クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

敦賀と奥琵琶湖の歴史を巡る

2014年12月26日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 11月10日~11月12日
気比神宮 → 気比の松原 → 西福寺 → 鶏足寺跡 → 石道寺 → 竹生島<宝厳寺、都久夫須麻神社> → 琵琶湖周航の歌資料館 → 白髭神社 → 田中大塚古墳<彦主人王御陵> → 中江藤樹記念館 → 賤ヶ岳古戦場(余呉湖の眺め)→ 雨森芳洲庵 → 向源寺<聖十一面観音像>

何よりも嬉しい事は、兄弟姉妹全員揃っての旅行が無事楽しく出来たことに尽きる。
写真が十分に撮れなかったが、訪れた所を思い出しながらたどっていきたい。
はじめに敦賀市の気比神宮、気比の松原、西福寺を訪れ、その夜は北近江観音路・己高庵で旅の疲れを癒す。
翌日の朝訪れたのは紅葉の名所として知られる鶏足寺跡、ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣にもみじの古木が幽玄な情景を醸し出している。
近くの石道寺にも訪れ、趣きのある十一面観音像を拝観する。
己高閣・世代閣には鶏足寺本尊の十一面観音像、他に薬師如来立像、十二神将立像など多くの文化財が保存されている。
フェリーで竹生島へ、琵琶湖周航の歌をしきりと思い出す。
白髭神社は、近江の厳島とも呼ばれる近江最古の神社。
 


第26代継体天皇の父の御陵と伝えられる 田中大塚古墳を訪れる。
「日本書紀」には彦主人王が「近江国高島郡三尾之別業」に住んでいた頃、越前国より美しき振姫を妃に迎え生まれたのが男大迹王(おおどおう)であると記されている。
時代がずっと下った天正11年(1583)に羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の戦場跡に佇む。
そこから眺める神秘の湖「余呉湖」の眺めが美しい。
  

高月町出身の儒学者・雨森芳洲の生家跡に建てられた雨森芳洲庵を訪れる。
朝鮮通信使での働きや、「誠信の交わり」を説いた彼の人間性の素晴らしさに感心する。
向源寺の聖十一面観音像は、全国に7体ある国宝の十一面観音の中でも特に美しいと評価されている。
  

八幡平・奥入瀬渓流・白神山地を歩く

2014年11月26日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 8月17日~8月19日
八幡平ハイキング → 奥入瀬渓流 → 八甲田山ロープウェイ → 白神山地

遅ればせながら、夏の旅行を今頃になって記事にする。
八幡平のハイキングは、あいにくの雨で雄大な山々の景色が見れなかったのが残念だったが、登山道も整備され、ブナの原生林や可憐な高山植物、鳥のさえずりなど、豊かな自然を満喫する。
発荷峠から見下ろす十和田湖の眺めは素晴らしい。
近くで買った黒にんにくの効果が抜群なこと、一粒食べたらすぐに体の疲れが取れ、元気がすっかり回復したのには驚く。
 

次の日には天気も回復、奥入瀬渓流を十和田湖の子ノ口から下流へと2時間ほど歩く。
紅葉の時期が最高らしいが、美しい渓流と周りの自然美を眺めながらの散策は、とても気持ちがよい。
世界遺産になっている白神山地、現地のガイドさんが話す自然なままのブナ林の生体、その詳しい説明が今でも印象に残る。
 

さきたま古墳・下野国史跡と世界遺産日光への旅

2014年06月29日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月15日~4月16日
さきたま古墳群 → 中禅寺 → 二荒山中宮詞 → 日光東照宮 → 二荒山神社<下野国一宮> → 輪王寺・大猷院霊廟 → 大神神社<下野国総社> → 下野国・国庁跡 → 下野国・国分寺跡 → 下野国・国分尼寺跡 → 下野国・薬師寺跡

今回訪れた旅先の史跡、神社・寺院などを教科書的に述べてみると、以下のようになる。
◆さきたま古墳群
○「稲荷山古墳」は5世紀後半に造られた前方後円墳で、長さ120m、高さ約12m、金錯銘鉄剣(国宝)を出土したことで有名だ。
昭和43年(1968)に発掘調査が行われ、出土品の鉄剣、帯金具、勾玉、鏡などはすべてが国宝とされている。
墳頂には、粘土と河原石で作られた2基の埋葬施設が復元されている。
稲荷山鉄剣が持つ、古代史上の重要な意義を調べてみる。
①鉄剣の銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
②銘文の辛亥年を471年説とすると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵(ワカタケル)大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。
③遅くとも5世紀後半には、雄略天皇統治による大和の権力が九州から北関東まで及んでいたことになる。
 

〇「将軍塚古墳」は6世紀後半に造られた前方後円墳で、長さ90m、高さ約9.5m、横穴式石室から馬冑、旗差し金具、環頭太刀、馬具など多くの副葬品が出土している。
墳丘には復元した埴輪を立て、古墳内部は実際の横穴式石室と遺物の出土状況が見学できるように展示されている。
 

◆中禅寺湖の畔にある中禅寺は、784年に勝道上人により創建されたと云われ、東照宮すぐそばの日光山輪王寺の別院にあたる。
本尊は千手観音で、湖上にその姿を見た勝道上人が桂の立木を手彫りしたと伝わることから、「立木観音」とも呼ばれている。
本堂の上から眺める男体山が美しい。
◆二荒山中宮詞は中禅寺湖の北岸、男体山山麓の地に鎮座している。
男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山にある二荒山神社本宮の中間にあたるので、中宮祠と呼ばれている。
天応2年(782)に勝道上人が山頂を極めた後、延暦3年(784)にこの地に二荒権現を祀る社殿を建てたのが始まりとされ
ている。
  

◆日光東照宮
日光東照宮は徳川家康を祀る廟として、元和3年(1617年)に創建されている。
徳川家康は1616年4月に駿府城で75歳の生涯を終えた後、久能山に埋葬されたが、遺言により一年後の1617年4月に久能山より日光の地に移された。
「権現造」の建築様式、彫刻や彩色などの建築装飾は当時の最高水準の技術が用いられ、本殿・石の間・拝殿、陽明門など8棟が国宝に指定されている。
「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻、左甚五郎作の「眠り猫」、狩野探幽が想像で描いた像の彫刻は、東照宮の三彫刻として名高い。
家光の時の大造営の総工費は、金56万8000両、銀100貫匁、米1000石(今の400億円に相当)、使った材木が14万本、工期は1年5ヶ月、延ベ454万人が携わったという。
◆輪王寺・大猷院(たいゆういん)霊廟
「大猷院」は徳川3代将軍家光の死後に後光明天皇から賜った法号、「廟」は祖先の霊を祀ったお堂で、徳川家光の墓所である。
4代将軍家綱は酒井忠勝に命じて、家光の死の翌年にあたる承応元年(1652)から造営を始め、1年2ヶ月後の承応2年(1652)年に家光廟大猷院を完成させた。
建物は本殿、相の間、拝殿が国宝となっているほか、唐門、夜叉門などが重要文化財になっている。
大猷院の建物が東照宮に向かって建っているのは、家康に対する家光の強い思慕の念を示している。 
 

