クラシック 名盤探訪

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平城遷都1300年-春の大和路を行く

2010年04月28日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月5日~7日
東大寺→聖武天皇陵・光明皇后陵→平城宮跡→唐招提寺→薬師寺→法華寺→奈良国立博物館→水掛不動尊→大神神社→長谷寺→室生寺
4月5日から7日までの三日間、待ちに待った「史跡ボランティアの会」の県外研修旅行、今年が平城遷都1300年の奈良を中心とする旅に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごす。

まずは今回の旅行の一番の目玉、全国国分寺の総本山である東大寺を訪れる。
東大寺南大門は平安時代に台風で倒壊したが、鎌倉時代の1199年に重源上人によって再建されたもの。
その南大門を見上げると、大華厳寺と書かれた立派な額が目に入る。
運慶・快慶らによって造られた金剛力士像(仁王像)の迫力ある睨みは、悪いものは通さないという気迫に満ちている。
大仏殿(金堂)は創建以来二度の兵火に遭っているが、今の建物は江戸時代に建て直されたもの。
横幅が創建時の約三分の二に縮小されているが、それでも世界最大の木造建築だといわれている。
  

周りを見回すと、きれいに整備された庭と回廊の手前に並ぶ桜木の花が美しい風景を形造っている。
大仏殿の手前にある八角灯篭は東大寺創建当時のもので、天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさをよく伝えてくれている。
本尊の毘盧遮那(ビルシャナ)大仏、何度見上げてもその大きさには圧倒される。
聖武天皇は、災害や疫病、そして相次ぐ反乱などの社会不安を仏教の力を借りて解決しようとした。
当時の仏法思想の中心をなしたのは鎮護国家を本意とする華厳経の教えで、それが全国の国分寺創建、そして本尊となる世界最大の金銅仏の造立へとつながっていった。
  

大仏殿の中に展示されている東大寺の伽藍配置の模型が良くできている。
当時の人々が今は消滅してしまった東西の七重塔を含めた壮大な伽藍群を眺めた時の驚き、それを想像すると、なんと言って良いのか分からない気持ちを覚えてしまう。
正倉院が宮内庁管理とされているのは、光明皇后が聖武天皇が亡くなった時に、その大切に使っていた品々や宝物を大仏への御供え物として、東大寺に納めたことに拠っている。
 

二月堂は「修二会(お水とり)」で有名なところ。
二月の初めに天下泰平・五穀豊穣を祈願する法会で、752年に東大寺で行われたのが最初で、以来一度も絶えた事がないというから驚く。
法華堂(三月堂)には、16体もの仏像が所狭しと立ち並んでおり、そのうち12体が国宝とされていて、仏像が好きな人なら何時間も過ごしていたいはず。
沢山の宝石をちりばめた宝冠をもつ空羂索観音を中心に、日光・月光菩薩、四天王、金剛力士、梵天・帝釈天、吉祥天・弁財天、地蔵菩薩・不動明王などが、厳かな雰囲気を醸し出すことこの上ない。
 

740年に聖武天皇が河内の智識寺の盧遮那仏を拝し、大仏の造立を思い立ったとされているが、その事にいち早く声明を発したのが宇佐八幡だったという。
いかなる困難があろうとも天神地祇をひきいて大仏造立を援助するという託宣を下したことに、聖武天皇はどれほど喜んだことか。
手向山八幡宮が東大寺鎮守として大仏開眼の折に建立され、八幡神が勧請されたことも十分に頷ける。
750から760年に東西の塔が建立されたが、いずれも焼失してしまったという七重塔跡の土壇を見る。
約100メートルの高さだった壮麗な七重塔(東塔)の復興が計画されているというから楽しみ。
 

東大寺見学の後、聖武天皇陵(佐保山南陵)と光明皇后陵(佐保山東陵)を訪れ、厳かな気持ちで参拝する。
原寸大で復元された遣唐使船は、全長約30m、マストの高さ約15mという大きさ。
対馬の「小船越」に行ったときのことを思い出す。
そこは180m程の最も東西の海の距離を隔てる短い所で、船を曳いて遣隋使や遣唐使が島の東西を往来したとの話があり、約30mの船が曳き通せたかどうかとても気にはなる。
 

平城宮跡は南北約1Km、東西約1.3Kmの広さがあり、朝廷の正殿であった大極殿の近くまで行けなかったのがとても残念。
大極殿の殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた重要なところ。
今でいう防衛省、すなわち兵部省があった所は、完全な形ではないが復元工事がなされており、説明板には図入りの分かりやすい解説がなされている。
兵士(防人)、兵器、軍事施設の管理や武官の人事を担当していた所と言うから、今の制度と何が違うのか答えがすぐに出てこない。
 

