クラシック 名盤探訪

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みすずかる信濃の国を行く~春の花に囲まれて

2012年05月20日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:4月17日~4月18日 コース満足度★★★★★
信濃国分寺跡 → 上田城址公園 → 安楽寺 → 常楽寺 → 大法寺 → 北向観音堂 → 塩野神社 → 中禅寺 → 前山寺 → 塩田城址の碑 → 龍光院 → 旧開智学校 → 松本城
4月17日と18日の二日間、待ちに待った「みすずかる信濃の国を行く」と題した、所属している「史跡ボランティアの会」の研修旅行に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごしました。
「信州の鎌倉」とも呼ばれる塩田平にはたくさんの古いお寺が残っていて、そこにある貴重なお堂や塔は、訪れる者にいにしえの文化の面影をしっかりと伝えてくれました。

天平13年(741)、聖武天皇の勅願により全国に造られた国分寺の1つ、信濃国分寺跡を訪れる。
この国分寺は東大寺式伽藍配置と呼ばれるもので、約177m四方の境内には南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門と講堂を回廊でつなげ、講堂の東南に塔、東側に僧房を配置している。
残念ながら、天慶2年(939)の平将門の乱で一帯は将門と従弟だった平貞盛との戦場となり、堂宇の多くは兵火により焼失してしまったという。
資料館には、信濃国分寺跡発掘調査で見つかった八葉複弁蓮花文鐙瓦、均正唐草文字瓦などが展示されている。
 

静かなたたずまいの信濃国分寺を訪れると、まずは立派な造りの三重塔が最初に目に入る。
全国に建立された国分寺は60以上にのぼるが、現在、塔が残っているのは5ヶ所(備中・豊前・飛騨・越後・信濃)にすぎない。
かなりあったと言われる七重塔は皆無で、残された五重塔、三重塔の中でもここの塔が一番古いとされている。
また、関ヶ原の戦いの時に徳川秀忠と真田昌幸がこの寺で講和したこともよく知られている。
上田城址公園の桜が美しい。
上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸が築いた城で、彼はその堅牢な城の造りを背景にして、巧みな戦略を用いて徳川の大軍を2度も退けている。
現在の城郭は真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政によって、江戸時代初期に復興されたもの。
  

次に訪れた安楽寺は、天長年間(824~834)に円仁和尚(諡は慈覚大師)が創建し、鎌倉時代に樵谷惟仙(しょうこくいせん)が中興した天台宗の禅寺。
この寺の背後にある国宝の八角三重塔は日本に残るただ一つの八角の塔で、鎌倉末期に塩田北条氏によって建立されたもの。
中国から伝わった日本国最古の禅宗様建築で、塔を外側から一見すると四重に見えるが、一番下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるひさしのようなものだという。
和尚さんがわざわざ来てくれて、塔の内部に安置されている大日如来坐像を見せてくれたのが嬉しい。
  

茅葺きの屋根が美しい常楽寺も円仁和尚が創建した天台宗の古刹で、有名な北向観音を守る寺にもなっている。
本堂背後にある高さ281cmの石造多宝塔がある辺りに、その昔、大きな火柱とともに本尊の観音様が現れた、という言い伝えがある。
その多宝塔の軸石四面に刻まれた銘文には、弘長2年(1262)に塔を建立し、一切経を納めたとある。 
 

常楽寺の裏側にある石造多宝塔を見に行く途中、水芭蕉の群生が、清楚な姿で訪問客に春の訪れを告げているのに気付き、思わず写真を撮る。
大法寺の創建は、大宝元年(701)に文武天皇の勅願により藤原鎌足の長子・定恵が開山し大宝寺と称したのが始まりと伝えられている。
大法寺の三重塔は鎌倉幕府滅亡の年(1333)に建立されたもので、その優美な佇まいに思わず振り返るほど美しいことから"見返りの塔"の異名を持っている。
この麓を近江国・瀬田から陸奥国・多賀城まで続く東山道が通っており、大法寺は浦野駅(うらのうまや)の駅寺だったので、ここにこのような壮麗な塔が建ったと言われている。
 

今に伝えられている北向観音堂の観音堂伝説をひもとくと、「・・・天長2年(825)に、常楽寺の丘陵の一角で、毎夜、光明が射し、地鳴りを伴いました。朝廷はこのことを聞いて驚き、天台座主の円仁を派遣します。円仁が現地でお経を営んでいると、空中から”自分は観音である、わが像を刻み北向きに安置せよ”と言うお告げが聞こえます。円仁はこの像を刻んで、言われる通りに北向きにし、観音堂に祀ります。境内に愛染桂の大木がありますが、この異変のときに観世音菩薩が愛染桂に登り住民達を救ったとの話も残っています・・・」とある。
南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」あるいは「裏善光寺」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し、北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。
  

塩野神社は、かつては独鈷山(とっこざん)の山頂近くの鷲岩という大きな岩に祀られていたが、今は北の山麓の大きな深い森につつまれている。
神社の前には太鼓橋がかかっており、その下には独鈷山の湧き水が滝となって流れ、それが本流の産川と合流して塩田平を潤している。
深遠な雰囲気で、思わず身の引き締まる思いがする。
 

独鈷山の麓にある中禅寺は空海によって開山されたと云われており、この辺では最も古いお寺とされている。
茅葺き屋根の中禅寺薬師堂は鎌倉時代初期に建てられた美しいお堂で、中には国重文の木造薬師如来座像が置かれている。
ここでも和尚さんが来て、薬師堂のことやこの像についての詳しい話を聞かせてくれたのは嬉しかった。
前山寺も弘法大師が修行霊場として開いた寺で、ここにある三重塔は縁や手摺りなどがついていないが、その姿がすっきりとして美しいことから「未完成の完成塔」と呼ばれている。
  

