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さきたま古墳・下野国史跡と世界遺産日光への旅

2014年06月29日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月15日~4月16日
さきたま古墳群 → 中禅寺 → 二荒山中宮詞 → 日光東照宮 → 二荒山神社<下野国一宮> → 輪王寺・大猷院霊廟 → 大神神社<下野国総社> → 下野国・国庁跡 → 下野国・国分寺跡 → 下野国・国分尼寺跡 → 下野国・薬師寺跡

今回訪れた旅先の史跡、神社・寺院などを教科書的に述べてみると、以下のようになる。
◆さきたま古墳群
○「稲荷山古墳」は5世紀後半に造られた前方後円墳で、長さ120m、高さ約12m、金錯銘鉄剣(国宝)を出土したことで有名だ。
昭和43年(1968)に発掘調査が行われ、出土品の鉄剣、帯金具、勾玉、鏡などはすべてが国宝とされている。
墳頂には、粘土と河原石で作られた2基の埋葬施設が復元されている。
稲荷山鉄剣が持つ、古代史上の重要な意義を調べてみる。
①鉄剣の銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
②銘文の辛亥年を471年説とすると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵(ワカタケル)大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。
③遅くとも5世紀後半には、雄略天皇統治による大和の権力が九州から北関東まで及んでいたことになる。
 

〇「将軍塚古墳」は6世紀後半に造られた前方後円墳で、長さ90m、高さ約9.5m、横穴式石室から馬冑、旗差し金具、環頭太刀、馬具など多くの副葬品が出土している。
墳丘には復元した埴輪を立て、古墳内部は実際の横穴式石室と遺物の出土状況が見学できるように展示されている。
 

◆中禅寺湖の畔にある中禅寺は、784年に勝道上人により創建されたと云われ、東照宮すぐそばの日光山輪王寺の別院にあたる。
本尊は千手観音で、湖上にその姿を見た勝道上人が桂の立木を手彫りしたと伝わることから、「立木観音」とも呼ばれている。
本堂の上から眺める男体山が美しい。
◆二荒山中宮詞は中禅寺湖の北岸、男体山山麓の地に鎮座している。
男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山にある二荒山神社本宮の中間にあたるので、中宮祠と呼ばれている。
天応2年(782)に勝道上人が山頂を極めた後、延暦3年(784)にこの地に二荒権現を祀る社殿を建てたのが始まりとされ
ている。
  

◆日光東照宮
日光東照宮は徳川家康を祀る廟として、元和3年(1617年)に創建されている。
徳川家康は1616年4月に駿府城で75歳の生涯を終えた後、久能山に埋葬されたが、遺言により一年後の1617年4月に久能山より日光の地に移された。
「権現造」の建築様式、彫刻や彩色などの建築装飾は当時の最高水準の技術が用いられ、本殿・石の間・拝殿、陽明門など8棟が国宝に指定されている。
「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻、左甚五郎作の「眠り猫」、狩野探幽が想像で描いた像の彫刻は、東照宮の三彫刻として名高い。
家光の時の大造営の総工費は、金56万8000両、銀100貫匁、米1000石(今の400億円に相当)、使った材木が14万本、工期は1年5ヶ月、延ベ454万人が携わったという。
◆輪王寺・大猷院(たいゆういん)霊廟
「大猷院」は徳川3代将軍家光の死後に後光明天皇から賜った法号、「廟」は祖先の霊を祀ったお堂で、徳川家光の墓所である。
4代将軍家綱は酒井忠勝に命じて、家光の死の翌年にあたる承応元年(1652)から造営を始め、1年2ヶ月後の承応2年(1652)年に家光廟大猷院を完成させた。
建物は本殿、相の間、拝殿が国宝となっているほか、唐門、夜叉門などが重要文化財になっている。
大猷院の建物が東照宮に向かって建っているのは、家康に対する家光の強い思慕の念を示している。 
 