平城宮の正門、朱雀門(朱雀_四神のひとつ、方位は南、色は赤)も立派に復元されている。
朱雀門の読みは「しゅじゃくもん」と思っていたら、物知りだったガイドさんの説明によると、当時は奈良時代以前に朝鮮半島から日本に伝わった呉音の読みである「すざくもん」が使われ、平安京の時代になって漢音の読みをを取り入れ「しゅじゃくもん」と呼ぶようになったのだと言う。
東院庭園は奈良時代後半の迎賓施設で、称徳天皇の時にこの庭で宴会や儀式を催していたらしい。
庭の形などを見ると自然の風景を主題とした庭園となっていて、平安時代以降の庭の原形とされる重要な遺跡となっている。
 

鑑真和上のお寺、唐招提寺は759年に創建されている。
井上靖の名作、「天平の甍」にもあるように、5度の失敗にも屈することなく来日を果たした鑑真の信念の強さにはただただ敬服する。
解体修理が終わり、その美しい姿を見せてくれる金堂(現存する唯一の天平時代の金堂建築)を臨めただけでも価値ある体験と言える。
解説書を読むと、「・・・戒壇は石造三段の豪壮なもので、和上が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比される・・・」とある。
東大寺の戒壇院を時間の関係で見れなかったのは、今となっては残念としか言いようがない。
 

唐招提寺の講堂は、平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在とされている。
薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って藤原京にて創建した寺で、その後平城遷都に伴い現在の地に移されている。
東塔は730年に建立され、薬師寺創建以来唯一残る建物として貴重なもので、後世の改造が少なく相輪まで当初のまま残っているという。
金銅には有名な薬師如来、日光・月光菩薩像があるのだが、ここでも撮影禁止で両菩薩の優美な「ヘソだしルック」を載せられないのが残念。
  

法華滅罪之寺・法華寺は、光明皇后が父であった藤原不比等の邸宅を総国分尼寺として建てたもので、皇后の顔に似せて造られたと言う本尊の十一面観音菩薩像は一見の価値がある。
浴室(からふろ)は、光明皇后が1000人の病を癒やしたとの伝承をもつ天平時代の蒸し風呂。
バスは一路、国立奈良博物館の「大遣唐使展」へと向かう。
遣唐使に関するゆかりの品、文化財などとても充実した内容の展示がされていて、限られた時間では見切れなかったのが本音で、あらためて時間をかけてじっくり見たい思いに駆られる。
その日の夜は大阪へ、夜の道頓堀、法善寺横町界隈を散策する。
苔むした有名な「水掛不動尊」に水をかけてなにやら願い事をする。
  

大神神社は奈良県桜井市にある大和国一ノ宮で、全国一ノ宮巡りを目指している私にとっては大いにうれしい訪問。
三輪山全体を神とする原始信仰を始まりとして、山上には祭りを行った際の磐座(いわくら)も残っている日本最古の神社でもある。
「日本書紀」の第十代崇神天皇の項には、祭神の大物主神にまつわる箸墓伝説が残されており、その記述によると、「・・・後に崇神天皇の姑の倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になりました。
しかしこの大物主神は、いつも昼には現れないで、夜だけやって来ました。
倭迹迹日百襲姫命が大物主神に、はっきりとあなたの美しい容姿を見たいと願ったところ、「あすの朝、あなたの櫛笥に入っているのでどうか私の姿に驚かないで」と告げました。
姫は心の中でひそかにいぶかしく思い、朝になって櫛笥を見ると、実に美しい小さな蛇が入っていました。
そこで倭迹迹日百襲姫命が驚いて叫んだ途端、大物主神は恥辱を感じて人の形となり、大空を舞って御諸山に登ってしまいました。
倭迹迹日百襲姫命は、御諸山を仰ぎ見て後悔しながら腰をつくと、箸が陰につきささって死んでしまいました。
ゆえに、葬られた墓を「箸墓」と呼ぶようになりました。
この墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」と伝えられています。・・・」
なかなか興味深い話ではある。
 

真言宗豊山派総本山の長谷寺は西国三十三観音の第八番札所でもあり、お目当ての本尊十一面観世音菩薩像は我が国最大の木造仏とも言われている。
仁王門を抜けて長い登廊を上ると、やっとその本尊がある本堂にたどり着く。
寺に伝説は付き物で、この菩薩像は近江国高島から来た橘の霊木をもちいて三日間で造り上げたという。
この寺は五月初旬頃の牡丹の花が有名だが、今の時期の桜も素晴らしく、本堂の舞台から眺める景色は見事の一言。
  

