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「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>

2009年11月01日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺跡→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

韓国の中でも一番行きたいと思っていた百済への旅、しかも李進煕先生の中身の濃い説明が聞けるとても充実した五日間(10月9日~13日)であった。
NHK教育テレビ放送開始50周年を記念しての番組、シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」の第3回目「仏教伝来」には、今回訪れた王興寺跡の発掘模様とか益山(イクサン)の弥勒寺跡など重要な項目が出てくるので、興味ある方はぜひ見てほしいと思う。

空港からバスは一路、釜山から西へ130Kmほど離れた古都・晋州(チンジュ)へ向かう。
晋州は壬辰倭乱(文禄慶長の役)の激戦地だった所で、洛東江の支流・南江のほとりにある「晋州城跡」をまず訪れる。
晋州城を守る砦、実際には主将が兵卒を指揮する指揮所として使用されたという楼閣「矗石楼(チョクソクル)」を見上げ、当時の激戦に思いを馳せる。
朝鮮王朝第14代宣祖王の1592年10月、金時敏将軍率いる3800人の城兵と民は、細川忠興らの2万の軍と6日間にわたる戦いのすえ勝利を治めた。
だが翌年6月には宇喜多秀家を総大将とする7万余りの軍が再び城を包囲、晋州城の3千の兵と6万の民が侵略に抵抗して戦ったが、全員殉国したという悲運の場所でもあった。
 

朱論介(ジュノンゲ)は韓国の烈女の中でも、教科書に必ず出てくる人だという。
矗石楼で行われた秀吉軍の祝宴の際、官妓の論介は酔い痴れた相手将校を南江のほとりに誘い出し、手が離れないよう両手の指すべてに指輪をして将校に抱きつき、身を一体にして南江に沈んだのだという。
一説には、この不名誉な将校は加藤清正の将官、毛谷村六助だとも言われている。
朱論介(ジュノンゲ)が祀られている霊廟には、お参りに訪れる人々の列が絶え間なく続いている。
 

城址内の少し先に足を進めると、近代的な建物「国立晋州博物館」があり、壬辰倭乱に関する資料などがたくさん展示されている。
戦闘絵図、記録文、武器類、李朝や秀吉の各文書、そして晋州城攻防戦のパノラマなど、さらに亀甲船の模型もある。
晋州城の戦いだけにこだわらず、壬辰倭乱の全貌が学習できる展示内容となっているのが良いと思う。
 

翌日、晴天に恵まれた中バスは公州市の南方、鶏龍山の麓にある古窯跡へと向かう。
鶏龍山陶磁器は、朝鮮陶磁器の中でも定番中の定番とされているらしい。
お茶とか陶磁器は全くの素人なので、鶏龍山陶磁器の資料を紐解くと「・・・李王朝初期、公州郡に近い鶏龍山に点在した陶窯で、素地は鉄分が多く鼠色で粗いため白土を下地に刷毛塗りを用いた。
この白土の上に鉄砂で簡素な絵を描いたものが多く、絵刷毛目などと呼ばれる。」とある。
ここで拾った陶磁器の破片をじっと見ると、たしかにひなびた趣があり、これでお茶を飲んだらさぞかし美味しいだろうなという気持ちが湧いてくる。
 

今回の旅で一番楽しみにしていたのは、未盗掘の墓、宋山里古墳群の武寧王(ムリョンワン)陵が見れることだった。
百済第25代武寧王(謚=おくりな)は「日本書紀」に記されている筑紫の島で生まれた百済の斯麻王(諱=いみな)であること、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると「続日本紀」に記されていることなどから、武寧王は日本との関係がとても深かったことがうかがえる。
1971年に6号墳の排水工事中に偶然に発見された武寧王陵は、百済の確実な年代を証明するもので、韓国発掘史上最大の歴史的価値を持つと言われている。
そんな古墳群を眺めていると、古代日本と朝鮮との関係をもっと知らねばという強い思いが湧いてくる。
 

国立公州博物館には、武寧王陵をはじめとした熊津百済の歴史と文化を示す遺物が展示されている。
この図は青龍だと思うが、説明文を読むと「・・・武寧王陵に隣接する6号墳は横穴式塼室墳で、四神(東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武)の図がそれぞれの壁の中央に大きく描かれている。」とある。
 

武寧王の墓室全体は煉瓦を積み上げて作られた煉瓦墓で、入り口通路に当る羨道と遺体を安置する玄室で構成されている。
墓室は全て蓮の模様の煉瓦で刺繍を施したように美しく積み上げられており、東西の壁には各二個の龕が設けられていて、その一つには燈芯の燃えかすが残っていたという。
 

一番重要な遺物は墓誌石で、「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記されている。
このことから、墓の主人公が武寧王であること、生年は462年でこの年は雄略天皇5年、蓋鹵王7年であることも分かる。
日本書紀の記述の正確性が裏付けられるし、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたことにも驚く。
石獣は王と王妃のお棺前に置かれる悪鬼を追い払う魔除け像とされ、死者を守るという中国の墓葬風習から伝わったものとされている。
 

副葬品も国宝に指定されたものだけでも全12種17点に及んでいる。
王の木製頭枕と木製足座は遺体がしっかりと置ける様に、それぞれ中央がU字型、W字型に切り取られている。
金製冠装飾、金銅製靴、耳飾、首飾、そして腕輪などを見ると、鮮やかに光り輝いて王と王妃の威厳をまざまざと示していたことが良くわかる。
  

泗・百済の都城を守っていた扶蘇山城を訪れる。
泗門を入って先に進むと、「三忠祠」(サムチュンサ)がある。
百済滅亡直前の臣下であった成忠(ソンチュン)、興首(フンス)、そして堦伯(ケベック)の三人の忠臣を祀っている。
資料によると「・・・成忠は誤った政治をただすために努力した諫臣だったが、獄につながれ断食をして死した。
興首は敵の攻めに対し5000名の決死隊を作り戦ったが、大臣達の反対もあり炭峴の城を守りきれず戦死した。
堦伯将軍は唐・新羅の連合軍に対して4度戦い、4度とも勝利したが衆寡敵せず、最後は妻子の命を絶ったのち討ち死にした。」とある。
 

扶蘇山の南にある半月楼から、百済の都であった扶餘(プヨ)の街を一望する。
百済は滅亡するまで、漢城、熊津、そして扶餘と三度都を変えながら678年間続いた国、そして漢字、仏教、灌漑技術などを日本に伝来、もしかしたら国家形態そのものまでをも伝えていたのかもしれない。
そう思いながらこの街を一望していると、滅亡前の盛んだった百済の都の姿が眼の中に鮮やかに浮かんでくる。
扶蘇山の頂上にある百花亭から眺める白馬江の大河が、その悠々とした流れを見せている。
 

新羅・唐連合軍の攻撃で泗城が落城する時、百済の宮女3000人は敵に辱めを受けるよりはと断崖から白馬江に身を投げ、そのチマチョゴリの舞う姿は花が散るようであったと言う。
落花岩から身を投げた女性の霊を慰めるため、高麗時代に皐蘭寺が建てられ、今では多くの人々が訪れ祈りを捧げている。
白馬江を下る船の中、宮女3000人が飛び降りた断崖(落花岩)を見ていると、惜別の念がひしひしと胸の中に迫ってくる。
 

この旅の後半は「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>に続く。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

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