前山寺から塩田城跡まで続く道は「あじさいの道」とも呼ばれていて、季節にはおよそ25000株のガクアジサイが美しい姿を見せてくれるという。
この道から眺める景色は、日本文化のふるさとは大和だと確信させてくれる飛鳥の「山の辺の道」を思い起こさせる。
塩田城址の碑を読むと、「・・・塩田城は北条重時(第二代執権北条義時の第三子)の子、義政が信濃の居館としたのが始まりで、義政、国時、俊時と続く北条氏三代の城だったところ」とある。
義政は蒙古来襲の際には執権の時宗と共に対応していたが、2回目の蒙古襲来を前になぜか出家してこの塩田の地に移っている。
その理由は未だによく分かっていないが、義政公の墓の文字が意図的に完全に削られているのが、その訳を解く鍵になるのかもしれない。
  

日本で最も古い小学校のひとつと云われる旧開智学校を訪れる。
開智という校名が気になったが、『学制序文』の「人々…其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学二アラサレハ能ハス」から命名されたという。
国宝松本城の成り立ちはかなり複雑だが、気になるので整理すると、「・・・もともとは小笠原氏の城だったが、武田信玄の信濃攻略後は馬場信房が城代となり、武田氏が滅ぼされると小笠原貞慶が城主に復活(城名を松本城と改める)、家康の関東移封後は石川数正が城主となり、城下町(現在の松本市)も整備した」となる。
「みすずかる信濃の国」の早春、そして歴史を満喫できた素晴らしい旅に感謝しつつ、相模の国へと向かうバスに乗り込む。
 
平城遷都1300年-春の大和路を行く
上総・下総の史跡を巡る旅
「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)

能登半島周遊と兼六園、東尋坊、永平寺

2012年05月03日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:3月25日~3月27日 コース満足度★★★
<加賀>兼六園 → <能登>巌門 → 輪島朝市 → 白米千枚田 → 禄剛崎灯台 → 見附島 → <越前>東尋坊 → 永平寺
兼六園や永平寺などの史跡を訪ねたいという気持ちが重なり、初めての北陸方面の旅に出かける。
結果的に一番良かったのは、ホテル「のと楽」の行き届いたもてなしと質の良い温泉、そして新鮮な海鮮料理ということで、北陸の魅力は歴史的なものだけではないことを知る。

3月末の兼六園は春を迎える前の端境期ということで、花は遅咲きの梅が咲いていただけだったのが残念。
兼六園は水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の1つに数えられる池泉回遊式庭園の大名庭園で、その立派な造りは確かに素晴らしい。
説明によると、名称は宋代の詩人、李格非の洛陽名園記に記されている「宏大」、「幽邃」、「人力」、「蒼古」、「水泉」、「眺望」、の6つを兼ね備えている名園で、松平定信が名付けたと言われている。
能登半島西海岸は、今日も日本海の荒波が押し寄せているという感じで、穏やかな海の風景にはなかなかお目にかかれない。
 

朝鮮半島の金剛山のように美しいことから名付けられた能登金剛、断崖絶壁の巌門を訪れると、松本清張の歌碑が置かれている。
近くには、推理小説「ゼロの焦点」の舞台となった悲劇のヒロインが最後に身を投じた「ヤセの断崖」がある。
バス内で、1321年瑩山紹瑾禅師によって開創された北陸きっての古刹、大本山總持寺祖院(横浜鶴見の総持寺の前身、明治31年に七堂伽藍の大部分を焼失)の話を聞く。
バスが輪島朝市に到着、一千年以上も前から神社の祭日ごとに物々交換の市が立ったとされ、この古い歴史のなかで朝市には売る者と買う者との心の触れ合いが生まれてきたという。
 

有名な棚田の白米千枚田を見渡すと、小さな田が幾何学模様を描いて海岸まで続いている。
田の枚数は国指定部分で1,004枚もあるとのこと。
禄剛崎灯台の説明文によると、「・・・明治時代にイギリス人設計士により作られた灯台からは海からの日の出、海への日没が見られることで有名、灯台が設置される前は狼煙(のろし)で船舶に合図をしていて、狼煙灯台とも呼ばれています」とある。
見附島は弘法大師が佐渡から能登へと渡る際に、最初に「目についた島」とされ、名前の由来ともなっている。
先端部分が突き出たその姿から軍艦島とも呼ばれており、いずれにしても能登のシンボル的な存在と言える。
  

東尋坊の名前の由来ともなる伝説が面白い、「・・・民に悪の限りをつくした東尋坊という怪力の僧が、在所の美しい姫に心を奪われ、恋敵の真柄覚念という僧と激しくいがみ合いました。ある時、岩場の上で酒宴を催した真柄覚念は、すきを見て東尋坊を断崖絶壁から突き落としました。天候はにわかに崩れ、雷と暴風雨が四十九日続き、命日にあたる四月五日は、東尋坊の怨霊が大波と化し、岩壁を激しく打ち殴り続けたといいます」とある。
常に200余名の修行僧が日夜修行に励んでいるという曹洞宗の大本山・永平寺の入口に立つ。
ここを訪れる人は、周囲の老杉や谷川のせせらぎに禅の奥深さを感じ、おのずと襟を正すという。
大庫院前に掛けられた全長4mほどの大すりこぎは、かつて仏教建築に使われた地突き棒で、「身を削り人のためになるように」との意味合いが込められている。