クラシック 名盤探訪

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この曲この一枚 その7 シエーンベルク:「浄夜」Op.4

2009年11月29日 | この曲この一枚
   
現代音楽の代表的な作曲家シエーンベルクは1951年にその生涯を閉じているから、それからもう半世紀以上も経っている事になる。
当時東京の新聞で彼の訃報を扱ったのは読売一紙だけで、それも社会面の一番下の段に三行半ほどの申し訳程度の文面のみだったという。
日本における現代音楽に対する評価、扱いがどれほどのものだったのか、このことでも良くわかる。
この曲は彼が12音技法を用いる前の作品で、現代音楽というよりむしろ後期ロマン派を代表する傑作といってもよいと思う。
説明書を読むと、この曲はリヒアルト・デーメルの詩「女と世界」による標題音楽で、「・・・冬枯れの木立の中を歩む男女、やがて女は恋人に自分の不実を告白する。
孕んでいる子供は貴方のではないと。
彼女を深く愛している男は、月光がふりそそぐ浄夜をたたえ、その子を自分の子として生んでくれと言う。
二人は抱き合い、歩み去る。・・・」とあり、いかにも世紀末を思わせる官能的といってもよい内容。
原曲は弦楽六重奏曲だが、後に弦楽合奏用に編曲されたもので演奏されたこの盤は、いっそう濃厚なロマンティシズムにあふれた雰囲気を醸し出している。
ギリシャ出身の著名指揮者というと、すぐ思い浮かぶのはミトロプーロスしかいない。
彼はアテネに生まれ、家は代々ギリシア正教の司祭を出している名門で、聖職に就く運命にあったという。
だが幼時からめざましい音楽の才能をみせたミトロプーロスは、名演奏家への道を突き進み、すばらしい音楽活動を繰り広げる。
この曲のこの様なすばらしい演奏を残してくれたのも感謝の極みとしか言いようがない。
ニューヨークフィル常任指揮者時代に若いバーンステインを補佐したり、現代音楽の紹介にとても熱心だった事もよく知られている。
この曲この一枚として外せないこの盤は、静かな冬の夜、曲想を頭に描きながらじっくりと聴いてみるのも良いかも知れない。
・ディミトリ・ミトロプーロス指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック弦楽セクション <CBS>

「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>

2009年11月03日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺址→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

翌朝一番に訪れたのは、百済の都扶餘で仏教の中心的な寺院であった定林寺跡。
この寺の五層石塔は益山(イクサン)の弥勒寺跡石塔と共に、ただ二つだけ残された百済時代の石塔という点で、とても貴重な遺跡として評価されている。
この寺の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ形で、日本に伝わった「四天王寺形式」と見られていた。
ただし最近の発掘で、金堂の東西に長い建物があったことが判明したとの話も聞いているので、伽藍配置については今後しっかりと見守る必要がありそう。
塔の一層目には、百済を攻めた唐の将軍蘇定方が戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」の文字が見える。
奥の方の建物には、高麗時代の作と言われる石仏が安置されており、雪だるまに似た顔の表情は慈愛に満ちている。
  

王興寺跡は、百済の王宮があった扶蘇山の脇を流れる白馬江の対岸に広がっている。
心柱の礎石の中から発見された舎利容器には、「亡くなった王子の冥福を祈り威徳王(百済第27代)が577年に創建した」と寺の縁起が刻まれていた。
発掘された王興寺跡と、6世紀末に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺との間には、伽藍配置、仏舎利を納めた塔の心礎の構造、その周辺を飾った宝飾品などに類似点があるという。
「日本書紀」には、王興寺発願の577年に百済王は造寺工と造仏工を日本に送ってきたとあり、その約10年後に飛鳥寺が建立されている。
この発掘跡を眺めていると、タイムスリップして壮大な寺を建立している造寺工の姿が目の中に浮かんでくる。
 

国立扶餘博物館には、百済芸術の極致である百済金銅大香炉が展示されている。
ドラマ「薯童謡」の最終回を思い出す。
王妃ソンファは百済の栄光と王ソドンへの思いを込めて博士モンナスに香炉を作らせる。
5羽のオシドリは百済を支える民を意味し、上部の鳳凰は民を抱く王の姿を現しているのだという。
その眩いばかりの光を放つ金色の香炉の姿形を何と表現したらよいのか、言葉では表しきれずただただじっと見つめるばかり。
七支刀にしろ、百済の工芸技術の水準の高さにはとにかく感心させられる。
  

