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エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その2(トルコ編)

2008年06月30日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★
イスタンブール(ボスポラス海峡)→トロイア遺跡→エフェソス遺跡→パムッカレ(石灰棚・ヒエラポリス遺跡)→コンヤ(メヴラーナ博物館)→カッパドキア(カイマクル地下都市・ギョレメ野外博物館)→トゥーズ湖→アンカラ→イスタンブール(トプカプ宮殿・ブルーモスク)

カイロ空港から飛行機で一路イスタンブールへ、「飛んでイスタンブール!」の気分。
古代からのヨーロッパとアジアの架け橋だったイスタンブールに到着、東西文明の接点にあるトルコ、これから訪れる沢山の古代遺跡がとても楽しみ。

マルマラ海と黒海を結ぶボスポラス海峡、それはまたアジアとヨーロッパを分ける海峡でもある。
2つの大陸を眺めながらのクルージング、しばらくするとアジアとヨーロッパを繋ぐ第1ボスポラス大橋が目の前に迫ってくる。
もう少し進むと、ルメリ・ヒサールと呼ばれる要塞が見えてくる。
ビザンティン帝国時代の首都コンスタンティノープル、時のオスマン帝国スルタン・メフメット2世(征服王)は、ついにこの街を1453年に陥落させる。
その際の軍事拠点として建てられた要塞がこれで、その威容を誇る建物は眼を見張らせるばかりの壮大さだ。
 

イスタンブールの市内に戻っての夕食、どの店も外にテーブルを出して食事を提供している。
トルコ独特の音楽も流れていて、この国の人々は、食事はとにかく楽しく取るものという習慣が身についているらしい。
夜は情熱的なベリーダンスの踊りにしばし見とれる。
踊り手の女性は、素晴らしい美人(イスラム圏の若い女性は皆とにかく飛び切り美しい、年をとると一律に太ったおばさんになるけれども)で、尚且つダンスの上手なこと、男どもが皆すぐ惑わされるのも無理は無い。
イスラム圏の女性、男どもの指図だと思うが、誘惑されないようにチャドルを着て、顔と体全体を隠す訳が良くわかる。
 

イスタンブールから伝説と神話に彩られた古代都市トロイアを目指し、バスは約350Kmの道のりをひたすら突っ走る。
この遺跡の発掘者シュリーマンは、子供の頃に見聞きした炎上するトロイアの挿絵や、ホメロスの語る英雄達の物語が忘れられず、ついに遺跡発見の夢を実現したという。
ホメロスの英雄叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」のトロイア戦争の話を要約しよう。
「・・・トロイアの王子パリスは世界一の美女といわれたスパルタ王妃ヘレネを、王の留守中にくどき落とし故郷に連れ帰る。
妻の不実と友の裏切りを知ったスパルタ王は、全ギリシャの英雄達を募り復讐の軍を起こす。
神々も二分する争いとなり、不死身といわれたギリシャ軍のアキレウスは唯一の急所の足首をパリスに射抜かれて命を落とす。
また、パリスもついで仆れてしまうが、戦争は10年間決着が付かないまま続く。
そんなある朝、ギリシャ軍は大きな木馬を残して撤退してしまう。
勝利を疑わないトロイア軍は、城門を壊して木馬を街の中に入れ祝宴を開く。
その夜、夜陰に乗じて戻ってきたギリシャ軍と木馬に隠れていた50人の兵士がトロイアを激しく攻め立てる。
全てはずる賢いオデュッセウスの策略で、全くの無防備だったトロイアの都は一瞬に陥落してしまう。
スパルタ王は、ヘレネを取り戻しスパルタへ帰り、こうしてさしものトロイア戦争は終わりつげる。・・・」
写真右は神々の儀式に使われた場所で、ペルシャ王が雄牛100頭を、アレクサンダー大王もここで神々に供物を捧げたという。
アレクサンダーが立った場所に、自分もいると思うと不思議な気持ちになる。
 

トロイアから南に約150Km、エーゲ海沿いの港町アイワルクに泊る。
ホテルの窓から眺める青く透き通って輝くエーゲ海が何とも美しい。
翌日、約250Km南にあるエフェソス遺跡へ向かい、まずは「聖母マリアの家」を訪れる。
聖母マリアはイエスの死後に聖ヨハネとともにこの地に移り住み、余生を送ったといわれ、後にその家の跡に小さな教会が建てられ、現在ではキリスト教徒の聖地になっている。
このマリアの家の場所は長い間忘れられていたが、19世紀にドイツの修道女カトリーヌ・エメリッヒが、一度も訪れたことがないこの家の場所を記録に残し、後にこの記録を元にこの場所が突き止められたという。
 

