クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

横浜、三渓園の紅葉

2011年12月30日 | 
コース満足度★★★★
暮れも押し迫ってきた12月11日、「今年の紅葉の見納めに」と、友人と一緒に見所満載の横浜・三渓園を訪れる。

三渓園は、明治時代末から大正時代にかけて製紙・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名富太郎)が造り上げた広大な日本庭園で国の名勝に指定されている。
三渓園に入るとすぐに目の前に現れる大池の眺め、広々とした景観が訪れる者の心を和やかにしてくれる。
三渓記念館入口前の紅葉の色合いが素晴らしく、たくさんの人達が盛んにカメラのシャッターを切っている。
 

説明書を読むと、「東の桂離宮と称される臨春閣は、紀州徳川家の初代頼宣が慶安2年(1649)に紀の川沿いに造らせた大名別荘建築」、「旧天瑞寺寿塔覆堂は、豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納めるための建築」とある。
 

月華殿は、慶長9年(1604)に京都伏見城内に建てられたもので、諸国大名の伺候の際の控え室であったと云われている。
寒空の下、澄んだ空気のせいか、三渓園の中で一番高いところにある松風閣から見る富士山の眺めが素晴らしい。
三重塔へ向かう路傍の石仏が、そばを通る人々を穏やかな表情で迎えてくれる。
  

白川郷から移築された合掌造りの旧矢埜原家住宅は、飛騨三長者の一人である矢埜原佐助の住まいだったという。
旧燈明寺本堂の奥には薬師如来坐像が祀られている。
三渓園の出口へ向かう道の途中で振り返ると、小高い丘の上に建つ旧燈明寺三重塔が美しい姿で見送ってくれている。
  
 

京都の紅葉10の寺を訪ねる

2011年12月24日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 11月21日~23日
醍醐寺 → 清水寺 → 三千院 → 曼殊院 → 詩仙堂 → 真如堂 → 金戒光明寺 → 常寂光寺 → 大覚寺 → 光明寺

最初に訪れた醍醐寺は、豊臣秀吉が秀頼、北政所、淀君などを従えて、花見の宴を催したことでよく知られているところ。
三宝院の表書院前の庭園の紅葉を眺めてから、下醍醐にある五重塔を見やり、弁天堂へと向かう。
池に反映する紅葉の見事な眺めが素晴らしい。
  

清水寺は「清水の舞台」で有名な本堂と、寺名の由来となった「音羽の滝」をまず訪れる。
門前の通りは観光客が一杯、そんな中を歩きながら清水焼の陶磁器や京漬け物などを物色する。
 

「京都大原・・・」の歌詞で始まる三千院は、相変わらず大勢の観光客で賑わっている。
苔むした庭や池にに映える紅葉の色合いが素晴らしい。
 

三千院の境内中心にある往生極楽院の本尊、阿弥陀仏と大和座りをした珍しい脇仏に目を見やる。
後にした院を眺めると、周りの紅葉とじっと佇む慈愛に満ちた石仏が調和した美しい構図を描いている。
 

門跡寺院とは皇族や貴族の師弟が出家して住職となる格式の高い寺のことを指している。
曼殊院門跡は、参道の紅葉や白壁の下に広がる青い苔の上に降り積もる落ち葉が印象に残るところ。
枯山水の庭には、鶴島と亀島が白妙に浮かんでいる。
 

曼殊院の中には、国宝不動明王像「黄不動」図、家康直筆の書状、祟るかもしれないので写真を撮らないでくださいと添え書きがあったのについ撮ってしまった「幽霊の掛け軸」など見がいのある展示がたくさんある。
  

詩仙堂は石川丈山という三河国生まれの徳川家の武将が、鎧を脱いで隠遁生活を送るために建てたもので、それにまつわる面白い話がある。
「・・・丈山は慶長19年(1615)大阪夏の陣で先陣を切って敵方へ突入し、敵将佐々十左衛門の首を討ちとった。しかし、徳川家康に軍紀を破って突入したと咎め(とがめ)をうけ、妙心寺へ蟄居(ちつきょ)させられてしまう。丈山は“もう戦うまい”と徳川家を離れ出家し、儒教や中国の書道を学ぶなどした」という。
そんな詩仙堂の庭は枯れた感じがして、丈山の隠遁生活を十分に偲ばせる佇まいを漂わせている。
 