四神図の一部分と思われる白虎と朱雀を描いたパネル、そしてこの後訪れる予定の弥勒寺にある韓国最大、最高(14.24m)の石塔のパネルも表示されている。
 

陵山里古墳群(バスにて)は扶餘をとりまく羅城のすぐ外にある古墳群で、百済王陵として伝承されている。
王陵は城壁の外に築かれたというし、正規の使節を迎え入れる東門のすぐそばにあるという事がその根拠らしい。
バスは一路、論山(ノンサン)近くの般若山にある潅燭寺(クァンチョクサ)へと進む。
石段を登りながら大きな山門を見上げる、この後ろには恩津弥勒と呼ばれる有名な石仏がのっそりと立っているはず。
 

高麗時代、10世紀の作品という石造りの弥勒菩薩の立像をじっと見つめる。
中国の智安という名僧がこの像を見て、あたかもローソクの明かりのように光ると言い、この寺を潅燭寺と名づけたと言われている。
韓国で最も大きな石仏だというが、表情がかわいいしユーモラスな温かさがあるので、拝む人には全く威圧的な印象を感じさせない弥勒さんである。
  

益山(イクサン)の弥勒寺は百済の巨大な国立寺院で、中国にも日本にも例がない三塔三金堂一講堂様式は、百済人の独創性によって造られたのだと思う。
それに熱烈な弥勒信仰と国家の精神的象徴を目指した武王の仏教信仰が結びついたらしい。
背景の山頂を挟んで立っている二本の柱は幢竿支柱(とうかんしちゅう)と呼ばれている。
法会や祈祷の儀式の際に旗を掲げるが、その竿を支えるための柱のことで、実際はそれぞれが東と西にもっと離れて置かれていたはず。
中院の東西に置かれていたと思われる九重の塔は、東のほうだけ復元されて白くそびえている。
 

国立扶餘博物館のパネルで見た大きな石塔は、17年かけての解体・復元作業中だったが、塔の心礎に置かれた金銅製舎利容器と由来を記した金板が見つかった事は大きい。
銘文から塔が建立されたのは639年、更に弥勒寺は国家の寺だったと判明、四隅にある像もその通りだと頷いている。
  

輝きを保ったまま見つかった黄金の舎利容器、現物は別の所で展示中との事で見れなかったが、完全な形で発掘された金色に輝く金銅香炉は展示館に置かれている。
バスで少し先に進んだ所にある王宮里五重塔は、扶餘定林寺跡の五層石塔とよく似た形をしている。
百済第30代武王の離宮だったとか、武王が都を一時期扶餘からこの地に移したのではとか、いろいろの説が言われている。
周囲からは「官宮寺」銘の瓦などが出土しているので、大官寺ではという見方もあるが、いずれにしても発掘中の建物は武王時代の建立だと思う。
  

ホテル到着後に観光パンフレットを見ると、全州は500年の花を咲かせた朝鮮王朝の発祥地だとか、伝統舞踊ハンチュム、そしてパンソリの本場という様なことが一杯載っている。
”700余りの伝統家屋が立ち並ぶ昔からの文化の香りが漂う全州”というキャッチフレーズに誘われ、早速すぐ近くにある全州韓屋村を歩く。
韓屋村で食べた韓定食、スープ湯とチゲに30種類ほどのおかず、食道楽の五感を満足させてくれると共に人の心まで温めてくれるのが売りとなっている。
 

韓国で一番有名な物語「春香伝」のふるさと、南原の広寒楼苑を訪れる。
中に入ると、きれいに整備された公園になっている。
物語の主人公で烈女の鑑とされる春香(チュニャン)を祭っている祠の前に立ち、礼を捧げる。
   

「春香伝」のストーリーは、「・・・妓生の娘、春香と両班の息子、李夢竜は互いに愛し合っていたが、夢竜の父が転勤となり結局2人は離れ離れとなる。
代わりに赴任してきた悪役人に強く迫られ獄にまで入れられたが、春香は必死に貞操を守り続ける。
厳しい科拳の登用試験に合格した夢竜は暗行御史(日本でいう隠密同心?)として南原に潜入し、ついに春香を救い出す。」というもの。
皮肉なことに、赴いた地方官吏の業績を示す沢山の碑が堂々と並んでいる。
 

紅葉の季節はさぞかし美しい渓谷だろうなと思いながら、風光明媚な智異山麓の名刹といわれる雙溪寺(サンゲサ)を目指して、長々とした坂道を登る。
やっとたどり着いた寺の山門が、立派な構えをして訪れる者を迎えてくれる。
 