紀元前300世紀頃から建設されたエフェソスの街の名は”地母神の王国”という意味を持つ”APASAS(アパサス)”から由来しているという。
ハドリアヌスの門を見ながらクレテス通り(神官通り)を下っていくと、セルシウス図書館と呼ばれる優美な建築物が見えてくる。
この街の知事を務めた父の墓の上に、息子が壮麗な図書館を建設したのだという。
アレキサンドリアのそれと並ぶ、一万冊以上の蔵書を収めていたらしい。
このあたりはこの遺跡のハイライトの場所で、壮大な建物を背景にたくさんの観光客がカメラのシャッターを切っている。
 

アントニウスとクレオパトラが歩いたアルカディアン通り(港通り)を眺める。
港から大劇場へと続く道で、夜は街灯が灯り、国家の要人の歓迎式典もここで行われたという。
現在エフェソスフェスティバルが大観衆を集めて開かれると言う大劇場を望む。
パナユル山の斜面を利用して造られた劇場で、2万5千人を収容するエーゲ海地方でも最大規模のものであった。
 

エフェソスからトルコ語で「綿の城」という意味を持つパムッカレへ、再びバスは150Kmの道のりを移動する。
石灰棚には温泉水が流れ込んでいて、観光客は足湯に浸りながら、目の前に開ける雄大な景色を眺めている。
写真が上手く取れなかったが、幾重にも重なり合った石灰棚が透き通った青色の湯をたたえ、段々畑のように広がっている景色は幻想的。
 

この石灰棚のすぐ後ろにある、紀元前190年に始まった聖なる都市という意味を持つヒエラポリスの遺跡も素晴らしい。
都市を囲む城壁の内には劇場、神殿、アゴラ、浴場、住居などの跡が残っている。
時間が無く、遠くから眺めるのみとなってしまったのはとても残念。
ペルガモン王エウメネス2世がローマ軍に加勢し、シリアとの戦争に勝利した見返りに、ローマ皇帝からこの街の支配を許される。
やがてはローマの直接支配となり温泉保養地として繁栄したが、14世紀の大震災で壊滅的打撃を受けたという。
 

パムッカレから今度はコンヤまでの約410Kmの長旅、コンヤのインジェ・ミナーレ神学校の前で出合ったトルコの少年少女、とにかく明るくて可愛いい。
即席で覚えた”メルハバ(こんにちわ)”を連発する。
トルコ人は親日的というが、どこへ行ってもそんな感じがしてとても嬉しい。
6月2日のブログに載せた”トルコの神秘な踊り”を読むと話がわかると思うが、独特の旋回舞踊で知られるメヴラーナ教団の総本山、メヴラーナ博物館は多くの訪問者で一杯。
 

バスはカッパドキアまでさらに約230Kmの走り、翌朝、カイマクル地下都市を訪れる。
キリスト教徒がアラブ人の圧迫から逃れるために造った地下都市で、多い時は3000の人々が住み、教会はもちろん、台所、食料庫などの部屋、そして通気孔や石の扉も完備されているという徹底振りに驚く。
 

カッパドキアは、アナトリア高原の中央部に広がる大奇岩地帯で、観光スポットでバスから降り、そこで眺めた不思議な景観は何とも印象的。
ニョッキリと突き上げるキノコのような岩のユニークな形には思わず笑いがこぼれてしまう。
とにかく自然の力の大きさには、無条件に脱帽する。
 

ギョレメ野外博物館の入り口には、ロバと少女がいて盛んに写真撮影を誘っている。
この博物館で見ることが出来るギョレメの地には、4世紀頃から多くのキリスト教徒たちが共同生活を営んでいたが、9世紀頃、イスラム教徒の迫害を逃れた信者たちが、この地に洞窟教会や修道院などを造り始め、「カッパドキア様式」といわれる芸術性の高い鮮やかなフレスコ画を残したという。
 