◆二荒山神社<下野国一宮>
二荒山神社は、古くより二荒山(男体山)を御神体と仰ぐ神社として発展し、下野国一宮として敬われ、鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰を集めたという。                     
二荒山の「ふたら」は補陀洛(ふだらく)からきたもので、観音の浄土の地という意味で命名されたという。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)が祀られている。
◆下野国・国庁跡
国府の中心部となる国庁は、大宝元年(701)に確立した律令国家体制の地方行政庁のことで、主な役目として税の徴収、戸籍の作成、国内の巡視、裁判などを司った。
下野国庁は、東西・南北が約95mで周囲は板塀がめぐり、南には南門、中央には前殿(見事な朱色で復元)、左右には脇殿という細長い建物が置かれていた。
しかし、重要な建物・正殿は前殿の後ろ側にあるはずだが、現在神社が建っているため、残念ながらまだ発掘調査は行われていない。
下野国司だった歴史上の人物を調べてみると、以下のような有名人がいる。               
伴 善男(とものよしお)・・守849任命、応天門の変で有名、役職と兼務だったため、実際に下野国に来た可能性は少ない。
菅原道真・・権の少掾867任命、「学問の神様」、右大臣にまで出世するが、晩年大宰府に左遷される。
藤原秀郷・・守940任命、平将門の乱を平定した功績で下野の地方豪族から下野守に出世する。別名が俵藤太。
  
 
◆大神神社<下野国総社>
第十代崇神天皇の長子・豊城入彦命が下野国を治めた時、父が崇拝していた三輪山の三輪大神を分祀し、そののち景行天皇の御代に下野惣社(惣社明神)になったとされている。
祭神は倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)で、奈良・大神神社の大物主命の分霊としている。
古代の国司はその国の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、その国の国府近くに国内の神を合祀した惣社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
そのため当神社は下野国の惣社にあたるとされている。
歌枕として『万葉集』や『古今和歌集』などに登場する「室の八嶋」は、境内の池の島がその跡と伝えられている。
当地を訪れた松尾芭蕉と曽良は、『奥の細道』に室の八嶋の由緒などを述べていて、境内には「 糸遊(いとゆう)に 結びつきたる 煙哉」という句碑が建てられている。
◆下野国国分寺跡
下野国分寺跡は、塔跡・講堂・金堂・鐘楼・回廊等の遺構表示が明確にされていて、海老名にある相模国分寺跡の将来的な整備方法にも参考になることが多い。
伽藍配置は東大寺式で、南北に南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門から廻る回廊は金堂に取りついている。
基壇の規模から壮大な造りと想像される七重塔は東側に、また東西には鐘楼、経蔵が置かれている。
  

◆下野国・国分尼寺跡
昭和39年(1964)、下野国分寺跡から東に600m離れた地点に下野国分尼寺跡が発見され、日本で初めての国分尼寺跡の発掘調査がなされたという。
下野国分尼寺の敷地は東西145m、南北270mで、伽藍配置は国分寺と同じだが、尼寺の方には七重塔はない。
◆下野国・薬師寺跡
下野薬師寺は、7世紀末にこの地方を治めていた豪族、下毛野(しもつけの)朝臣古麻呂の中央政府への発願によって創建されたとされる。
彼は天武天皇・持統天皇に仕え、藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーであったという。
下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より東の僧に正式に僧尼を認める戒壇が設けられた寺で、東国仏教文化の中心地となり、東大寺、筑紫観世音寺とともに三戒壇の一つに数えられている。
下野薬師寺の伽藍配置は、中門と金堂を回廊で結び、その中に戒壇堂があり、回廊の外、東に塔が、また、金堂の北に講堂が配置されていた。   
宝亀元年(770)、権力をふるった道鏡は、宇佐八幡宮神託事件がもとで称徳天皇の死後、下野薬師寺別当職として左遷され、その2年後にこの地で亡くなっている。
また、日光開山で有名な勝道上人は、28歳のときに下野薬師寺で試験を受けて、僧侶となっている。
 

常陸史跡巡り

2014年06月15日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★ 3月28日~3月29日
常陸国分寺跡 → 常陸国分尼寺跡 → 弘道館 → 水戸城跡 → 水戸東照宮 → 偕楽園 → 徳川博物館 ~ 県立歴史館


常陸国分寺は寺料が稲束6万束で全国の最高位、定住僧30名、寺域60町歩という規模だったが、現在は礎石を残すのみ。
伽藍配置は東大寺式で、一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並ぶ。
常陸国分尼寺には、10人の尼僧が在籍し、寺の運営は10町の水田によって賄なわれていたというが、現在は往時を偲ぶ礎石が散在しているのみ。

 
弘道館は水戸藩の藩校として、第9代藩主・徳川斉昭により天保12年(1841)に創設された。
武芸一般はもとより、医学・天文学・蘭学など、幅広い学問をとり入れた、当時の藩校としては国内最大規模のものだったという。
第15代将軍となった徳川慶喜も、5歳の時から弘道館において英才教育を受けている。
水戸城の歴史をたどると、鎌倉時代に馬場氏により建てられた館が最初で、それが江戸氏・佐竹氏と渡り、慶長14年(1609)には徳川家康の11男・徳川頼房が水戸徳川家の城主となっている。

 
徳川光圀の生誕地に立つ神社を訪れる。
光圀は寛永5年(1628)、水戸藩初代藩主頼房の三男として、家臣三木家の屋敷で生まれている。
身分を隠し、4歳までここで育ったという。
偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三大公園」のひとつだが、天保13年(1842)に第九代藩主徳川斉昭によって造られたもの。
見事な梅の花を見ようと、多くの人々が絶え間なく訪れている。

宗像・沖ノ島と関連遺産群を歩く

2014年04月20日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 2月25日~2月27日
宗像大社 → 高宮斎場 → 辺津宮 → 神宝館 → 海の道むなかた館 → 鎮国寺 → 神湊港 ~ 大島港 → 中津宮 → 御岳山展望台 → 沖津宮遥拝所 → 大島港 ~ 神湊港 一 東郷高塚古墳 → 田熊石畑遺跡 → 桜京古墳 → 新原・奴山古墳群 → 宮地嶽古墳→ 在自唐坊跡展示館 → 竹原古墳

宗像の地は中国や朝鮮に最も近く、その貿易や進んだ文化の受入れ窓口として、重要な位置にあったと言われている。
「日本書紀」には、天照大神が「天皇の祀り事を助け、丁重な祭祀を奉じなさい」と、三女神を宗像の地に送ったことが記されている。
そんな海のみちのシンボル、宗像大社をまずは訪れる。
高宮斎場は宗像三女神の降臨地であり、沖ノ島と共に日本の祈りの原形を今に伝える数少ない古代祭場とされている。
 