大雄殿の手前にある石碑は後で知ったのだが、この寺の唯一の国宝「真鑑禅師大空塔碑」で、「韓国四大金石文」の中で最高とされているものらしい。
梵鐘閣の鐘と太鼓はどういう時にどう使われるのか、興味を惹くところではある。
 

露梁津と呼ばれる南海島と半島本土との間の海峡に立ち、ここで行われた朝鮮の役最後の大きな海戦(韓国では露梁大捷と呼ばれている)に思いを馳せる。
順天城守備の小西行長らの撤退を支援するため、海路出撃した島津軍を中心とした日本軍と激しい戦を展開するも、ついに朝鮮・明連合水軍が大勝する。
しかしながら韓国最大の英雄、李舜臣はこの戦いで戦死してしまうという悲劇に見舞われた所でもある。
 

今日は朝一番で釜山市立博物館を訪れる。
統一新羅時代の優れた工芸技法を窺わせる金銅菩薩立像(国宝)をじっと見る。
高さ34cmで当時の金銅菩薩立像としては大きい方らしいが、優美な姿と凛々しい顔立ちには、しばし心を奪われてしまう。
  

真鍮の器を作っている工房の模様を見ていると、主人公イム・サンオクが吐血の思いで修行に励む、ドラマ「商道(サンド)」の1シーンを思い出す。
朝鮮通信使の行列も、当時の模様をリアルに再現してくれている。
楽しかった旅行も今日がとうとう最後、寂しい気持ちを抑えながら、後ろ髪を引かれる思いで博物館を後にする。
 

今回の百済の旅行、終始親切丁寧に解説してくださった李進煕先生、行く先々で適切なアドバイスをしてくれたガイドさん、そしてこのツアーをしっかりと運んでくれた幹事の皆さんには感謝の念で一杯。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>

2009年11月01日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺跡→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

韓国の中でも一番行きたいと思っていた百済への旅、しかも李進煕先生の中身の濃い説明が聞けるとても充実した五日間(10月9日~13日)であった。
NHK教育テレビ放送開始50周年を記念しての番組、シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」の第3回目「仏教伝来」には、今回訪れた王興寺跡の発掘模様とか益山(イクサン)の弥勒寺跡など重要な項目が出てくるので、興味ある方はぜひ見てほしいと思う。

空港からバスは一路、釜山から西へ130Kmほど離れた古都・晋州(チンジュ)へ向かう。
晋州は壬辰倭乱(文禄慶長の役)の激戦地だった所で、洛東江の支流・南江のほとりにある「晋州城跡」をまず訪れる。
晋州城を守る砦、実際には主将が兵卒を指揮する指揮所として使用されたという楼閣「矗石楼(チョクソクル)」を見上げ、当時の激戦に思いを馳せる。
朝鮮王朝第14代宣祖王の1592年10月、金時敏将軍率いる3800人の城兵と民は、細川忠興らの2万の軍と6日間にわたる戦いのすえ勝利を治めた。
だが翌年6月には宇喜多秀家を総大将とする7万余りの軍が再び城を包囲、晋州城の3千の兵と6万の民が侵略に抵抗して戦ったが、全員殉国したという悲運の場所でもあった。
 

朱論介(ジュノンゲ)は韓国の烈女の中でも、教科書に必ず出てくる人だという。
矗石楼で行われた秀吉軍の祝宴の際、官妓の論介は酔い痴れた相手将校を南江のほとりに誘い出し、手が離れないよう両手の指すべてに指輪をして将校に抱きつき、身を一体にして南江に沈んだのだという。
一説には、この不名誉な将校は加藤清正の将官、毛谷村六助だとも言われている。
朱論介(ジュノンゲ)が祀られている霊廟には、お参りに訪れる人々の列が絶え間なく続いている。
 

城址内の少し先に足を進めると、近代的な建物「国立晋州博物館」があり、壬辰倭乱に関する資料などがたくさん展示されている。
戦闘絵図、記録文、武器類、李朝や秀吉の各文書、そして晋州城攻防戦のパノラマなど、さらに亀甲船の模型もある。
晋州城の戦いだけにこだわらず、壬辰倭乱の全貌が学習できる展示内容となっているのが良いと思う。
 

翌日、晴天に恵まれた中バスは公州市の南方、鶏龍山の麓にある古窯跡へと向かう。
鶏龍山陶磁器は、朝鮮陶磁器の中でも定番中の定番とされているらしい。
お茶とか陶磁器は全くの素人なので、鶏龍山陶磁器の資料を紐解くと「・・・李王朝初期、公州郡に近い鶏龍山に点在した陶窯で、素地は鉄分が多く鼠色で粗いため白土を下地に刷毛塗りを用いた。
この白土の上に鉄砂で簡素な絵を描いたものが多く、絵刷毛目などと呼ばれる。」とある。
ここで拾った陶磁器の破片をじっと見ると、たしかにひなびた趣があり、これでお茶を飲んだらさぞかし美味しいだろうなという気持ちが湧いてくる。
 