◆二荒山神社<下野国一宮>
二荒山神社は、古くより二荒山(男体山)を御神体と仰ぐ神社として発展し、下野国一宮として敬われ、鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰を集めたという。                     
二荒山の「ふたら」は補陀洛(ふだらく)からきたもので、観音の浄土の地という意味で命名されたという。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)が祀られている。
◆下野国・国庁跡
国府の中心部となる国庁は、大宝元年(701)に確立した律令国家体制の地方行政庁のことで、主な役目として税の徴収、戸籍の作成、国内の巡視、裁判などを司った。
下野国庁は、東西・南北が約95mで周囲は板塀がめぐり、南には南門、中央には前殿(見事な朱色で復元)、左右には脇殿という細長い建物が置かれていた。
しかし、重要な建物・正殿は前殿の後ろ側にあるはずだが、現在神社が建っているため、残念ながらまだ発掘調査は行われていない。
下野国司だった歴史上の人物を調べてみると、以下のような有名人がいる。               
伴 善男(とものよしお)・・守849任命、応天門の変で有名、役職と兼務だったため、実際に下野国に来た可能性は少ない。
菅原道真・・権の少掾867任命、「学問の神様」、右大臣にまで出世するが、晩年大宰府に左遷される。
藤原秀郷・・守940任命、平将門の乱を平定した功績で下野の地方豪族から下野守に出世する。別名が俵藤太。
  
 
◆大神神社<下野国総社>
第十代崇神天皇の長子・豊城入彦命が下野国を治めた時、父が崇拝していた三輪山の三輪大神を分祀し、そののち景行天皇の御代に下野惣社(惣社明神)になったとされている。
祭神は倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)で、奈良・大神神社の大物主命の分霊としている。
古代の国司はその国の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、その国の国府近くに国内の神を合祀した惣社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
そのため当神社は下野国の惣社にあたるとされている。
歌枕として『万葉集』や『古今和歌集』などに登場する「室の八嶋」は、境内の池の島がその跡と伝えられている。
当地を訪れた松尾芭蕉と曽良は、『奥の細道』に室の八嶋の由緒などを述べていて、境内には「 糸遊(いとゆう)に 結びつきたる 煙哉」という句碑が建てられている。
◆下野国国分寺跡
下野国分寺跡は、塔跡・講堂・金堂・鐘楼・回廊等の遺構表示が明確にされていて、海老名にある相模国分寺跡の将来的な整備方法にも参考になることが多い。
伽藍配置は東大寺式で、南北に南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門から廻る回廊は金堂に取りついている。
基壇の規模から壮大な造りと想像される七重塔は東側に、また東西には鐘楼、経蔵が置かれている。
  

◆下野国・国分尼寺跡
昭和39年(1964)、下野国分寺跡から東に600m離れた地点に下野国分尼寺跡が発見され、日本で初めての国分尼寺跡の発掘調査がなされたという。
下野国分尼寺の敷地は東西145m、南北270mで、伽藍配置は国分寺と同じだが、尼寺の方には七重塔はない。
◆下野国・薬師寺跡
下野薬師寺は、7世紀末にこの地方を治めていた豪族、下毛野(しもつけの)朝臣古麻呂の中央政府への発願によって創建されたとされる。
彼は天武天皇・持統天皇に仕え、藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーであったという。
下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より東の僧に正式に僧尼を認める戒壇が設けられた寺で、東国仏教文化の中心地となり、東大寺、筑紫観世音寺とともに三戒壇の一つに数えられている。
下野薬師寺の伽藍配置は、中門と金堂を回廊で結び、その中に戒壇堂があり、回廊の外、東に塔が、また、金堂の北に講堂が配置されていた。   
宝亀元年(770)、権力をふるった道鏡は、宇佐八幡宮神託事件がもとで称徳天皇の死後、下野薬師寺別当職として左遷され、その2年後にこの地で亡くなっている。
また、日光開山で有名な勝道上人は、28歳のときに下野薬師寺で試験を受けて、僧侶となっている。
 

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