舞台から見える三重塔も、咲き誇る桜木の間にその優美な姿をのぞかせている。
室生寺は、美しい自然に溶け込み、訪れる人々を優しい気持ちにさせてくれるといううたい文句がとても良く似合う山の中の寺。
女人禁制だった高野山に対し、女性の参拝も許されてきたことから女人高野と呼ばれてきた寺でもある。
山門をくぐり抜け、しばらく進むと金堂へと続く鎧坂がある。
金堂には釈迦如来立像を中心に、薬師如来、地蔵菩薩、文殊菩薩、十一面観音菩薩像の五体が並んでいるのだが、撮影禁止で写真が撮れず載せられないのが残念。
  

金銅左手の石段を上ると、真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う本堂(灌頂堂)がある。
その横には五重塔を目指す石段がさらに続いている。
五木寛之の「百寺巡礼」の第一番目の寺は室生寺で、サブタイトルが「女たちの思いを包み込む寺」と書かれている。
その本に書かれている五重塔を表現する文章がとても素晴らしく、この旅行で期待に胸を膨らませてその塔を見上げた時の気持ちは何と表現したらよいのだろうか。
「・・・境内の急な階段を一歩ずつのぼってゆくと、突然、空中に浮かぶように五重塔が現れる。その瞬間、思いがけないほどの小ささゆえの優美なすがたに目をうばわれた・・・」
五木寛之の文章は、私の心に浮かび上がった思いをものの見事に伝えてくれている。
 

帰りのバスの中、巡った貴重な史跡の数々を思い起こしながら、この素晴らしいツアーを企画、主催をしてくれた方々にお礼の気持ちで一杯になる。
上総・下総の史跡を巡る旅
「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)

蘆花恒春園から烏山寺町へ

2010年04月11日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★
芦花公園駅→世田谷文学館→蘆花恒春園→称往院→妙寿寺→専光寺→高源院→常福寺→千歳烏山駅

明治から大正時代の面影に思いをはせながら歩いてみようと、徳富蘆花が暮らした世田谷区粕谷、そして大正12年の関東大震災後に形成されたという烏山寺町を訪ねてみる。

「文学のまち・世田谷」をテーマにしている世田谷文学館を訪れる。
入ってみると、世田谷ゆかりの文学者がとても多いのにびっくりさせられる。
萩原朔太郎、横光利一、坂口安吾、森茉莉、宇野千代、斉藤茂吉、横溝正史、田村泰次郎、三好達治、石川淳、中村汀女、中村草田男などの原稿や資料がたくさん展示されていて、好きな人なら興味が尽きないところ。
蘆花恒春園は作家の徳富蘆花が明治40年から没年の昭和2年まで住んだ家があった所で、今はきれいに整備された公園になっている。
 

武蔵野の風情ただよう雑木林や竹林のなかに、蘆花が日々暮らした茅葺きの母屋や書院、夫人居宅などが建っている。
記念館には彼の生涯が詳しくパネル展示されているが、その中でもパレスチナを巡礼した後、トルストイのもとまで訪れていることを知り、その信仰心というか思いの強さにしばし感心する。
前に逗子や伊香保を訪れた時に、そこにも彼の記念館があったが、そういう体験が点から線に、そして最後に円となって繋がるのがとても面白い。
蘆花は一時期逗子に滞在、そこで「不如帰」を執筆しているし、伊香保には晩年に病気の療養のため訪れ、ここで亡くなっている。
千歳烏山駅の先にある寺町へ足を進める。
ここは、関東大震災後に浅草や築地など下町にあった多くの寺が移転してきた所なのだという。
称往院には、芭蕉の一番弟子だったと言う事ぐらいしか知らないが、宝井其角の墓がある。
 

高源院には湧水をたたえる弁天池に弁才天があり、そこから池を見下ろすと沢山の亀がいっせいに甲羅干しをしている。
なかには親亀の上に小亀を乗せているのもあって、おもわず吹き出してしまうこと請け合い。
 

常福寺の境内には狸の置物が集められていて、たぬき寺の異名を持っているのが面白い。
一番大きいものは八相狸と呼ばれていて、体の八つの部位に教えがひとつずつ込められている。
脇に説明文が立てられているので、読んでみると言わんとしている事がよく分かる。