宗像大社の境内には、第二宮に沖津宮の田心姫命(たごりひめのみこと)、第三宮に中津宮の湍津姫命(たぎつひめのみこと)が祀られている。
すぐ傍らにある神宝館には、沖の島の出土品が展示されている。
4~5世紀から9世紀までの大量の祭祀遺物が発見された信仰の島”沖の島”は、「海の正倉院」とも呼ばれている。
「海の道むなかた館」<写真は展示品で、蛇のような形をした”旗ざし”>では、宗像の地と大陸との交流の様子、大和王権にとって重要な意味を持つ沖ノ島での祭祀、それを担った宗像氏の存在などを展示している。
 

鎮国寺は、弘法大師が大同元年(806)に創建したと伝えられる真言宗最古のお寺だという。
「花と祈願の寺」としても有名で、年間を通じて美しい花々を楽しめる名所となっている。
神湊港からフェリーで大島港へと渡る。
 

中津宮には湍津姫命が祀られているが、そこは七夕伝説発祥の地とされいて、縁結びの御利益が有名になっている。
安昌院の境内北側に苔むす五輪塔があり、これが安倍宗任の墓だという。
奥州随一の権勢を誇った安倍貞任、宗任らは、「前九年の役」で源頼義、八幡太郎義家らの軍に敗れ、貞任は斬首、宗任はここ筑前大島に配流されて生涯を閉じている。
安倍晋三首相が、この安倍宗任の末裔だとは結構知られていないと思う。
嬉しいことに、お寺の住職が韓国渡来だという聖観音菩薩像を、わざわざ奥から持ってきて見せてくれた
  

沖津宮遥拝所から、約48km先の沖ノ島(沖津宮)を遥拝したかったが、曇り空でまったく望めなかったのは残念だった。
その沖ノ島への上陸は、今も守られる禁忌によって厳しく制限されている。
沖ノ島の古代の祭祀遺跡からは約8万点の奉献品が発見されて、全てが国宝になっているのには驚く。
次に訪れた東郷高塚古墳は4世紀後半の前方後円墳で、宗像の基礎を築いた首長の墓と考えられている。
弥生時代中期の田熊石畑遺跡<現在整備中>からは、銅剣・銅矛・銅戈の武器形青銅器が日本最多級の15点出土している。
 

色付けされた線刻三角文の装飾古墳で有名な桜京古墳を見学した後、新原・奴山古墳群に向かう。
世界遺産を目指しているという新原・奴山古墳群は、沖ノ島祭祀を発展させた古墳時代の宗像において、「海北道中」を支配した海の民のあり方を最もよく表象していると云われている。
 

宮地嶽神社にある宮地嶽古墳は7世紀中頃迄に造られた円墳だが、内部に国内2番目の全長23mの横穴式石室がある。
被葬者は、天武天皇の皇子・高市皇子を産んだ尼子娘(あまこいらつめ)の父・胸形徳善とする説が有力だ。
在自(あらじ)唐坊跡展示館を見学する。
古くから中国から来た人達や中国と貿易していた人達が住んでいた場所で、小学校の校舎を新築していたらその跡が見つかり、床に穴を開けてそのまま展示場にしているのが面白い。
 

6世紀後半に築造された竹原古墳は、鮮明に描かれた装飾古墳が有名で、国指定史跡に指定されている。
壁画の内容は4神思想や龍媒伝説など高句麗壁画の影響をうかがわせたもので、黒や朱の古代顔料で、船や龍、朱雀、馬を引く人物、翳(さしば=うちわのようなもの)などが描かれている。
  


天璋院篤姫の故郷・薩摩へ

2014年03月10日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 1月28日~1月30日
仙厳園 → 尚古集成館 → 南洲墓地 → 福昌寺跡 → 石橋記念公園 → 鍛治屋町歩き → 城山展望台 → 鶴丸城跡 → 日置・園林寺跡 → 今和泉島津家屋敷跡 → 今和泉島津家墓地 → 豊玉姫神社 →薩摩一宮枚聞神社 → 池田湖<薩摩富士> → 知覧特攻平和会館・ホタル館 → 知覧武家屋敷庭園

話題になったNHK大河ドラマ「篤姫」を見逃した代わりに、自分の足で天璋院篤姫の故郷、薩摩を訪ねる旅に出る。
仙巌園は万治元年(1658)に19代島津光久によって築かれた別邸で、錦江湾や桜島の眺めを巧みに取り入れた庭園として知られている。
幕末の名君、28代島津斉彬がこの庭園をこよなく愛したというし、第13代徳川家定に嫁いだ篤姫もここを訪れている。
 
 
すぐ隣の尚古集成館は薩摩藩主、島津斉彬が推進した洋式産業の総称で、斉彬が築いた集成館は薩英戦争で焼失したが、島津忠義が復興を進め、慶応元年(1865)に機械工場が完成している。
7ヶ月にわたった西南戦争は、明治10年(1877)9月24日、故郷の城山で西郷隆盛が自刃して、ついにが終わりを告げる。
訪れた南洲墓地には、西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が静かに眠っている。
 

福昌寺は曹洞宗の一大寺院で薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが、明治初年の廃仏毀釈により破壊されてしまい、今は島津家当主の墓地のみとなっている、
戦国期の義久、義弘、歳久、家久や、幕末期の斉彬、久光などと、その正室、側室も眠る歴代島津氏当主の墓地群で、島津家を知るには絶対に欠かせない場所といえる。
 

石橋記念公園を訪れる。
江戸時代後期、島津重豪の命により市内を流れる甲突川に5つの石橋が架けられたが、そのうち3つを移設した公園で博物館もすぐ傍にある。
藩の財政改革が成功したことと、肥後から招かれた名石工・岩永三五郎によって初めて架橋が実現したと言われている。
翌朝ホテルを抜け出し、近くの鍛治屋町を散策する。
ここは明治維新に活躍した多くの薩摩藩士が生まれたところで、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎(写真)など多くの偉人の生誕記念碑が建てられている。
 

桜島が一望できる城山展望台に行ったが、あいにくの曇りでその雄姿を眺められなかったのが残念。
城山公園を下ったところに、西南戦争で田原坂から敗走してきた西郷隆盛が立てこもり、最後の指令所とした洞窟が史跡として残っている。
鶴丸城は薩摩藩薩主、島津氏の居城跡で、城は「人をもって城となす」という島津の精神に基づき、天守閣のない質素な屋形造りで、鶴が翼を広げた形に似ていることから鶴丸城と呼ばれたという。
島津家は、鎌倉時代の地頭職、守護職から始まり、守護大名、戦国大名、そして徳川時代の近世大名と、代々薩摩大隅地方に連綿と続いた家柄で、丸に十の字の家紋はよく知られている。
 

