クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

旧川越街道を歩く

2013年03月18日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 2月27日
東武東上線東武練馬駅 → 北町観音堂 → 北町浅間神社 → 金乗院 → 円明院 → 城北中央公園 → 安養院 → 下頭橋 → 轡神社 → 東武東上線大山駅

1年半以上も前になるが、中山道の一番宿・板橋宿を訪れた時、平尾という所から川越街道が中山道から分岐し、江戸と川越を結んでいるということを知った。
その川越街道を東武練馬駅からスタートし、変遷する旧街道の面影を偲びながら歩いてみる。
まずは、天和2年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物がある北町観音堂に立ち寄る。
北町浅間神社の脇に高さ約5mの富士塚があり、ミニ富士登山を楽しめるのが面白い。
  

すぐ先には、石神井、保谷、田無、府中を経て伊勢原へ通じる大山道の分岐点が有り、見事な道標が置かれている。
富士講の人々も先ほどの富士塚の前を盛んに通っていたことが偲ばれる。
3代将軍徳川家光が、慶安2年(1649)鷹狩りの際に雨宿りしたと伝えられる金乗院を訪れる。
家光専用の山門と、境内には家光手植えの銀杏の古木がそびえている。
金乗院の末寺となるすぐ近くの円明院にも足を運ぶ。
  

鎌倉中期、正嘉元年(1257)に北条時頼が諸国行脚をしたとき、持仏「摩利支天」をこの地に安置し一堂を建立したことに始まるという安養院を訪れる。
石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力によって石橋に架け替えられ、それまで頻発した水難事故も跡を絶ったという。
 

下頭橋のすぐそばにある六蔵祠の由来だが、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたという話がある。
もとは轡権現社と呼ばれてい轡神社を訪れる。
この轡神社の名前の由来は、この地を訪れた徳川家康の愛用した馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれ、幼児の咳を取り除くと信仰を集めたという。

 

安房の史跡を巡る

2013年03月01日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 2月19日~20日
走水神社 → ペリー上陸記念碑・ペリー記念館 → 菱川師宣記念館 → 源頼朝上陸地 → 崖観音 → 那古寺(那古観音) → 安房国分寺跡 → 館山城跡 → 館山市立博物館 → 安房神社(安房国一宮) → 鋸山・日本寺

このところの寒さを逃れて暖かい安房国へ行こうと計画した旅、初日は雪混じりの天気で久里浜からのフェリーは危うく欠航の憂き目に、金谷からの安房国は吹雪気味の悪天候という状態、しかし訪れた先の史跡は結構見ごたえのある中身の濃いものだった。
久里浜では、「・・・父景行天皇の命により日本武尊は東国の夷征伐に向かう。走水の海を上総の国へ向かって渡る折、大しけに遭い船が進むことができなくなる。そのとき海神の怒りを鎮めるために、后の弟橘媛命が自ら身を投じて荒波が鎮まった」という悲しい伝説が残されている走水神社へ向かう。
弟橘媛命が入水するときに詠った辞世の句、「さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」の碑が拝殿の後ろに置かれている。
  

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)ペリー提督は4隻の黒船をひきいて浦賀沖に来航する。
大統領の国書を日本に渡すことが目的で、7月14日久里浜海岸で歴史的な国書の受け渡しが行われている。
ペリー上陸記念碑は明治34年に米友協会により建てられたもので、伊藤博文の筆による「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」の文字が記されている。
  

「見返り美人図」の作者であり、浮世絵の祖でもある菱川師宣生誕の地、鋸南町にある菱川師宣記念館を訪れる。
すぐ先の源頼朝上陸地を訪れると、そこには立派な記念碑と丁寧な説明板が立てられている。
頼朝は治承4年(1180)に伊豆で平家打倒の兵を挙げたが石橋山の合戦で敗れ、真名鶴岬から小船で脱出し房総へと逃れる。
わずかな供を連れて鋸南町竜島に上陸すると、竜島の村人たちは頼朝を歓迎して、いろいろと世話を焼いたという。
少し先の山腹の断がい絶壁に建つ観音堂(崖観音)には、県内最古といわれる十一面観音の磨崖仏が祀られている。
  

創建は養老元年(717)という、坂東三十三番観音霊場の結願寺、那古寺を訪れる。
元正天皇の病気平癒のため、行基が海中より得た香木で千手観音菩薩像を刻み祈願したら、たちどころに病気が治り、その報謝で建てられたのが那古寺の始まりと言われている。
館山市にある安房国分寺跡を訪れる。
ここが今回の旅の一番の目的地だったのだが、現国分寺の境内の中に金堂跡とされる敷地と標識があるだけで、礎石も無く伽藍配置も分からないのが期待はずれというか残念なことだった。
通常国分寺跡は国指定史跡になるのだが、ここは県の指定史跡とされていたのも残念なことだった。
 

もうひとつの目的は10代170年にわたってこの地を支配した里見氏の歴史を知るということで、まずは館山城を訪れる。
行ってみると別名「八犬伝博物館」と言われるように、南総里見八犬伝に関する読本、絵草子、錦絵などが展示されている。
説明板にあった里見氏の歴史を要約すると「・・・里見氏は清和源氏新田氏の末流と言われ、新田義重の子義俊が、上野国里見郡で里見氏を称したのが始まりとされている。義俊の後裔家基は祖父の代から常陸国に移るが、結城合戦(1440~41)で討死する。嫡子の義実は逃れて三浦氏の援助を受け、房州白浜に上陸、4年後には安房国を平定、この義実が安房里見氏の祖とされている。
以後里見氏は、6代義堯(よしたか)の頃には、上総・下総方面に進出して57万石を領し、隆盛を誇るが、その後北条氏との戦いで国府台という所で敗れてしまう。9代義康が館山城を築いたのは、強敵の攻めに備えるためだったが、城が完成した年に豊臣秀吉の小田原攻めがあり、義康が秀吉の軍陣に遅参した咎で領国を安房一国(9万石)に削られ、徳川家康の支配下に置かれてしまう。のちに大久保忠隣一族失脚事件に連座し、忠義は伯耆の倉吉に移封され、正嗣が無かったため断絶する。「南総里見八犬伝」は、この悲劇の里見氏にまつわる物語を、歴史小説として江戸時代の文豪、曲亭馬琴が28年かかって書き上げた大作とされる」
 

全国に97ある一宮巡りを目指しているが、これでやっと14社目となる一宮安房神社を訪れる。
天太玉命を祭神としおり、忌部一族による安房開拓神話に登場する安房忌部氏の祖天富命が、その祖神を祀ったものとされる。
平安時代の「延喜式」には「安房坐(アワニマス)神社」と記される式内社で、すでに大同元年(806)には100戸の封戸を有したという古い神社である。
鋸山の山麓にある日本寺は、約1300年前に聖武天皇の勅詔を受けて、行基によって開かれたという関東最古の勅願所とされる。
高さが31.05mあり、東大寺の大仏の1.7倍という日本最大の大仏(磨崖仏)がやはり一番の見もの。
 

階段の昇り降りがきついが、千五百羅漢像、百尺観音像、頂上までいくと地獄のぞきなど見るべきものも多い。