真如堂では紅葉に映える三重塔、父の斉藤利三の菩提を弔うために植えらた春日局お手植えの「たてかわ桜」、それとここに弔われている斎藤利三の墓など見るべきものが多い。
  

金戒光明寺は、幕末の治安を司どるために14代将軍徳川家茂から命を受けた会津藩主松平容保が、本陣として京都守護職を置いたところとして知られている。
まずは新撰組隊長近藤勇と容保公との謁見の間を見る。
この寺に350名ほどの会津藩士が眠る「会津藩士の墓」があることを初めて知って、山上の墓地まで駆け上がって供養の祈りを献げる。
 

常寂光寺は、藤原忠平が「小倉山 峰のもみぢば 心あらば 今ひとたびの みゆきまたなむ」と歌に詠んだ小倉山がある嵐山・嵯峨野の小さな山寺。
門から本堂へと続く石段途中の仁王門付近の紅葉のトンネルや、多宝塔の後方眺めるもみじの色合いが素晴らしく、今回訪れた寺の中では、一二の紅葉の素晴らしさを誇っている。
 

大覚寺は、嵯峨天皇の離宮を寺とした後、鎌倉時代には亀山天皇や後宇多天皇がここで院政を行い嵯峨御所と呼ばれたという格式の高い寺。
書院造の寝殿の襖絵や屏風絵、それと日本三大名月鑑賞地として知られる大沢池などが見所として知られている。
 

光明寺は法然の眠る寺として有名だが、2009年秋のJR東海「そうだ京都へ行こう」で有名になった紅葉の素晴らしさでも知られている。
参道の紅葉のトンネルなど、もみじの色そのものがこの寺に育った紅葉の木の独特の色なのか興味を惹かれる。
 

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州> (後編)

2011年12月13日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月26日~11月2日
景福宮 → 昌徳宮 → 昌慶宮 → 大長今テーマパーク → 東九陵 → 鳳停寺 → 屛山書院 → 安東河回村 → 国立慶州博物館 → 聖徳大王神鐘 → 半月城・石氷庫 → 瞻星台 → 臨海殿跡(雁鴨池)→ 皇龍寺址 → 芬皇寺址 → 鶏林 → 大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など> → 五陵 → 武烈王陵 → 金庾信将軍墓 → 羅井 → 鮑石亭跡 → 南山<拝里三陵・三陵渓谷仏像群> → 水原華城<華城行宮・訪花隋随柳亭など> → 韓国民俗村 一 ソウル国立中央博物館 → 南山コル韓屋村 → コリアハウス

慶州は新羅千年の都と呼ばれる所だけあって、街中や郊外の見所を回るだけでも最低一週間は欲しい。
今回はぎりぎりの3日間という日程だったが、自転車を借りて目一杯に慶州を駆けることにする。
慶州の遺跡に後ろ髪を引かれる思いで、再びソウルを目指して新幹線に乗る。

まず最初に訪れた国立慶州博物館が無料で開放されているのに驚く。
慶州周辺で発見された先史時代から三国時代までの遺物、それと新羅の古墳からの出土品を展示する考古館が一番の目玉。
何百あるのか分からないという新羅の古墳では、必ず金製の冠、耳飾り、腕輪、帯飾り、沓がさん然と光を放ったまま発見されるのだいう。
博物館の一室に、これでもかこれでもかと言わんばかりに数多く展示されているのには驚かされる。


鶏林路から見つかった宝剣は、トルコ石などの玉を嵌め込んで、金の粒を貼り付けたもので、アジアのずっと西の方から入ってきている。
韓国最大の聖徳大王神鐘には、「・・・仏国寺の建立で知られる第35代景徳王が父である聖徳王の冥福を祈るため鋳造に着手したもの、鐘を鋳造するする時に女の子を人柱として溶けた銅の中に投げ込み、完成後に鐘を突いたところ「エミレ(お母さん)と聞こえた」という伝説が残されている。
宮殿だったという半月城の入口を見渡したが、昔の面影がほとんど感じられないのは残念。
説明書には、「・・・半月のような形に丘を削り、所々に土石を混ぜて築かれた城で、歴史書「三国史記」には朴赫居世21年には金城の東南に城を造り、月城と呼んだ。その長さは1023歩もあった」と書かれている。
 