自分の意思でトルコ絨毯の店に行くというよりも、ツアーにつき物の買い物タイムがあって、バスは一路ガイドさんお勧めの店に向かう。
たしかに、店の説明員が進める絨毯は飛び切り素晴らしいものばかりだが、提示値段が折り合わない。
伝統工芸品のキリムが欲しかったのだが、値段が予想以上に折り合わず断念する。
ツアーなどの場合、値段の交渉は提示額の一割から交渉しろとか、いろいろ聞いていたが、客の度胸次第では充分に満足する買い物が可能なのかもしれない。
トルコの首都アンカラへ向かう途中、トゥーズ湖という大きな塩の湖に立ち寄る。
湖のそばまで塩が覆った道を歩いていったが、湖の周りを囲む真っ白な塩の塊がとにかく印象的。
 

アンカラからは、特急寝台列車アンカラ・エキスプレスに乗って、一路イスタンブールへ向かう。
翌日は、3大陸を制したオスマン帝国のスルタンの栄華を今に伝えるトプカプ宮殿を訪れる。
15世紀に、征服王メフメット2世によって建てられたトプカプ宮殿は、歴代スルタンが約370年にわたって居住した場所、ハーレムは見れなかったが強大な権力を物語る財宝の数々は口では表せないほどの見事なもの。
さじ屋が山で見つけたという86カラットのダイヤモンド、役人が私物化して死罪になったという逸話があるが、宝石が好きな人ならその大きさと輝きを見るだけでも特別なものがある。
  

ラマザン月に王が一日の断食を終えた後、夕食をとったところといわれるテラス、そこから眺める金閣湾やその向うに見える新都市の様子は絶景としか言いようが無い。
イスタンブールを代表するオスマン様式の巨大なモスク、正式名はスルタンアフメット・ジャーミィだが、モスク内部を彩る青いイズニック・タイルの美しさから”ブルー・モスク”の名で親しまれている。
 

独特の雰囲気を作り出している高い丸天井、260にも上るステンドグラスに差し込む光、そして青を主体とした2万枚以上のイズニック・タイルの内壁が織り成す美しさは想像を絶するほどのものがある。
敷き詰められた絨毯も見事で、今でも多くの信者が集う神聖な場というのもうなずける。
 

長いバス移動の旅だったが、焦点を絞ってもう一度訪れたい魅力一杯の国。
但し、お腹をこわす確立90%なので要注意。
日本で直接触れる機会がとても少ないイスラムの文化、その一端に少しでも実際に触れられた事、それが今回の旅行の一番大きな収穫であった。
エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その1(エジプト編)

とっておきの名盤 その129 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98

2008年06月26日 | とっておきの名盤「交響曲」
このブログで紹介している「とっておきの名盤」も、残りが10数枚になってしまった。
特別の棚に置いている愛聴盤、一つ一つの盤について作曲家のこと、演奏家のこと、そして特別な思い出など、それこそ気のおもむくままに書いてきたが、あと少しで終わると思うと、時々ふと淋しい気持ちになる。 
とっておきの名盤がある程度限られるのは当然で、これが延々と続くのではとっておきでなくなってしまうし、一区切りの後をどういう風に続けていこうかと、今いろいろと頭を悩ましている。
それはさておき、ファンからカリスマ的指揮者と崇め奉られていたカルロス・クライバーが亡くなって、はや4年になる。
私がこのブログの中で取り上げてきた名盤とその演奏者のほとんども、時間的にどんどん過去のものとなっていく。
しかし聴き返すたびに、私の心に甦る時々の新鮮な感銘は決して変わることは無い。
この演奏もそのひとつで、ブラームス独特の憂いそして漂う旋律を、ウィーンフィルにこれほど細部までしなやかに歌わせた例はそうあるものではないと思う。
評論家ではないので、これ以上うまく表現できないが、とにかくクライバーの残した特別の名盤といってよい。
この曲のベストファイヴを挙げておくと、
・ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団(マックルーア・リミックス盤)<CBSSONY>
・カルロス・クライバー指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 <Grammophon>
・カール・シューリヒト指揮、バイエルン放送交響楽団 <DENON>
・レナード・バーンステイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 <Grammophon>
・ヘルマン・アーベントロート指揮、ライプツィヒ放送交響楽団 <Deutsche Schallplatten>