鶴丸城跡には、島津斉彬の養女となり、徳川家定に嫁ぐまでの間、しばらく城の大奥に住んだという篤姫の銅像が建てられている。
日置・園林寺跡にある小松帯刀の墓を訪れる。
傍には妻お近、そして少し離れたところに陰で彼につくしたお琴の墓も建てられている。
小松帯刀は、小松家に跡目養子に行く前の名は肝付尚五郎と言い、ドラマ「篤姫」の中で初恋役として出演しているが、宮尾登美子の原作には一切出ていないのでややこしい。
それはともかく、彼は薩摩藩家老まで務めた人望がある人で、幕末の英国外交員アーネスト・サトウが「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」と評したほどだった。
 

豊玉媛神社にお参りした後、今和泉島津家隠居屋敷跡を訪れる。
残念ながら現在は民家の門になっていて、当時を偲ばせてくれるのは近にある石垣だけだった。
今和泉島津家墓地には、初代の忠郷から忠温、忠厚、忠喬、忠剛(篤姫の父)、忠冬(篤姫の兄)までの6代の当主と奥方などが埋葬されている。
篤姫が幼少期を過ごした今和泉島津家別邸跡地、その近くの隼人松原に「幼少の篤姫・於一像」が建てられている。
  

薩摩一宮枚聞神社の祭神は大日霎貴命だが、拝殿は北向きでその先には薩摩富士(開聞岳)があるから、ご神体はこの山と思われる。
池田湖で薩摩富士を眺めるのが楽しみの一つだったが、あいにくの雨天で何も見えず、見たのは大鯰のみだった。
 

知覧特攻平和会館には、太平洋戦争も終りに近い沖縄戦で飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした特攻隊員の遺品や関係資料が展示されている。
映画「ホタル」を生んだ館富屋食堂、特攻の母として慕われた「鳥浜トメ」の食堂もきちんと残っている。
   

知覧武家屋敷庭園がある街並みは、260年前から変わらぬ姿を保ち続けており「薩摩の小京都」と呼ばれている。
七つある武家屋敷庭園は、それぞれの趣きが感じられ訪れる人々の目を楽しませてくれる。
 

紅葉の秋、北九州横断の旅

2013年12月26日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 11月10日~11月13日
太宰府天満宮 → 光明禅寺 → 冨貴寺 → 宇佐神宮 → 青の洞門 → 深耶馬溪 → 九重”夢”大吊橋 → やまなみハイウェイ → 菊池渓谷 → 高千穂峡 → 島原湾フェリー → 仁田峠・普賢岳展望台

太宰府天満宮というと菅原道真をすぐに思い出す。
彼は学問の家に生まれ、右大臣にまで上りつめたが、左大臣・藤原時平の讒訴によって昌泰4年(901)、大宰権帥の職に左遷されてしまう。
大宰府での暮しは都とはうって変わって侘しく、失意のうちに2年間を過ごすが、延喜3年(903)に亡くなってしまう。
遺骸を牛車に乗せて運んで行く途中、牛が動かなくなってしまいそこに埋葬されたが、その地が現在の太宰府天満宮なのだという。
菅家(菅原道真家)の生まれの鉄牛円心和尚が鎌倉時代に建立した光明禅寺は、太宰府天満宮の結縁寺とされる。
 

光明禅寺の裏庭には九州唯一の枯山水の庭園があり、紅葉の特別な風情が素晴らしい。
富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院で、阿弥陀堂は平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられている。
  

全国に約11万の神社があるというが、八幡さまが最も多く4万600社余りあり、宇佐神宮はその総本宮とされている。
祭神は応神天皇、比売大神、そして神宮皇后が祀られている。
創建は神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現在の地に八幡神をお祀りしたことに始まるが、宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けた所で、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと『日本書紀』に記されている。
 

大正8年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった青の洞門を訪れる。
諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚がノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)に全長342mの洞門を完成させたという。
深耶馬溪は狭い谷に絶壁や石柱が屏風のように連なり、一目八景からの秋の紅葉は特に美しい展望を見せてくれる。
 

歩行者専用としては日本一の高さと長さの橋という九重”夢”大吊橋、そこから見る鳴子川渓谷と振動の滝の景色は素晴らしい。
次に訪れた菊池渓谷は阿蘇外輪山から湧き出た地下水が造り出した渓谷で、渓流に映える紅葉が美しい景観を見せてくれる。
 

余りにも有名な高千穂峡は宮崎県の五ヶ瀬川にかかる峡谷で、国の名勝、天然記念物に指定されている。
 

雲仙温泉の”地獄”には、受難にあったキリシタンの殉教の碑が置かれている。
最後に訪れた仁田峠、ここから見る有明海のなんと素晴らしいこと、口ではとうてい語りきることのできない眺めにしばし感動する。
  

出雲神話と古代史の舞台

2013年12月01日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月27日~10月29日
比婆山久米神社 → 黄泉比良坂 → 揖夜神社 → 山代二子塚古墳 → 八雲立つ風土記の丘 → 出雲国府跡 → 六所神社 → 意宇の杜 → 出雲国分寺跡 → 岩壷神社・那売佐神社 → 長浜神社 → 出雲大社 → 粟島神社 → 赤猪岩神社 → 上淀廃寺<伯耆古代の丘> → 妻木晩田遺跡

出雲は古代神話の宝庫と言われる。
そんな古代史の舞台を訪ねる旅に出る。
比婆山は、伊邪那美命がまだ国生みの途上だったが、無念にも命を落とし葬られたとされる処。
標高320mの山頂付近には、伊邪那美命を祭神とする久米神社・奥の宮があり、麓には久米神社・下の宮がある。
本来は奥宮を詣でなければいけないのだが、体が言うことをきかないので麓の比婆山久米神社で勘弁してもらう。
次に訪れた黄泉比良坂は、≪古事記≫に、「・・・伊邪那岐命は死んでしまった伊邪那美命を呼びもどそうと黄泉の国へと赴くが、〈視てはならない〉という禁を犯して伊邪那美命を視ると、体が腐乱して蛆がたかっている。
驚いた伊邪那岐命は伊邪那美命に追いかけられるが、黄泉比良坂まで逃げもどり,そこを千引石でふさいでやっと地上に生還・・・」とある場所とされている。
 

揖夜神社は、≪出雲国風土記≫には伊布夜社と記されており、≪古事記≫に黄泉比良坂は「出雲国の伊賦夜坂である」との記述があるので、黄泉比良坂の近くにこの神社があるのは納得できる。
出雲最大級の規模とされる山代二子塚古墳を訪れる。
6世紀中頃に築かれた全長92の前方後方墳だが、大正14年に日本で初めて「前方後方墳」の名が付けられた古墳ということで有名らしい。
  

山代二子塚古墳をあとに、バスは全国に17あるという風土記の丘の一つ、「八雲立つ風土記の丘」へと向かう。
 

「八雲立つ風土記の丘」周辺には、多くの古墳はもちろん、山代郷正倉跡や北新造院跡、これから訪れる出雲国庁跡、出雲国分寺跡などがあり、まずは資料館でそれらの資料をいただく。
全国10数ヶ所あるという伊邪那美命の陵墓伝説地の中から、宮内庁が保存すべきものとして認定した岩坂陵墓参考地に立ち寄る。
どこまで信用してよいかわからないが、比婆山の地にあることは確かである。
 