石氷庫は朝鮮王朝時代に建てられた氷の貯蔵石室で、外形は古墳と同じだが、中がアーチ型の石組みで作られており、氷が長く残せるように工夫されている。
ユニークな形の瞻星台は、第27代善徳女王(632~647)の時に造られた天文観測施設で、一説では東洋で最も古い天文台と言われている。
 

臨海殿跡(雁鴨池)は統一新羅時代の離宮で、文武王14年(674)がそこに庭園を築造したもの。
池の名前は月池だったが、朝鮮王朝時代に廃墟となったここに雁や鴨が飛来して雁鴨池と呼ばれるようになったという。
国立慶州博物館の西にある雁鴨池館には、ここで発見された素晴らしい遺物の数々と臨海殿(雁鴨池)の模様が見事なレプリカで展示されている。
 

皇龍寺は新羅第24代真興王が553年に着工し、4代王、93年という長い歳月かけて造立した大伽藍だったが、蒙古の侵略によって消失してしまう。
礎石と金堂跡、九重塔跡、講堂跡、中門跡しか残っていないが、当時は2万坪の東洋最大の寺だったという。
レプリカにある九重塔を見るだけでも、この伽藍が巨大だったことが良く分かる。
皇龍寺址を見渡した時に感じる礎石と基壇のみが物語る昔の面影は、聖武天皇が創建の詔を発した全国の国分寺跡を思い浮かべるイメージと重なる。
 

百済の技術者の阿非知(アビジ)が建造した九重塔と、高さ一丈六尺の金堂丈六像がモンゴルの乱で消滅したのは、悔やんでも悔やみきれないものがある。
今は巨大な礎石を眺めて、金堂跡丈六像の台座(写真右)は大きいとか、心礎はどの石だとか、柱の穴がどうのこうのと呟くばかり。
 

芬皇寺は新羅27代善徳女王が634年に建立し、有名な高僧の元暁と慈藏が住んでいた寺で、境内にある国宝の模塼塔石塔<煉瓦の塔を模倣した石塔>は新羅時代の最初の石塔と言われている。
モンゴルの侵攻や文禄・慶長の役で遺物はあらかた破壊されてしまい、石塔も今は三層しか残っていないが、元は九層の塔だったと推測されている。
写真を撮り忘れてしまったが、門柱に彫刻されている金剛力士像は最高傑作と評価されている。
鶏林の地には次のような慶州金氏の始祖伝説があり、「・・・新羅4代脱解王の時に、瓠公がこの林の中で鶏の鳴き声を耳にしたので、近寄ってみると木の枝に金の装飾がほどこされた櫃が光を放っていました。このことを聞いた王は自ら林へ行き櫃の蓋を開けると中から男の子が出てきたので、この子を金閼智、この林を鶏林と呼ぶようになりました。鶏林は新羅の国号としても使われました」と云う。


大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など>は慶州に点在する古墳群では最も規模が大きい古墳群で、23基の王陵が集まっている。
「三国史記」に、「・・・第13代味鄒王は民に対する思い遣りが深く、五人の使いを各地に派遣して民情を聴取させた。大陵に葬られた」という記録があり、そこから大陵苑という名称が由来したという。
被葬者は不明だが、内部構造と代表的な出土品が公開されている天馬塚は必見の価値がある。
  
 

新羅の古墳の構造は、木室に被葬者の入った木の棺を納め、木室を頭ほどの石を積んで包み込み保護する形だった。
さらに積み石の上には高大な盛土で被っていたので、木が腐ると上の積み石と盛り土が落ちて墓室内のものはぺちゃんこに潰されてしまう。
落ち込んだ石や土を完全に取り除かない限り床に到着できないので、主体部が盗掘される心配はほとんどないという。
見事な金冠が盗掘されずによくも残っていたという理由が、この話を聞くと良く分かる。
白樺の樹皮に天翔ける白馬が描かれた、見事な障泥<馬蹄から飛び散る泥を防ぐ用具>が出土されたことから、この古墳を天馬塚と呼んでいる。