今回の旅で一番楽しみにしていたのは、未盗掘の墓、宋山里古墳群の武寧王(ムリョンワン)陵が見れることだった。
百済第25代武寧王(謚=おくりな)は「日本書紀」に記されている筑紫の島で生まれた百済の斯麻王(諱=いみな)であること、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると「続日本紀」に記されていることなどから、武寧王は日本との関係がとても深かったことがうかがえる。
1971年に6号墳の排水工事中に偶然に発見された武寧王陵は、百済の確実な年代を証明するもので、韓国発掘史上最大の歴史的価値を持つと言われている。
そんな古墳群を眺めていると、古代日本と朝鮮との関係をもっと知らねばという強い思いが湧いてくる。
 

国立公州博物館には、武寧王陵をはじめとした熊津百済の歴史と文化を示す遺物が展示されている。
この図は青龍だと思うが、説明文を読むと「・・・武寧王陵に隣接する6号墳は横穴式塼室墳で、四神(東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武)の図がそれぞれの壁の中央に大きく描かれている。」とある。
 

武寧王の墓室全体は煉瓦を積み上げて作られた煉瓦墓で、入り口通路に当る羨道と遺体を安置する玄室で構成されている。
墓室は全て蓮の模様の煉瓦で刺繍を施したように美しく積み上げられており、東西の壁には各二個の龕が設けられていて、その一つには燈芯の燃えかすが残っていたという。
 

一番重要な遺物は墓誌石で、「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記されている。
このことから、墓の主人公が武寧王であること、生年は462年でこの年は雄略天皇5年、蓋鹵王7年であることも分かる。
日本書紀の記述の正確性が裏付けられるし、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたことにも驚く。
石獣は王と王妃のお棺前に置かれる悪鬼を追い払う魔除け像とされ、死者を守るという中国の墓葬風習から伝わったものとされている。
 

副葬品も国宝に指定されたものだけでも全12種17点に及んでいる。
王の木製頭枕と木製足座は遺体がしっかりと置ける様に、それぞれ中央がU字型、W字型に切り取られている。
金製冠装飾、金銅製靴、耳飾、首飾、そして腕輪などを見ると、鮮やかに光り輝いて王と王妃の威厳をまざまざと示していたことが良くわかる。
  

泗・百済の都城を守っていた扶蘇山城を訪れる。
泗門を入って先に進むと、「三忠祠」(サムチュンサ)がある。
百済滅亡直前の臣下であった成忠(ソンチュン)、興首(フンス)、そして堦伯(ケベック)の三人の忠臣を祀っている。
資料によると「・・・成忠は誤った政治をただすために努力した諫臣だったが、獄につながれ断食をして死した。
興首は敵の攻めに対し5000名の決死隊を作り戦ったが、大臣達の反対もあり炭峴の城を守りきれず戦死した。
堦伯将軍は唐・新羅の連合軍に対して4度戦い、4度とも勝利したが衆寡敵せず、最後は妻子の命を絶ったのち討ち死にした。」とある。
 

扶蘇山の南にある半月楼から、百済の都であった扶餘(プヨ)の街を一望する。
百済は滅亡するまで、漢城、熊津、そして扶餘と三度都を変えながら678年間続いた国、そして漢字、仏教、灌漑技術などを日本に伝来、もしかしたら国家形態そのものまでをも伝えていたのかもしれない。
そう思いながらこの街を一望していると、滅亡前の盛んだった百済の都の姿が眼の中に鮮やかに浮かんでくる。
扶蘇山の頂上にある百花亭から眺める白馬江の大河が、その悠々とした流れを見せている。
 

新羅・唐連合軍の攻撃で泗城が落城する時、百済の宮女3000人は敵に辱めを受けるよりはと断崖から白馬江に身を投げ、そのチマチョゴリの舞う姿は花が散るようであったと言う。
落花岩から身を投げた女性の霊を慰めるため、高麗時代に皐蘭寺が建てられ、今では多くの人々が訪れ祈りを捧げている。
白馬江を下る船の中、宮女3000人が飛び降りた断崖(落花岩)を見ていると、惜別の念がひしひしと胸の中に迫ってくる。
 

この旅の後半は「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>に続く。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」