≪出雲国風土記≫に記載された出雲国庁が意宇平野にあることは確かだったが、不明とされた所在地もその後の発掘によって明らかになっている。
国司は国内の各神社を巡拝するのは大変なので、「総社」一社を参拝して”こと足れり”としたという六所神社が国庁跡のすぐ隣に建っている
  

八束水臣津野命が国引きの仕事を終え、”意恵(おえ)”と叫んで杖を刺した処にできたと言われる「意宇(おう)の杜」に寄ってから、出雲国分寺跡へと向かう。
南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などの跡が見つかり、主要な伽藍が南北一直線に並ぶ「東大寺式」の配置だった出雲国分寺、今は草が生い茂る跡地だが、当時の荘厳なたたずまいに思いをはせながらじっと眺める。
滑狭郷にある那売佐神社は、「延喜式神名帳」や≪出雲国風土記≫にも記載されている由緒ある神社で、葦原醜男命(大国主命)と素戔嗚命の末娘でこの里の岩坪で生誕したといわれる須世理姫命が祀られている。
  

≪出雲国風土記≫の冒頭に出てくる”国引き神話”で有名な八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)を祀る長浜神社を参拝したのち、バスは一路出雲大社へと向かう。
 

縁結びの神・福の神として名高い大国主命を祀る『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていた。
「古事記」に記される国譲り神話によると、大国主命が高天原の天照大神に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりとされる。
本殿(国宝)は有名な大社造で、伊勢神宮の神明造りとともに古代からの建築様式を伝えている。
 

神楽殿の注連縄は日本最大級の大きさで、長さ13m、重さは4.5tというから、仰ぎ見ただけで圧倒される。
出雲大社から西に向かうと、大国主命と武甕槌命が国譲りの交渉をしたという稲佐の浜がある。
この浜は旧暦10月の神在月に、全国の八百万の神々をお迎えする浜としても知られている。
 

粟島神社の祭神は少彦名命で、≪伯耆国風土記≫ には国造りを終えた少彦名神が”粟島(あわしま)”から常世の国へ渡って行ったという記述が出てくる。
少彦名命が粟嶋に舟で到着し、最初に上陸したとされる場所には小さな祠が建てられている。
人魚の肉を食べ、”八百比丘尼”とも呼ばれる不老不死となった娘の伝説が残る静の岩屋をお参りする。
  

≪古事記≫によると、八十神に赤い猪だとだまされ、真っ赤に焼けた岩を抱きとめて落命したという大国主命、そんな謂れの地にある赤猪岩神社を訪れる。
女神の手によって蘇生した大国主命にちなみ、「再起」に願いをかけた多くの人々が参拝に訪れるらしい。
バスは鳥取県米子市の南にある<伯耆古代の丘>の上淀廃寺跡へと向かう。
  

上淀廃寺跡は、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡で、国内最古級の仏教壁画片や仏像の足の破片などが出土したこともあって、金堂の中の壁画や釈迦三尊像が見事に復元されていたのには、本当に感動させられた。
金堂の東に3塔を南北に配する伽藍配置も古代の寺院において他に例が無く、これを建てた地方豪族の力には驚くというほかはない。
 

金堂の中の鮮やかな彩色の壁画も美しく、この時代に海を渡ってきた渡来人の力なしには成しえないものだと思う。
隣接する「上淀白鳳の丘 展示館」には、石馬谷古墳から出土した”石馬”が展示されている。
高さ90cm、長さ150cmの大きさ、九州で数例の出土はあるが、本州では唯一のもので国の重要文化財になっている。
  

約1900~1700年前の弥生時代に、国内最大級の集落が存在したということで注目を集めた妻木晩田遺跡を訪れる。
調査されたのは156ヘクタールで、竪穴住居跡400棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、墳丘墓は30基以上もあったという。
これだけでも吉野ケ里遺跡より大きいし、発掘されたのは全体の10分の1程度と考えられているから、ここに「クニ」を治める首都的なムラがあったと考えてもおかしくないかもしれない。
 

鳥海山、月山、蔵王、浄土平の湿原を巡る

2013年08月29日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 7月30日~8月1日
浄土平湿原 → 蔵王駒草平 → 鳥海山・元滝伏流水 → 鳥海山・獅子ヶ鼻湿原 → 月山・弥陀ヶ原湿原

山形、秋田方面は涼しいだろう、そんな願いを込めて北の方へと湿原めぐりの旅に出る。
浄土平湿原を歩いていると、一瞬だったが、雲の間から一切経山が姿を見せてくれた。
雨の中、蔵王駒草平の展望台に行く途中で可憐な駒草の花を見れたのがラッキーだった。
蔵王温泉に一泊、翌日のバスは延々と北へ走り、山形と秋田県境にある鳥海山の麓の元滝伏流水へと向かう。
 

鳥海山の獅子ヶ鼻湿原は、湿原というより太古の原始林の森という感じで、特にその豊富な湧水の量には圧倒される。
ブナの原生林の中を歩いていくと、”アガリコ大王”と呼ばれる奇形のブナの木が印象的な姿を表してくれた。
  

天童温泉に一泊、翌日のバスは月山八合目にある弥陀ヶ原湿原へと向かう。
弥陀ヶ原湿原は別天地の世界で、たくさんの高山植物が可憐な花々を咲かせながら我々を迎えてくれたのが嬉しい。
 

水の中を覗くとサンショウウオの姿がかすかに見える。
湿原の方を見ると、縦の方向に連なって咲くコバイケイソウの姿が美しい。
月山神社の中之宮にあたる御田原神社が、八合目(弥陀が原)に鎮座している。
  

震災復興を願って、みちのくの春を行く!

2013年06月13日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月23日~24日
青葉城 → 陸奥国分寺跡 → 秋保温泉 → 多賀城跡 → 東北歴史博物館 → 塩竈神社
4月23日と24日の二日間、所属している史跡ガイドの会の研修旅行「震災復興を願って、みちのくの春を行く!」に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごす。

  
仙台城(青葉山に位置することから青葉城とも呼ばれる)は、初代仙台藩主伊達政宗が慶長15年(1610)に築城し、徳川家康の江戸城に次ぐ約2万坪の大きさを誇る。
伊達氏代々の居城を示す長い歴史が刻まれた石垣と、復元された大手門の脇櫓が往時の城を偲ばせている。
本丸跡には「伊達政宗騎馬像」があり、仙台の街を見下ろしているのが印象的だし、土井晩翠の「荒城の月」の作詩を記念する碑も置かれている。

  
陸奥国分寺跡史跡、仁王門、薬師寺
陸奥国分寺は聖武天皇の詔により、鎮護国家のため全国に建てられた国分寺の一つ。
借用させていただいた説明文によると、「・・・昭和30年からの5年問の発掘調査によって、一辺が242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明かになりました。
また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられています。
いったん荒廃しますが、その後に藤原秀衡が一部を修復、文治5年(1189)に源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失、そして伊達政宗が薬師堂を中心に大規模な造営を行い、現在に至っています・・・」とある。
聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された陸奥国分尼寺は、国分寺の東600mにあるが、市街化が著しく寺域や伽藍配置などは良くわかっていない。