五陵へ向かう途中、寺を見つけたので入ってみると可愛い犬が迎えに出てくれた。
知られていない寺だったが、境内や拝殿には大小の仏像が沢山並んでいるのには驚いた。
寺を出る時も、先ほどの犬が寄ってきて健気に見送りしてくれたのは、とても嬉しいことだった。
五陵の前にある寺の門塀に人面文軒丸瓦の絵が描かれているので、善徳女王の635年に創建された霊廟寺址はここなのかと思ったが、訪問客もないし観光化されていないので本当のところはよく判らない。
何度眺めても素晴らしい人面文軒丸瓦について、慶州国立博物館のガイドブックには「軒丸瓦には蓮華紋が一般的だが、人の顔は非常に珍しく、自然な微笑を浮かべる新羅女性の姿が感じられる名品である」と書いてある。


五陵は新羅の始祖の朴赫居世王、第2代南解王、第3代儒理王、第5代婆娑王の四王と朴赫居世王の王妃である閼英を祀った陵のこと。
ここには五陵と閼英にまつわる二つの伝説がある。「・・・初代の赫居世王は61年間国を治めた後、71歳で天へ帰ります。ところが、王の死後7日がたつと、王の遺骸は5つに分かれて再び天から落ちてきます。このとき王妃も一緒に亡くなったといいます。国民は嘆き悲しみ、王の遺骸をひとつに集め埋葬しようとしたが、このとき大蛇が出てきて邪魔をします。国民たちはやむをえず5体を分散して葬ることにし、こうして出来たのが五陵です。・・・閼英井は新羅始祖王の王妃、閼英夫人の生まれた所です。紀元前69年、或る老嫗が井戸に水汲みに来て見ると、井戸端に大きな龍があるのを見て驚きましたが、その龍の傍に女の子が生まれているのを見つけ、抱き帰って育てたのが後に始祖王の王妃になった」と云う。


新羅の王は三国時代で29人、統一新羅時代で27人いるが、間違いなくどの王の墓だとわかるのは、武烈王陵のみだという。
王陵の前にある亀形をした石碑の台座・亀趺(きふ)は新羅石造美術の傑作とされているが、こ亀趺の上に6匹の龍を彫った碑首が乗り、その上に碑の本体が備えられている。
碑首に「太宗武烈大王之碑」という文字が刻まれていたため、この古墳が武烈王のものであると判明する。
韓国歴史ドラマ「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」に、金庾信と金春秋(後の武烈王)との面白いシーンが出てくる。
「・・・庾信は自宅の前で蹴鞠をしていた時、わざと春秋公の裙を踏みつけてその襟紐を裂いてしまう。庾信は姉の阿海に針で縫うように命じるが、阿海はこんな些細な事で輕々しく春秋公に近づけませんと辞退する。そこで庾信は妹の阿之に命じる。春秋は庾信の意を知って阿之とつき合うようになり、それからしばしば訪ねるようになる。庾信は阿之が身ごもったことを知って、父母に告げずに身ごもるとは何事かと叱りつけ、国中に妹を焚き殺すという噂を広める。善女王が南山に遊幸する日に、庾信は庭中に薪を積み上げ、火を焚いて煙を起てたので、遠くから眺めた女王はそれは何の煙かと問う。庾信が夫が無いのに身ごもった妹を焚こうとする煙でしょうと告げられた女王は、それは春秋公の所為なのだろうと声を荒立てる。王の間近に侍っていた春秋は顏の色が大変する。女王の速く行って救いなさいとの命を受けた春秋は、馬で庾信宅に駆けつけ殺さないでくれと伝え、その後すぐに妹と婚禮をあげる」。


新羅の英雄である金庾信将軍は、金官伽耶国の金首露王の12世孫で、15歳で花郎になってから断石山に入って学問と武芸を修練し、後に将軍として新羅の三国統一を成し遂げる主役となった人。
新羅の王陵や古墳の塚の周りには、十二支神像の板石を方角に合わせて配列しているものがある。
十二支の中の午は南の方角<墓の正面>にあり、裏側の北は子になっている。
金庾信将軍の墓を訪れた後、慶州市を流れる川に沿って造られた気持ちの良いサイクリング・ロードを通って一路ホテルへと向かう。