府中市郷土の森博物館

2008年06月21日 | 和歌(いにしえの歌人)
そこに保存されている貴重な建物、旧府中町役場庁舎を見学しようと、府中市の郷土の森博物館を訪れる。
ここの敷地は広大なもので、東京ドーム4個分の広さがあり、年間34万人の人が訪れるという。
今はあじさい祭りの最中だが、ここの梅園は青梅の吉野郷に次ぐ素晴らしさがあるとのこと。
入ってすぐの並木道を進むと(写真左)、お目当ての旧府中町役場庁舎(写真右)が見えてきた。
大正10年に建てられた洋風建築で、玄関側のドーマーウィンドウの形が印象的である。
建物の状態はきちんと整備されており、市が保存に力を入れていることが良くわかる。
この郷土の森博物館のように相模三川公園も整備して、温故館などもそこに保存したら面白いのにと勝手な想像をする。
 

郷土の森をひと周り後、入り口近くにあった旧府中尋常高等小学校校舎に立ち寄り、昔懐かしい教室や展示品を見学する。
「愛国百人一首」という、あまり見聞きしない歌集が掲示されている所で立ち止まり、その歌を詠む。
たぶん戦時中は、生徒達はこれらの歌を強制的に覚えさせられたのかもしれない。
この「愛国百人一首」、対米開戦の翌年に公表されたのだが、敗戦後は全く省みられなくなったらしい。
歌は万葉の歌聖とも称される柿本人麻呂の厳かな一首から始まる。
  大君は
 神にしませば
 天雲の
 雷の上に
 いほりせるかも

本居宣長の作とは知らなかったが、これも良く知られた歌のひとつで、胸のポケットにひそませ、果敢に散っていった兵士もいたのだという。
  しきしまの
 やまと心を
 人とはば
 朝日ににほふ
 山ざくら花


エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その1(エジプト編)

2008年06月19日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★
カイロ空港→アレキサンドリア→アレキサンドリア国立博物館・カタコンベ・ポンペイの柱→アブ・メナ遺跡→カイロ→ギザ三大ピラミドとスフィンクス→ベン・エズラ・シナゴーグ→エル・ムアッカラ教会→エジプト考古学博物館→モハメッド・アリ・モスク→ハン・ハリーリ市場→カイロ空港

5月後半、一度は行きたいと思っていたエジプト・トルコの旅がやっと実現した。
体調的には、お腹を下したことや移動距離の長いバスの振動で、ダウン寸前ということもあったが、内容的にはいろいろ新しい発見がある面白い旅であった。

まずはエジプト編から:
飛行機は成田からエジプトまでの直行便、深夜にカイロ空港へ到着後すぐにジョゼルパートナーホテル(写真左)へ向かう。
翌日、バスで一路地中海に面するアレキサンドリアへ移動(約235Km)、まずはアレキサンドリア国立博物館を見学する。
紀元前332年にエジプトを征服したというアレキサンダー大王の像、前に教科書かどこかで見たような気がする。
 

古代エジプト唯一人の女性ファラオといわれるハトシェプスト女王の貴重な頭像、在位中は男装していたらしいが、顔の表情はやはりどこか女性的である。
旧約聖書「出エジプト記」でモーゼをナイル川で拾って育てた義母は、彼女だとも言われている。
次にイタリアのものよりも大きいというカタコンベを見学、残念なことに写真撮影は禁止だった。
ラムセス2世の墓から持ってきたと言われている「ポンペイの柱」の遺跡を見学する。
近づいてみると想像以上の大きさで、27メートルもある柱は、一枚岩の花崗岩で造られている。
柱の前には、クレオパトラがこの地に運んできたというラムセス2世の顔をしたスフィンクスがある。
  

アレキサンドリア郊外にある世界遺産のアブ・メナ遺跡を訪れる。
4世紀からこの地域で独自に発達したキリスト教(コプト)の最大の聖地として街が栄えたという。
古代ローマで殉教した聖者メナス生誕の地でもあり、教会、修道院、巡礼のための宿泊施設等がある。
 

アレキサンドリアでのホテルのすぐ裏は、エメラルド・グリーン色の地中海が広がっている。
じっと海原を見つめていると、いつのまにか鮮やかな夕焼けの景色が目の前にせまってきた。
 