 
金堂跡、七重塔跡
昭和39年に実施された発掘調査では、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂跡が発見されている。
金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。

  
松尾芭蕉句碑には、奥の細道に詠われた「あやめ草足に結ん草鞋の緒」が刻まれている。
何気なく置かれている石仏、その如意輪観音像の表情がなんとも美しい。
薬師堂の東側に隣接している白山神社は、天平13年に陸奥国分寺が創建されたとき、その鎮守として建てられたといわれてる。

 
奈良の平城宮跡、九州の太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられている多賀城跡を訪れる。
説明文には「・・・陸奥国府「多賀城」が大野東人によって創建されたのは神亀元年(724)で、奈良・平安時代は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、東北地方の行政・軍事・文化の中心地でした。
多賀城に赴任した官人には、日本初の産金を進め聖武天皇に献上した百済王敬福、万葉歌人であり多賀城で没したとされる大伴家持、征夷大将軍の坂上田村麻呂、平安の宮廷文学に名を残す藤原実方、能の「融」で知られる源融など、そうそうたる名前が見られます」とある。

  
訪れた時期は桜が満開の季節で、その美しさは例えようのないものだった。
史跡内には奈良時代に建てられた2mほどの石碑、多賀城碑「壷の碑(いしぶみ)」がある。
多賀城の創健や修造についても記されているこの碑は、栃木県の那須国造碑、群馬県の多胡碑と並ぶ三古碑の一つとされている。
松尾芭蕉も訪れたという壷の碑は歌枕であり、西行も歌を残している。
「陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑 外の浜風」(山家集 西行)

  
史跡多賀城跡に隣接する東北歴史博物館では、多賀城跡や多賀城廃寺跡の伽藍配置を示す展示パネルがとても分かりやすく勉強になる。

  
有名な鹽竃桜はまだだったが、境内を鮮やかに彩っている桜が素晴らしい鹽竈神社を訪れる。
多賀城の近くの千賀ノ浦(鹽鹽浦)と呼ばれた海が見渡せる山上にある鹽竈神社は、古くから東北鎮護・陸奥国一宮として存在し、その塩釜の地は陸奥国府の港、すなわち国府津としての機能を持っていた。
塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が主祭神であり、権力者に崇められた武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)も祀られている。
塩土老翁神は人々の生存に不可欠な塩の生産方法を初めて伝えた神とされており、神武天皇や山幸彦を導いたことから、交通安全の神ともされている。

沖縄・八重山諸島を巡る

2013年05月02日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 3月09日~12日
石垣島鍾乳洞 → 御神崎 → 川平湾 → 米原ヤエヤマヤシ群落 → 玉取岬展望台 → バンナ岳展望台 → 石垣やいま村 → 西表島・仲間川ジャングルクルーズ → 由布島 → 竹富島

珊瑚礁の美しい島、石垣島はもちろん星の砂で有名な竹富島など四つの島を巡る、沖縄・八重山諸島の旅に参加する。
最初に石垣島鍾乳洞を訪れる。
泊まったホテルのすぐ裏は海の水が透明で素晴らしい眺めを見せてくれる。


御神崎は荒々しい波が崖へ押し寄せ、思わず息を呑んでしまうような場所。
移動するバスから見える川平湾は幻想的な美しさをかもし出す。
 

天然記念物のヤエヤマヤシ群落を下から仰ぎ見る。
玉取岬展望台から、石垣島らしい海と珊瑚礁の美しいコラボレーションを眺める。
 

水牛車に乗って、竹富島の白砂の道をゆっくりと進む。
西表島と由布島の間の遠浅の海の風景が素晴らしい。
 

西表島から由布島までの遠浅の海を水牛車で渡る。
日本最大の面積を誇るという西表島・仲間川のマングローブ群落は有名。
 

仲間川のジャングルクルーズで、マングローブの林をじっくりと眺める。
 

身延山久遠寺、妙了寺、大法師公園の桜を巡る

2013年04月15日 | 歴史・旅(国内)
今年も春の桜を求めて(4月1日)、気楽な日帰りバスツアーで身延山久遠寺方面を訪れる。
日蓮聖人直弟子の日仏尼が開創した高峰山妙了寺、通称裏身延
  

日本のさくら100選にも選ばれた桜の名所、大法師公園
右側の写真、目を凝らしてよく見ると富士山の秀麗な姿を望むことができる。
 

日蓮宗総本山の身延山久遠寺、日本三大門の1つ三門(空・無相・無願の三つの門を経て覚りに至る)、五重塔、有名なしだれ桜だが少し時期が過ぎて柳の状態
  

安房の史跡を巡る

2013年03月01日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 2月19日~20日
走水神社 → ペリー上陸記念碑・ペリー記念館 → 菱川師宣記念館 → 源頼朝上陸地 → 崖観音 → 那古寺(那古観音) → 安房国分寺跡 → 館山城跡 → 館山市立博物館 → 安房神社(安房国一宮) → 鋸山・日本寺

このところの寒さを逃れて暖かい安房国へ行こうと計画した旅、初日は雪混じりの天気で久里浜からのフェリーは危うく欠航の憂き目に、金谷からの安房国は吹雪気味の悪天候という状態、しかし訪れた先の史跡は結構見ごたえのある中身の濃いものだった。
久里浜では、「・・・父景行天皇の命により日本武尊は東国の夷征伐に向かう。走水の海を上総の国へ向かって渡る折、大しけに遭い船が進むことができなくなる。そのとき海神の怒りを鎮めるために、后の弟橘媛命が自ら身を投じて荒波が鎮まった」という悲しい伝説が残されている走水神社へ向かう。
弟橘媛命が入水するときに詠った辞世の句、「さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」の碑が拝殿の後ろに置かれている。
  

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)ペリー提督は4隻の黒船をひきいて浦賀沖に来航する。
大統領の国書を日本に渡すことが目的で、7月14日久里浜海岸で歴史的な国書の受け渡しが行われている。
ペリー上陸記念碑は明治34年に米友協会により建てられたもので、伊藤博文の筆による「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」の文字が記されている。
  

「見返り美人図」の作者であり、浮世絵の祖でもある菱川師宣生誕の地、鋸南町にある菱川師宣記念館を訪れる。
すぐ先の源頼朝上陸地を訪れると、そこには立派な記念碑と丁寧な説明板が立てられている。
頼朝は治承4年(1180)に伊豆で平家打倒の兵を挙げたが石橋山の合戦で敗れ、真名鶴岬から小船で脱出し房総へと逃れる。
わずかな供を連れて鋸南町竜島に上陸すると、竜島の村人たちは頼朝を歓迎して、いろいろと世話を焼いたという。
少し先の山腹の断がい絶壁に建つ観音堂(崖観音)には、県内最古といわれる十一面観音の磨崖仏が祀られている。
  