羅井(ナジョン)は、「三国遺事」に遺された新羅の始祖赫居世にまつわる建国神話がある場所で、見渡すと確かにそんな雰囲気を感じさせるから面白い。
建国神話には、「・・・蘿井の林で馬が跪いて嘶いているので、村の長がその場所に行くと馬が消えて後には大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。その子は人となりが優れていたので、6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であった」とある。
鮑石亭跡は新羅で一番美しい離宮とされ、石の溝に水を流し、盃を浮かべて詩を吟じる「流觴曲水宴(りゅうしょうきょくすいえん)」が開かれた所。
927年、55代景哀王がここでの宴会中に後百済の始祖甄萱(キョンフォン)に攻め殺され、その後新羅が滅亡に向かうきっかけとなった場所としても知られている。


「新羅千年の歴史は南山から始まって南山で終わりを告げた」と言われる南山は新羅の始祖朴赫居世が生まれた羅井と国の終焉を象徴的に見せてくれた鮑石亭が存在する所。
山登りは久しいが、<拝里三陵・三陵渓谷仏像群>と呼ばれる人気コースに挑戦する。
登ってすぐに見える拝里三陵には、手前から第8代阿達羅王陵、第53代神徳王陵、第54代景明王陵の三つの墓が並んでいる。
磨崖釈迦如来坐像は座仏の中で最も大きいとされるもので、胴体に近づくにつれ線刻で単純化して、まわりの岩の山と調和をなすようにしている。


線刻六尊と呼ばれる線を刻んで像を描いたものだが、写真だと立体感が見えにくく、単に岩の凸凹のように見えてしまうのが残念。
石仏坐像は、蓮華台に刻まれている蓮の花と眼象、そして全体的に落ち着いた堂々とした仏像の姿から見ると統一新羅時代8、9世紀の作品であると推定されている。


ソウルに戻ってから最初に訪れたのは、郊外にある水原華城で、500年の朝鮮王朝史上で最も波乱万丈の生涯を送った第22代正祖によって造られ、遷都も考えられていたが死んだため夢が叶わなかったという城。
全長5.7キロの万里の長城のような城郭と、その要所々々に門、砲台、櫓、軍事指揮所、訓練所などを東西南北に整然と組み込んだ素晴らしい建造物とされている。
華城行宮は王の別邸で、韓国の行宮の中でも最も規模が大きく美しいと言われている。
親孝行だった正祖が父親のお墓参りをした後、帰りに寄って休んだり、また母親の獻敬王后の宴を行った所でもあるという。
 

行宮の一角に米櫃が置かれていたが、ドラマ「イ・サン」で、サンの父親の思悼世子が謀反の罪を受け、祖父の英祖王によってによって米櫃に入れられ餓死させられるというシーンを思い出す。
「チャングムの誓い」の一部はこの行宮で撮影されたらしく、徐長今(ソ・ジャングム)がドラマの展開に合わせて着ていた衣装とその時の写真が展示されている。
 

美しい楼閣、訪花随柳亭は見張り台や兵士の休憩場所として使用されていたそうだが、今の時代、そこから眺める水原華城の城壁は流麗な曲線を描いて続いていて、芸術的な観点から観る者の目を離さない。
 

韓国の民族や文化を総合的に知るには、韓国民俗村を訪れるのが一番良いと思う。
22万坪の広大な敷地に、朝鮮時代後期の各地方に特有の家屋168棟を移築・復元している。
どういう意味なのかよく分からないが、黄色、赤色、白色の布が木に吊るされているのは、朝鮮独特の村の風景なのだと思う。
民族館では、朝鮮時代後期の歳時風俗、冠婚葬祭、民間信仰などを、季節の移り変わりに沿って分かりやすく展示しており、キムチを漬ける様子なども人形でリアルに再現していて面白い。


立派な展示物が多数あるソウル国立中央博物館も無料開放なのに再び驚く。
細かな彫刻が施された敬天寺十層石塔は高麗末に元の影響を受けて造られた独特の形をした塔だが、高すぎて展示室に入いらないせいかその間の通路に置かれている。
三国時代の国宝の半跏思惟像は、片方の足をもう一方の足の上にのせ、指を頬にあてて思いにふける姿の菩薩像で、韓国では一般に弥勒菩薩と見なされている。
その魅惑的な姿に誘われて、ショップ・ギャラリーで早速ポスターを購入する。