カイロに戻って、エジプトで一番に訪れたかった三大ピラミッドがあるギザに到着。
紀元前2560年クフ王によって建てられた大ピラミッド、世界の石造建築で最大といわれる威容を誇っている。
正面の凹んだところが入り口、終始腰をかがめての歩行が続く、たどり着いた王の間?には何も無くがっかり、出て来た時は腰が痛くてしょうがない。
遠方から眺めた三大ピラミッド、左からクフ王、カフラー王、そしてメンカウラー王のもの。
 

カフラー王のピラミッドの前に鎮座しているスフィンクス、ギリシャ神話に面白い話がある。
女神ヘラの命令でテーベにやって来たスフィンクスは、謎かけをして通る旅人を懲らしめていた。
その謎かけとは「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く者とは、誰のことか?」というもの。
テーベの王もこれに挑戦したが、結局答えられずに殺されてしまい、テーベの街はすっかり寂れてしまう。
そこに、勇敢な若者オイディプスが通りかかり、謎かけに対して「それは、人間だ」とずばり答える。
実はそれが正解で、スフィンクスは恥ずかしさのあまり、丘の上から身を投げ出して死んでしまう。
人生の朝・・赤ん坊の時には四つんばいで這うから4本足。
人生の昼・・若い時は2本の足でしっかりと歩く。
人生の夜・・老人の時には杖をついて歩くので3本足。
テーベの街は大いに沸き返り、勇敢なその若者を新たな王として迎え再び栄えたという。
 

カイロの発祥地でもあるオールド・カイロへ向かう。
ベン・エズラ・シナゴーグ(ユダヤ教の教会)では写真が撮れず。
エル・ムアッラカ教会のあたりには、幼いキリストと聖母マリアがエジプトに逃れてきた際に身を隠した地下道があったと言われている。
エジプト考古学博物館は、この旅行の中でも一番期待していたところ。
過去5000年にわたる古代エジプトの歴史的遺産を約250,000点も収蔵しており、その歴史的及び芸術価値も高い。
 

一番の収穫は、ツタンカーメン王の黄金のマスクをじっくり見れたことで、その何とも見事な仮面を前にして、出てきた言葉はただただ「素晴らしい」の一言だった。
巨大なドームとそびえたつ2本のミナレットがとっても印象的なモハメッド・アリ・モスクを訪れる。
 

イスラム教の礼拝堂は土足厳禁、厳かな気持ちでドームの中へ入ると、無数のランプと、巨大なシャンデリアが眼に入る。
サウジアラビアのメッカの方向に祭壇があり、礼拝者はそちらを向いて祈る。
モスクの天井がドームになっているのは、声が響いてみんなに聞き取れるようにするためだとのこと。
最後に訪れたハン・ハリー市場は、約200m四方の地区に1000軒を超える商店がひしめき合っていて、独特の熱気が充満している。
余り時間が無く、ツタンカーメンのマスクの像を値切って購入するのがやっと。
 

エジプトの遺跡、長い時間の歴史があるだけに、ツアーのような急ぎのスケジュールでは深い内容を理解するのはとても無理。
自分でスケジュールを組んでの旅行をと何時も思うのだが、文化や習慣が異なる国ではリスクが伴うし、何とも痛し痒しである。
エジプト・トルコの旅、イスラム文化の違いを実感!その2(トルコ編)

とっておきの名盤 その128 マーラー 交響曲第1番ニ長調「巨人」

2008年06月16日 | とっておきの名盤「交響曲」
1983年というからもう25年も前になるが、ワルター指揮の一連の名演がデジタル化された際のCDは、LP発売時の録音プロデューサーであったジョンマックルーアが自らの手で22年ぶりにリミックスしたものだった。
これらのリミックス盤は、どれも素晴らしい音でよみがえり、私などもその音を耳にしただけで、ただただその音の良さに魅入られ聴き続けたものだった。
この盤も、前にこのブログで取り上げた「英雄」と並ぶ名録音で、そのときの文章を借りると、この「巨人」のCDも、マックルーアのリミックス盤でなければならないのである。
そして長年愛読している雑誌「レコード芸術」のリーダース・チョイス(読者が選ぶ名盤)というコーナーの第一回目に選ばれたのがこの曲で、ダントツの一位がこの演奏だった。
さすがに作曲者マーラーの愛弟子であったワルターの演奏だけあって、初めから終わりまで文句のつけようが無い完璧な演奏といってよいのかもしれない。
ワルターと手紙などで親交のあった宇野功芳氏の彼についての「甘美で魅惑的な表現に、堂々とした造型と迫力を結びつけ、完成された表現を獲得した」と言う文章、この盤に対する最高の賛辞としても使わせて欲しい様な表現だ。
この盤、とっておきの名盤として特別の棚にしっかりと置かれている。
あえてこの曲のベスト・スリーをあげると、
・ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団 <CBS>
・レナード・バーンスタイン指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 <Grammophon>
・なし