創建は養老元年(717)という、坂東三十三番観音霊場の結願寺、那古寺を訪れる。
元正天皇の病気平癒のため、行基が海中より得た香木で千手観音菩薩像を刻み祈願したら、たちどころに病気が治り、その報謝で建てられたのが那古寺の始まりと言われている。
館山市にある安房国分寺跡を訪れる。
ここが今回の旅の一番の目的地だったのだが、現国分寺の境内の中に金堂跡とされる敷地と標識があるだけで、礎石も無く伽藍配置も分からないのが期待はずれというか残念なことだった。
通常国分寺跡は国指定史跡になるのだが、ここは県の指定史跡とされていたのも残念なことだった。
 

もうひとつの目的は10代170年にわたってこの地を支配した里見氏の歴史を知るということで、まずは館山城を訪れる。
行ってみると別名「八犬伝博物館」と言われるように、南総里見八犬伝に関する読本、絵草子、錦絵などが展示されている。
説明板にあった里見氏の歴史を要約すると「・・・里見氏は清和源氏新田氏の末流と言われ、新田義重の子義俊が、上野国里見郡で里見氏を称したのが始まりとされている。義俊の後裔家基は祖父の代から常陸国に移るが、結城合戦(1440~41)で討死する。嫡子の義実は逃れて三浦氏の援助を受け、房州白浜に上陸、4年後には安房国を平定、この義実が安房里見氏の祖とされている。
以後里見氏は、6代義堯(よしたか)の頃には、上総・下総方面に進出して57万石を領し、隆盛を誇るが、その後北条氏との戦いで国府台という所で敗れてしまう。9代義康が館山城を築いたのは、強敵の攻めに備えるためだったが、城が完成した年に豊臣秀吉の小田原攻めがあり、義康が秀吉の軍陣に遅参した咎で領国を安房一国(9万石)に削られ、徳川家康の支配下に置かれてしまう。のちに大久保忠隣一族失脚事件に連座し、忠義は伯耆の倉吉に移封され、正嗣が無かったため断絶する。「南総里見八犬伝」は、この悲劇の里見氏にまつわる物語を、歴史小説として江戸時代の文豪、曲亭馬琴が28年かかって書き上げた大作とされる」
 

全国に97ある一宮巡りを目指しているが、これでやっと14社目となる一宮安房神社を訪れる。
天太玉命を祭神としおり、忌部一族による安房開拓神話に登場する安房忌部氏の祖天富命が、その祖神を祀ったものとされる。
平安時代の「延喜式」には「安房坐(アワニマス)神社」と記される式内社で、すでに大同元年(806)には100戸の封戸を有したという古い神社である。
鋸山の山麓にある日本寺は、約1300年前に聖武天皇の勅詔を受けて、行基によって開かれたという関東最古の勅願所とされる。
高さが31.05mあり、東大寺の大仏の1.7倍という日本最大の大仏(磨崖仏)がやはり一番の見もの。
 

階段の昇り降りがきついが、千五百羅漢像、百尺観音像、頂上までいくと地獄のぞきなど見るべきものも多い。
  

 

伊豆の史跡を巡る

2013年01月28日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 1月6~7日
元箱根石仏群 → 伊豆国分寺跡 → 蛭ヶ小島 → 願成就院 → 史跡韮山反射炉 → 修善寺 → 修善寺郷土資料館 → 城ヶ崎海岸 → 蓮着寺 → 多賀神社 → 来宮神社 → 伊豆山神社

久しぶりに、正月は家族水入らずで過ごそうと、伊豆へ向かう。
雪の精進池から芦之湯へ向かう国道1号沿いには、鎌倉時代に造られた地蔵信仰の名残という石仏群が点在する。
高さ3mの磨崖仏六道地蔵、そして酒天童子退治で有名な源頼光の父という多田満仲の墓(宝篋印塔)が印象深い。
  

巨大な岩に彫られた磨崖仏(二十五菩薩像)や曽我兄弟・虎御前の墓(五輪塔)などもある。
三嶋大社による予定だったが、たくさんの参拝者で駐車場も満杯の状態で、急遽すぐ近くにある現国分寺境内にある伊豆国分寺跡を訪れる。
残念ながら七重塔跡だけで、基壇と8個の礎石が残されているのみという寂しい状態ではあった。
  

頼朝は平治の乱に敗れた源義朝の嫡子として、平清盛に殺されるところだったが、義母の池禅尼のとりなしで伊豆国への配流で済んだ。
頼朝が流された蛭ヶ小島は、海の中の孤島かと思っていたら伊豆の韮山盆地の中で、古くは狩野川の中洲であった事から蛭ヶ島と呼ばれていたという。
北条氏の氏寺、そして時政の墓がある願成就院を訪れる。
北条時政は、三代将軍源実朝を暗殺して平賀朝雅を将軍に据えようと企てたので、嫡子義時や娘の政子によって出家させられ、伊豆国に追放となっている。
史跡韮山反射炉は、幕末期の代官・江川英龍が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させている。
反射炉とは金属を溶かし大砲を鋳造する炉のことで、稼働した反射炉が現存するのはここだけだという。
   

修禅寺は「修善寺」という地名のもととなった寺だが、源頼朝の弟範頼と2代将軍源頼家が幽閉され、殺害された寺としても知られている。
頼家の冥福を祈るために、母の北条政子が建てたという指月殿の横に源頼家の墓が置かれている。
城ヶ崎海岸から眺める大島と利島は、大きくて近くに見えてつい行ってみたいという気持ちになる。
きっと、大昔の人はこういうふうに島を見ると、早速舟を仕立てて櫓を漕ぎ出したのではと思う。
  

帰りがけに寄った来宮神社は、大きな国天然記念物の大楠があることで知られている。
確かに大きく、推定樹齢2000年以上、樹高約20m、幹周り約24mで、これを1周すると寿命が1年延びるとか、願い事が叶うなどと信仰されているのが面白い。
縁結びで有名な伊豆山神社を訪れたが、頼朝と政子の出会いについて次のような話がある。
「・・流人だった頼朝は伊豆山権現の住僧覚渕に学び、やがて北条政子と劇的な出会いを果たします。治承2年の夏、北条政子は親の定めた山木兼隆との縁談を嫌い、婚礼の夜、宴席を抜け出し約七里の道のりを超え、かねて想いを寄せていた伊豆山の頼朝の元へと向かいます。頼朝は政子を逢初橋の上で出迎えたと言います・・」。
   

 

みすずかる信濃の国を行く~春の花に囲まれて

2012年05月20日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:4月17日~4月18日 コース満足度★★★★★
信濃国分寺跡 → 上田城址公園 → 安楽寺 → 常楽寺 → 大法寺 → 北向観音堂 → 塩野神社 → 中禅寺 → 前山寺 → 塩田城址の碑 → 龍光院 → 旧開智学校 → 松本城
4月17日と18日の二日間、待ちに待った「みすずかる信濃の国を行く」と題した、所属している「史跡ボランティアの会」の研修旅行に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごしました。
「信州の鎌倉」とも呼ばれる塩田平にはたくさんの古いお寺が残っていて、そこにある貴重なお堂や塔は、訪れる者にいにしえの文化の面影をしっかりと伝えてくれました。

