クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

紅葉の秋、北九州横断の旅

2013年12月26日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 11月10日~11月13日
太宰府天満宮 → 光明禅寺 → 冨貴寺 → 宇佐神宮 → 青の洞門 → 深耶馬溪 → 九重”夢”大吊橋 → やまなみハイウェイ → 菊池渓谷 → 高千穂峡 → 島原湾フェリー → 仁田峠・普賢岳展望台

太宰府天満宮というと菅原道真をすぐに思い出す。
彼は学問の家に生まれ、右大臣にまで上りつめたが、左大臣・藤原時平の讒訴によって昌泰4年(901)、大宰権帥の職に左遷されてしまう。
大宰府での暮しは都とはうって変わって侘しく、失意のうちに2年間を過ごすが、延喜3年(903)に亡くなってしまう。
遺骸を牛車に乗せて運んで行く途中、牛が動かなくなってしまいそこに埋葬されたが、その地が現在の太宰府天満宮なのだという。
菅家(菅原道真家)の生まれの鉄牛円心和尚が鎌倉時代に建立した光明禅寺は、太宰府天満宮の結縁寺とされる。
 

光明禅寺の裏庭には九州唯一の枯山水の庭園があり、紅葉の特別な風情が素晴らしい。
富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院で、阿弥陀堂は平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられている。
  

全国に約11万の神社があるというが、八幡さまが最も多く4万600社余りあり、宇佐神宮はその総本宮とされている。
祭神は応神天皇、比売大神、そして神宮皇后が祀られている。
創建は神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現在の地に八幡神をお祀りしたことに始まるが、宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けた所で、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと『日本書紀』に記されている。
 

大正8年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった青の洞門を訪れる。
諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚がノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)に全長342mの洞門を完成させたという。
深耶馬溪は狭い谷に絶壁や石柱が屏風のように連なり、一目八景からの秋の紅葉は特に美しい展望を見せてくれる。
 

歩行者専用としては日本一の高さと長さの橋という九重”夢”大吊橋、そこから見る鳴子川渓谷と振動の滝の景色は素晴らしい。
次に訪れた菊池渓谷は阿蘇外輪山から湧き出た地下水が造り出した渓谷で、渓流に映える紅葉が美しい景観を見せてくれる。
 

余りにも有名な高千穂峡は宮崎県の五ヶ瀬川にかかる峡谷で、国の名勝、天然記念物に指定されている。
 

雲仙温泉の”地獄”には、受難にあったキリシタンの殉教の碑が置かれている。
最後に訪れた仁田峠、ここから見る有明海のなんと素晴らしいこと、口ではとうてい語りきることのできない眺めにしばし感動する。
  

出雲神話と古代史の舞台

2013年12月01日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月27日~10月29日
比婆山久米神社 → 黄泉比良坂 → 揖夜神社 → 山代二子塚古墳 → 八雲立つ風土記の丘 → 出雲国府跡 → 六所神社 → 意宇の杜 → 出雲国分寺跡 → 岩壷神社・那売佐神社 → 長浜神社 → 出雲大社 → 粟島神社 → 赤猪岩神社 → 上淀廃寺<伯耆古代の丘> → 妻木晩田遺跡

出雲は古代神話の宝庫と言われる。
そんな古代史の舞台を訪ねる旅に出る。
比婆山は、伊邪那美命がまだ国生みの途上だったが、無念にも命を落とし葬られたとされる処。
標高320mの山頂付近には、伊邪那美命を祭神とする久米神社・奥の宮があり、麓には久米神社・下の宮がある。
本来は奥宮を詣でなければいけないのだが、体が言うことをきかないので麓の比婆山久米神社で勘弁してもらう。
次に訪れた黄泉比良坂は、≪古事記≫に、「・・・伊邪那岐命は死んでしまった伊邪那美命を呼びもどそうと黄泉の国へと赴くが、〈視てはならない〉という禁を犯して伊邪那美命を視ると、体が腐乱して蛆がたかっている。
驚いた伊邪那岐命は伊邪那美命に追いかけられるが、黄泉比良坂まで逃げもどり,そこを千引石でふさいでやっと地上に生還・・・」とある場所とされている。
 

揖夜神社は、≪出雲国風土記≫には伊布夜社と記されており、≪古事記≫に黄泉比良坂は「出雲国の伊賦夜坂である」との記述があるので、黄泉比良坂の近くにこの神社があるのは納得できる。
出雲最大級の規模とされる山代二子塚古墳を訪れる。
6世紀中頃に築かれた全長92の前方後方墳だが、大正14年に日本で初めて「前方後方墳」の名が付けられた古墳ということで有名らしい。
  