とっておきの名盤 その127 ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集

2008年06月12日 | とっておきの名盤「協奏曲」
バックハウスは1884年、大バッハゆかりの地であったドイツ中央部のライプツィヒに生まれ、ドイツ正統派ピアニストの道を確固たる信念を持って歩み続け、その生涯を終えた人であった。
19世紀終わり頃のブゾーニ、ダルベールを経て、シュナーベル、バックハウス、ゼルキン、アラウ、ケンプらに受け継がれてきた”ドイツ派のピアニスト”と呼ばれた演奏家たちの代表格であり、最も辛口の、最も虚飾というものに縁の無い、ただひたむきな質実剛健のピアニストが彼であった。
演奏会では、その姿に辺りを払うような威厳があり、ピアノの前に腰をかけると、即興的に曲目と関連した調の分散和音など弾き始めたという。
彼は、1969年の音楽祭における演奏会で心臓発作に襲われ、その後85歳の生涯を閉じることになるのだが、そこで最後に弾いた曲はシューベルトの即興曲作品142-2であった。
その時の演奏は、「何という感動、そこにはこの世への別れの思いが強くこめられている。」と評され、今でも語り草になっている。
私がバックハウスを知ったのは、雑誌かライナーノートの文章で、彼のことが「鍵盤の獅子王」と表現されていたのに強い印象を覚えてからだった。
ベートーヴェンの32のピアノソナタなどは、余りにも厳格すぎる所があって、素直についていけないものがあるが、彼の良さが総てプラスに働いているこのピアノ協奏曲全集は素晴らしい。
名伴奏で知られるイッセルシュテットの指揮振りとウィーンフィルの魅惑的な音色もとりわけ秀でている。
有名な「皇帝」のベストファイヴを挙げておくと、
・アルトゥール・ルービンシュタイン<P>、ダニエル・バレンボイム指揮、ロンドンフィルハーモニック管弦楽団 <RCA>
・ウイルヘルム・バックハウス<P>、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団 <LONDON>
・ルドルフ・ゼルキン<P>、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルハーモニック管弦楽団 <CBS>
・フリードリッヒ・グルダ<P>、ホルスト・シュタイン指揮、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団 <LONDON>
・ルドルフ・ゼルキン<P>、小沢征爾指揮、ボストン交響楽団 <TELARC>

伊勢原 あやめの里

2008年06月11日 | 
6月7日に伊勢原名物のあやめ祭りがスタートしたので、早速出かける。
時期的にちょっと早いせいか、開花状態は3分咲きと言うところ。
それでも、大山を背景に鮮やかに咲くあやめ(正確に言うと、ハナショウブ)の美しさは格別のものがある。
 

”いづれあやめか、かきつばた”、訪れている若い女性もどういうわけか、みんな美人に見えるから不思議。
 

沢山の白のハナショウブやキショウブの間に、ピンクのハナショウブが隠れるように咲いている。
その綺麗な色合いにしばしみとれてしまうひと時であった。
 

追記:アヤメ、ショウブ、そしてカキツバタの違い。
自分では理解していたつもりだったが、友人に違いを深く訪ねられると答えがしどろもどろ、もう一度整理してみる。
野花菖蒲、ノハナショウブ(写真左)_栽培種ハナショウブの原形、花の色はアヤメやカキツバタよりも赤みが強い。
外花被片の上面基部中央の脈は黄色で網目模様は無い。
菖蒲、アヤメ(写真右)_名は葉が文目(あやめ)模様になるからと言われる。
野の花は青紫色、園芸種として交配が進み、黄やピンクそして赤紫色のものもある。
外花被片の上面基部中央の脈は黄色で網目模様がある。
 
杜若、カキツバタ_名は書きつけ花の意味で、この花の汁をこすりつけて布を染めたことによるという。
外花被片の上面基部中央の脈は白色で網目模様は無い。

「伊勢物語」の八橋の段に,在原業平がカキツバタの5文字を読み込み、旅を偲んだ歌がある。
  から衣
 きつつなれにし
 つましあれば
 はるばるきぬる
 たびをしぞ思ふ


