中に沈んでいた日本への交易船、陶磁器などの遺跡を見学する。
宛先が日本の寺となっている興味ある荷札の木片が展示されていた。
高敞邑城_築城のために婦女子が頭に石を載せて運んだという伝説が残っている。その模様を伝える像も右手にあった。
 
  
高敞支石墓群_北方式と南方式が混在、世界遺産になっている。
白岩山白羊寺_全羅南道長城郡の名刹。
楓が紅葉する時期は、楓の紅と白岩山の絶壁の白が相まって、見事な山水画を現出するという。
 

大雄殿_右背後に聳え立つ絶壁が御神体になっている。
雙溪寺_慶尚南道河東郡の名刹。写真は梵鐘閣。
風光明媚な智異山麓の一寺で、近くはシジミとお茶の名産地である。
 

門の中の像。
日本の像と違い、カラフルでユーモラスなところがあって面白い。
李舜臣_釜山竜頭山公園に立つ像。
司馬遼太郎「韓のくに紀行」の一文
「中国風の甲冑を鎧い、大剣を左手にもち、はるか南方をにらんでいる。
南方とは釜山の海であり、大韓海峡であり、いうまでもないがそのむこうは日本である。
李舜臣はまぎれもなく朝鮮半島の守護神にちがいない。」
 

釜山港、釜山の街並みの眺めが素晴らしい。
歴史が好きな私にとって、何とも魅力的な旅であった。
 

参考例:高麗青磁<高麗青磁竹文梅瓶>


「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」