高句麗の7世紀前半の古墳、江西大墓玄室に描かれた四神図(朱雀・青龍・白虎・玄武)はあまりにも有名だが、嬉しいことに展示室にその模写が大きく展示されている。
載せたのは、何とかぶれないで撮れた南壁の朱雀の写真で、その迫力があるというか幻想的な姿には本当に息をのまされてしまう。
新羅という国名は、「三国史記」の第22代智證麻立干の四年の記述に、「新は徳業日に新たなり、羅は四方を網羅するの義、すなわちそれ国号をなす」とあり、ここから来ている。


南山コル韓屋村は、李氏朝鮮時代に詩人や墨客が多く住んでいた南山の北麓に、ソウルのあちこちにあった両班の屋敷や一般市民の伝統的な家屋など5棟を、移築し復元して造った場所。
日本では気恥しいせいかそういう習慣は無いが、韓国では結婚式を挙げるカップルは、王宮はもちろん、このような伝統的な家屋などを背景にして写真を撮り、式後に部屋に飾って愛の証を示すのが習慣なのだという。

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州>(前編)
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

韓国8日間~史跡めぐりの旅<ソウル・安東・慶州> (前編)

2011年12月07日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月26日~11月2日
景福宮 → 昌徳宮 → 昌慶宮 → 大長今テーマパーク → 東九陵 → 鳳停寺 → 屛山書院 → 安東河回村 → 国立慶州博物館 → 聖徳大王神鐘 → 半月城・石氷庫 → 瞻星台 → 臨海殿跡(雁鴨池)→ 皇龍寺址 → 芬皇寺址 → 鶏林 → 大陵苑<天馬塚・皇南大塚・味鄒王陵など> → 五陵 → 武烈王陵 → 金庾信将軍墓 → 羅井 → 鮑石亭跡 → 南山<拝里三陵・三陵渓谷仏像群> → 水原華城<華城行宮・訪花隋随柳亭など> → 韓国民俗村 一 ソウル国立中央博物館 → 南山コル韓屋村 → コリアハウス

日本の歴史とも繋がりがある韓国の歴史の舞台や史跡を訪れようと、行き先だけは目一杯にという気持ちで計画を立てる。
言葉も十分に分かっていないのに、とにかく当たって砕けろ、行けば何とかなるという気持ちが優先、旅の心配よりもとにかく行ってみたい、そんな気持ちで慌ただしく羽田を旅立った。

ソウルに着いたら、第一に朝鮮王朝の王宮に行こうと思っていたので、まずは太祖・李成桂(イ・ソンゲ)が1395年に建立した宮殿・景福宮へと向かう。
ちょうど着くと一日に3回行われてるという王宮守門将の交代式が行われているのに遭遇、テレビでよく見る歴史ドラマの1シーンを思い出す。
景福宮の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての民が太平の御代の幸せを得ることを願う、という意味らしい。
建物の中で最も大きな勤政殿は景福宮の正殿で、王が臣下の朝礼を受けたりまた外国の使臣との接見などが行われたところ。
景福宮が最も活気に溢れ、幸せだった時代は、ハングルを領布した第4代世宗の頃と言われている。
 

景福宮が建てられた場所は「風水説」に基づいて選ばれているということで、その意味を見てみると「山を背にし、川を前に抱いて、風を塞ぎ水を得るような地に王都を築けば国運が長く続くとされる」とある。
たしかに、北岳山を背にしており、建物の正面は南に向き、漢江の流れを臨む場所に建っている。


王から愛されたという昌徳宮は1405年に建てられ、景福宮が正宮とすれば東側に位置する離宮にあたる。
景福宮が焼失後、再建されるまで歴代の王は正殿の仁政殿で執務をとったという。
東側敷地には楽善斎という建物があるが、日本の梨本宮家から嫁いで最後の皇太子英親王の妃となった方子が、晩年暮らした所として知られている。
 

昌慶宮は第4代世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身で、一時荒廃したが、第9代成宗が先王の大妃であった3人の王后のために宮殿を建て、それ以来この名称で呼ばれるようになったという。
生い茂った森を背景にした秋の春塘池の眺めは、風情があって素晴らしい。
 