山代二子塚古墳をあとに、バスは全国に17あるという風土記の丘の一つ、「八雲立つ風土記の丘」へと向かう。
 

「八雲立つ風土記の丘」周辺には、多くの古墳はもちろん、山代郷正倉跡や北新造院跡、これから訪れる出雲国庁跡、出雲国分寺跡などがあり、まずは資料館でそれらの資料をいただく。
全国10数ヶ所あるという伊邪那美命の陵墓伝説地の中から、宮内庁が保存すべきものとして認定した岩坂陵墓参考地に立ち寄る。
どこまで信用してよいかわからないが、比婆山の地にあることは確かである。
 

≪出雲国風土記≫に記載された出雲国庁が意宇平野にあることは確かだったが、不明とされた所在地もその後の発掘によって明らかになっている。
国司は国内の各神社を巡拝するのは大変なので、「総社」一社を参拝して”こと足れり”としたという六所神社が国庁跡のすぐ隣に建っている
  

八束水臣津野命が国引きの仕事を終え、”意恵(おえ)”と叫んで杖を刺した処にできたと言われる「意宇(おう)の杜」に寄ってから、出雲国分寺跡へと向かう。
南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などの跡が見つかり、主要な伽藍が南北一直線に並ぶ「東大寺式」の配置だった出雲国分寺、今は草が生い茂る跡地だが、当時の荘厳なたたずまいに思いをはせながらじっと眺める。
滑狭郷にある那売佐神社は、「延喜式神名帳」や≪出雲国風土記≫にも記載されている由緒ある神社で、葦原醜男命(大国主命)と素戔嗚命の末娘でこの里の岩坪で生誕したといわれる須世理姫命が祀られている。
  

≪出雲国風土記≫の冒頭に出てくる”国引き神話”で有名な八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)を祀る長浜神社を参拝したのち、バスは一路出雲大社へと向かう。
 

縁結びの神・福の神として名高い大国主命を祀る『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていた。
「古事記」に記される国譲り神話によると、大国主命が高天原の天照大神に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりとされる。
本殿(国宝)は有名な大社造で、伊勢神宮の神明造りとともに古代からの建築様式を伝えている。
 

神楽殿の注連縄は日本最大級の大きさで、長さ13m、重さは4.5tというから、仰ぎ見ただけで圧倒される。
出雲大社から西に向かうと、大国主命と武甕槌命が国譲りの交渉をしたという稲佐の浜がある。
この浜は旧暦10月の神在月に、全国の八百万の神々をお迎えする浜としても知られている。
 

粟島神社の祭神は少彦名命で、≪伯耆国風土記≫ には国造りを終えた少彦名神が”粟島(あわしま)”から常世の国へ渡って行ったという記述が出てくる。
少彦名命が粟嶋に舟で到着し、最初に上陸したとされる場所には小さな祠が建てられている。
人魚の肉を食べ、”八百比丘尼”とも呼ばれる不老不死となった娘の伝説が残る静の岩屋をお参りする。
  

≪古事記≫によると、八十神に赤い猪だとだまされ、真っ赤に焼けた岩を抱きとめて落命したという大国主命、そんな謂れの地にある赤猪岩神社を訪れる。
女神の手によって蘇生した大国主命にちなみ、「再起」に願いをかけた多くの人々が参拝に訪れるらしい。
バスは鳥取県米子市の南にある<伯耆古代の丘>の上淀廃寺跡へと向かう。
  

上淀廃寺跡は、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡で、国内最古級の仏教壁画片や仏像の足の破片などが出土したこともあって、金堂の中の壁画や釈迦三尊像が見事に復元されていたのには、本当に感動させられた。
金堂の東に3塔を南北に配する伽藍配置も古代の寺院において他に例が無く、これを建てた地方豪族の力には驚くというほかはない。
 

金堂の中の鮮やかな彩色の壁画も美しく、この時代に海を渡ってきた渡来人の力なしには成しえないものだと思う。
隣接する「上淀白鳳の丘 展示館」には、石馬谷古墳から出土した”石馬”が展示されている。
高さ90cm、長さ150cmの大きさ、九州で数例の出土はあるが、本州では唯一のもので国の重要文化財になっている。
  

約1900~1700年前の弥生時代に、国内最大級の集落が存在したということで注目を集めた妻木晩田遺跡を訪れる。
調査されたのは156ヘクタールで、竪穴住居跡400棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、墳丘墓は30基以上もあったという。
これだけでも吉野ケ里遺跡より大きいし、発掘されたのは全体の10分の1程度と考えられているから、ここに「クニ」を治める首都的なムラがあったと考えてもおかしくないかもしれない。