とっておきの名盤 その126 マーラー 交響曲「大地の歌」

2008年06月05日 | とっておきの名盤「交響曲」
若干22歳の時、マーラーの推薦でプラハのドイツ歌劇場の指揮者に就任したクレンペラー、マーラーの作品の演奏を得意とされている所以だが、彼の一連の交響曲の録音を耳にすると、私には出来不出来がかなり激しいように思える。
名盤紹介の雑誌などで素晴らしいとされている七番や九番の演奏を聴いた時など、その気の抜けたビールを味わっているような指揮ぶりに失望し、すぐにその盤を中古レコード屋に売り飛ばしたことを良く覚えている。
一方第2番と4番、そしてこの「大地の歌」などは、何故かすこぶる魅力ある演奏となっている。
歌が入っている交響曲を指揮するクレンペラーに、歌い手を触発する何かがあるのかもしれない。
ワルター盤のフエリアーの神がかり的な熱唱と比べても、ヴンダーリッヒの張り詰めた「酒の歌」の歌いぶり、そしてルートヴィッヒの叙情に満ち溢れた「告別の歌」の表現には、とにかく聴き手を感動させる何かがある。
とっておきの名盤として外すことの出来ない一枚。
この曲のベストファイヴは、
・ブルーノ・ワルター指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、キャスリン・フェリアー(コントラルト)、ユリウス・パツァーク(テノール) <DECCA>
・オットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、クリスタ・ルートヴィッヒ(メゾ・ソプラノ)、フリッツ・ヴンダーリッヒ(テノール) <EMI>
・レナード・バーンスタイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ジェームス・キング(テノール) <LONDON>
・ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、BBC北部交響楽団、アルフレダ・ホジソン(アルト)、ジョン・ミッチンソン(テノール) <BBC>
・ブルーノ・ワルター指揮、ニューヨークフィルハーモニック、ミルドレッド・ミラー(メゾ・ソプラノ)、エルンスト・ヘフリガー(テノール) <CBSSONY>
唯一クレンペラー盤がワルター盤の高みに近づいている

トルコの神秘的な踊りとその音楽、驚きのエジプト交通事情

2008年06月02日 | 歴史・気になる話
今回、エジプト・トルコを2週間ほど旅する機会があり、面白い発見というか、ちよっと気になる話を書こう。
気になる話その1:宗教儀式セマーの神秘的な踊りと音楽
トルコの中央部、アナトリア地方の都市コンヤにあるメヴラーナ博物館を見学する。
そこにはイスラム教の神秘教団であるメヴレヴィー教団の創始者メヴラーナの墓が置かれており、信者と思われる多くの人が祈りを捧げていた。
メヴラーナの創始になるセマーと呼ばれる宗教儀式、その中で踊られる神秘的な回旋舞踊に興味を惹かれる。
踊り手は、ネイ(笛)とケトルドラマー(打楽器)を伴奏に、右腕を斜め上に、左腕を斜め下にして延々と体を回転させる(右手はアラーの恵みを受け取り、左手は人々にその恵みを配る、という意味があるという)。
そこで奏される独特な笛の調べと、アフリカ奥地の土人が奏でる様な太鼓の響きが素晴らしい。
聴いていると、いつの間にかその神秘的な雰囲気に自分の体が乗り移って、永遠に回り踊り続けていたい気分になる。
そのCD、タイトルは「Sufi Ney-1」、Selahattin Eyüp の演奏で聴き始めたら病み付きになること請け合い。
 

気になる話その2:エジプト首都カイロの交通事情
写真が上手く取れなかったが、ホテルの前の信号も横断歩道も全く無い一直線の道路、沢山の車が走っている中を人々が平気で渡っている。
日本では考えられないその風景を見て、しばし目を瞬き唖然とした気持ちで佇んでしまった。
チャドルを着た女性など、服に足を絡んで転んだらどうなるのだろうと考えてしまう
政府が無策なのか、車優先で人命軽視が当たり前なのか全く理解に苦しむ。
移動するバスからも見たが、どの道路でも皆同じ状況で、文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、交通事故の処理はどうなっているのかと思ってしまう。