 
「大長今テーマパーク」とは、京畿道揚州市にあるMBC文化庭園内に建てられた大長今<チャングムの誓い>オープンセットのこと。
出身の長今が御医まで上り詰めるという、実在人物の一代記の物語だが、ドラマの中に出てくる宮中の料理、衣装、医術、遊びなどが興味深く描かれている。
入口の脇には、徐長今(ソ・ジャングム)<イ・ヨンエ>と彼女を支える閔政治(ミン・ジョンホ)<チ・ジニ>の大きなパネルが置かれている。
彼女の親友で助けともなる李連生(イ・ヨンセン)<パク・ウネ>の可愛らしいパネルを見ると、ドラマでの健気なシーンを思い出す。
 

義禁府の獄舎の前には、罪人を取り調べるときに使う拷問器具などが無造作に置かれている。
宮廷で使われている全ての醤油や塩柄種を預ける所を醤庫(ジャンゴ)と言い、この周りで幼い女官たちが歌うシーンが撮影されたという。
残念なことに、ここのオープン・セットは今年一杯で閉鎖となり取り壊される予定とのこと。
 

朝鮮王朝時代の王陵の一つ、東九陵には太祖・李成桂をはじめとする9人の王と王妃が葬られている。
王陵の造りを紅門の正面から見てみると、陵の祭祀を行う丁字閣まで真っ直ぐに参道が続いており、陵の横には陵主の碑石や功績を記した神徒碑を収めている碑閣が建っている。
519年の歴史を持つ朝鮮王朝は儒教を統治理念としただけあって、先祖への尊敬と崇拝を示す600年前の王陵での祭礼が今日まで受け継がれているのだという。
 

ソウルから高速バスで3時間程かけて安東へ向かい、そこで最初に訪れた鳳停寺の由緒が面白い。
「新羅時代の文武王12年(672)に創建されたお寺で、義湘大師が浮石寺から紙で折った鳳凰を飛ばしたところ、その鳳凰がこの地に下りたことから、鳳停寺と名付けられた・・・」とある。
高麗時代に建てられた国宝の極楽殿は、色塗りはされているが韓国の木造建築物の中でも最も古いとされている。
極楽殿の前には同時代の三層石塔が置かれている。
 

鳳停寺は建物はもちろん石仏や石塔、そして美しい周りの風景も含め本当に来てよかったと感じさせてくれる寺であり、作家の立原正秋の父が鳳停寺の僧であったといういわれを知ると、日本人ならいっそう懐かしい気持ちを覚えると思う。
寺を出てすぐ横の美しい紅葉で彩られた階段を上ると、付属の寺の霊山庵が左手に見えてくる。
 

階段を上がり庵を見渡すと、庭の松を囲むように建物が配置されていて何か別世界に来たような雰囲気を覚える。
観てはいないが、「達磨はなぜ東へ行ったのか」、「童僧」という映画の撮影地でもあったという。
朝鮮時代の木造建築物の美しさを語るとき、必ず欠かせない建物であるという屛山書院を訪れる。
時間がなくゆっくり見れなかったのだが、説明書によると「書院は屏風を広げたように稜線の美しい屏山と手前に流れる洛東江の美しい景観に囲まれ、朝鮮5大書院の中でも最も美しい」とある。
ここもドラマ「推奴(チュノ)」や「千年の愛」の撮影地で有名になり、多くの観光客が訪れている。
 

朝鮮時代に作られた集落がそのままの姿で残り、今も子孫の方々が生活している安東河回村を訪れる。
ここで行われる世界的に有名な仮面劇を観たかったのだが、時間が合わず断念した代わりに長老の笑い顔の仮面を購入する。
河回村を代表する建物、大儒学者の柳雲竜<豊山柳氏の大宗家>の住まいだったという養真堂を見学する。
韓国には本貫というものがあり、河回村は柳氏が起こした村で現在も住民の70%が柳の姓を持っているという。
村祭りが行われる参神堂<樹齢600年以上の欅の霊木>は子供に関する願いの場所だが、仮面劇が初めて行われた場所でもあるという。
  

優雅に蛇行する洛東江と河回村の全景を見渡せる芙蓉台に登りたかったが、これも時間切れで断念する。
韓国ドラマでは絶壁から飛び降りるシーンがよく出てくるが、ここもドラマでよく使われる絶好の飛び降りのスポットらしく、ドラマ「黄真尹(ファン・ジニ)」でもこの場所が使われている。
 
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」