天平13年(741)、聖武天皇の勅願により全国に造られた国分寺の1つ、信濃国分寺跡を訪れる。
この国分寺は東大寺式伽藍配置と呼ばれるもので、約177m四方の境内には南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門と講堂を回廊でつなげ、講堂の東南に塔、東側に僧房を配置している。
残念ながら、天慶2年(939)の平将門の乱で一帯は将門と従弟だった平貞盛との戦場となり、堂宇の多くは兵火により焼失してしまったという。
資料館には、信濃国分寺跡発掘調査で見つかった八葉複弁蓮花文鐙瓦、均正唐草文字瓦などが展示されている。
 

静かなたたずまいの信濃国分寺を訪れると、まずは立派な造りの三重塔が最初に目に入る。
全国に建立された国分寺は60以上にのぼるが、現在、塔が残っているのは5ヶ所(備中・豊前・飛騨・越後・信濃)にすぎない。
かなりあったと言われる七重塔は皆無で、残された五重塔、三重塔の中でもここの塔が一番古いとされている。
また、関ヶ原の戦いの時に徳川秀忠と真田昌幸がこの寺で講和したこともよく知られている。
上田城址公園の桜が美しい。
上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸が築いた城で、彼はその堅牢な城の造りを背景にして、巧みな戦略を用いて徳川の大軍を2度も退けている。
現在の城郭は真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政によって、江戸時代初期に復興されたもの。
  

次に訪れた安楽寺は、天長年間(824~834)に円仁和尚(諡は慈覚大師)が創建し、鎌倉時代に樵谷惟仙(しょうこくいせん)が中興した天台宗の禅寺。
この寺の背後にある国宝の八角三重塔は日本に残るただ一つの八角の塔で、鎌倉末期に塩田北条氏によって建立されたもの。
中国から伝わった日本国最古の禅宗様建築で、塔を外側から一見すると四重に見えるが、一番下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるひさしのようなものだという。
和尚さんがわざわざ来てくれて、塔の内部に安置されている大日如来坐像を見せてくれたのが嬉しい。
  

茅葺きの屋根が美しい常楽寺も円仁和尚が創建した天台宗の古刹で、有名な北向観音を守る寺にもなっている。
本堂背後にある高さ281cmの石造多宝塔がある辺りに、その昔、大きな火柱とともに本尊の観音様が現れた、という言い伝えがある。
その多宝塔の軸石四面に刻まれた銘文には、弘長2年(1262)に塔を建立し、一切経を納めたとある。 
 

常楽寺の裏側にある石造多宝塔を見に行く途中、水芭蕉の群生が、清楚な姿で訪問客に春の訪れを告げているのに気付き、思わず写真を撮る。
大法寺の創建は、大宝元年(701)に文武天皇の勅願により藤原鎌足の長子・定恵が開山し大宝寺と称したのが始まりと伝えられている。
大法寺の三重塔は鎌倉幕府滅亡の年(1333)に建立されたもので、その優美な佇まいに思わず振り返るほど美しいことから"見返りの塔"の異名を持っている。
この麓を近江国・瀬田から陸奥国・多賀城まで続く東山道が通っており、大法寺は浦野駅(うらのうまや)の駅寺だったので、ここにこのような壮麗な塔が建ったと言われている。
 

今に伝えられている北向観音堂の観音堂伝説をひもとくと、「・・・天長2年(825)に、常楽寺の丘陵の一角で、毎夜、光明が射し、地鳴りを伴いました。朝廷はこのことを聞いて驚き、天台座主の円仁を派遣します。円仁が現地でお経を営んでいると、空中から”自分は観音である、わが像を刻み北向きに安置せよ”と言うお告げが聞こえます。円仁はこの像を刻んで、言われる通りに北向きにし、観音堂に祀ります。境内に愛染桂の大木がありますが、この異変のときに観世音菩薩が愛染桂に登り住民達を救ったとの話も残っています・・・」とある。
南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」あるいは「裏善光寺」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し、北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。
  

塩野神社は、かつては独鈷山(とっこざん)の山頂近くの鷲岩という大きな岩に祀られていたが、今は北の山麓の大きな深い森につつまれている。
神社の前には太鼓橋がかかっており、その下には独鈷山の湧き水が滝となって流れ、それが本流の産川と合流して塩田平を潤している。
深遠な雰囲気で、思わず身の引き締まる思いがする。
 

独鈷山の麓にある中禅寺は空海によって開山されたと云われており、この辺では最も古いお寺とされている。
茅葺き屋根の中禅寺薬師堂は鎌倉時代初期に建てられた美しいお堂で、中には国重文の木造薬師如来座像が置かれている。
ここでも和尚さんが来て、薬師堂のことやこの像についての詳しい話を聞かせてくれたのは嬉しかった。
前山寺も弘法大師が修行霊場として開いた寺で、ここにある三重塔は縁や手摺りなどがついていないが、その姿がすっきりとして美しいことから「未完成の完成塔」と呼ばれている。
  

前山寺から塩田城跡まで続く道は「あじさいの道」とも呼ばれていて、季節にはおよそ25000株のガクアジサイが美しい姿を見せてくれるという。
この道から眺める景色は、日本文化のふるさとは大和だと確信させてくれる飛鳥の「山の辺の道」を思い起こさせる。
塩田城址の碑を読むと、「・・・塩田城は北条重時(第二代執権北条義時の第三子)の子、義政が信濃の居館としたのが始まりで、義政、国時、俊時と続く北条氏三代の城だったところ」とある。
義政は蒙古来襲の際には執権の時宗と共に対応していたが、2回目の蒙古襲来を前になぜか出家してこの塩田の地に移っている。
その理由は未だによく分かっていないが、義政公の墓の文字が意図的に完全に削られているのが、その訳を解く鍵になるのかもしれない。
  

日本で最も古い小学校のひとつと云われる旧開智学校を訪れる。
開智という校名が気になったが、『学制序文』の「人々…其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学二アラサレハ能ハス」から命名されたという。
国宝松本城の成り立ちはかなり複雑だが、気になるので整理すると、「・・・もともとは小笠原氏の城だったが、武田信玄の信濃攻略後は馬場信房が城代となり、武田氏が滅ぼされると小笠原貞慶が城主に復活(城名を松本城と改める)、家康の関東移封後は石川数正が城主となり、城下町(現在の松本市)も整備した」となる。
「みすずかる信濃の国」の早春、そして歴史を満喫できた素晴らしい旅に感謝しつつ、相模の国へと向かうバスに乗り込む。
 
平城遷都1300年-春の大和路を行く
上総・下総の史跡を巡る旅
「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)