クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

この曲この一枚 その17 ベートーヴェン 七重奏曲変ホ長調 作品20

2010年10月27日 | この曲この一枚


この曲は初演が1800年というからベートーヴェンが30歳の時で、ボンからウィーンに出てきて作曲家として一旗揚げようと意気込んでいた頃の作品。
ピアノの演奏と作曲で貴族たちの上流社会に名を売り、よきパトロンや理解者を得て道を開いていこうというのが彼の目的だったはず。
案の定この作品は好評を博し、要望に応え反復上演をしなければならないほどだったという。
貴族たちの娯楽に応える作品ということで深見は無いが、親しみやすい旋律が全体に満ち渡っていて、聴いていてとても楽しいひと時を過ごすことができる。
特に第3楽章の典雅なメヌエットは、ソナチネ・アルバムにも入っているピアノ・ソナタ第20番ト長調の第2楽章メヌエットと同じもので、親しみ深い旋律の極致と言えるかもしれない。
この盤は発売当時、武骨なベートーヴェンには余り似つかない親しみやすい曲想と、ウィーンの香り豊かな演奏とがうまい具合にかみ合ったせいか、かなりの人気を博して話題となったもの。
1959年の録音が古いというより、ヴァイオリンの音色ひとつとっても滋味深い魅力ある演奏をしているし、クラリネットのまろやかな音もウィーンの懐かしい響きを伝えてやまないと言って良い。
そんなことで、この盤をこの曲この一枚として、ぜひ秋の夜長に耳を傾けてほしいと思う。
・ウィーン八重奏団員:ウィリー・ボスコフスキー<Vn>、ギュンター・ブライテンバッハ<Va>、ニコラウス・ヒューブナー<Ce>、ヨハン・クルンプ<DB>、アルフレート・ボスコフスキー<Cl>、ヨゼフ・フェレバ<Hr>、ルドルフ・ハンツェル<Bn> <LONDON>

新御徒町から著名人のお墓めぐり、合羽橋道具街ではショッピング

2010年10月18日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★
大江戸線新御徒町駅→誓教寺→下谷神社→源空寺→曹源寺→池波正太郎記念文庫→合羽橋道具街→聖徳寺→石川啄木碑→銀座線たわらまち駅

今、歴女とか仏女ブームとか言われていて、多くの女性が史跡を散策したり仏像の拝観でお寺を巡っている。
墓女というのはさすがに聞かないがそんなつもりで、1657年の明暦の大火のあとに江戸市中の寺院がたくさん移転してきた上野と浅草の間の寺院を巡ることにする。
最初に訪れたのは、「富嶽三十六景」で有名な葛飾北斎が眠る誓教寺。
画号が春朗、宗理、画狂人、卍翁など約30種類もあり、墓石には「画狂老人卍墓」と大きく刻まれている。
住居も93回移したというから奇行に富んだ人で、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏に原」とあるのも面白い。
昔は下谷稲荷とも呼ばれていた下谷神社は、行基が天平2年(730)に京都の藤森稲荷を勧請したとされる古い神社。
藤原秀郷が天慶の乱の折に参拝をしたとの言い伝えもある。
境内に寄席発祥の地の石碑があり、どんな寄席が行われたのか興味が湧いてくる。
  

源空寺という浄土宗の寺には、伊能忠敬、高橋至時、高橋景保、幡隋院長兵衛夫妻などの著名人の墓がたくさん並んでいる。
全国の海岸を歩いて正確な日本全図を作った伊能忠敬の横に、彼が51歳で隠居後に師事した高橋至時(号は東岡)の墓が並んでいるのが歴史のつながりを感じさせる。
至時は幕府天文方として「寛政歴」を完成した一方、伊能忠敬を指導して日本全国測量を始めている。
その関係で二人は後世、「日本地図の父母」と呼ばれている。
至時の息子の景保は「シーボルト事件」で有名な人。
国外持ち出し禁止の日本地図をシーボルトに贈ったことが発覚し投獄され、その後無念にも獄中で病死してしまう。
シーボルトも幕府によって文政12年(1829)に国外へ追放されている。
幡隋院長兵衛は江戸初期の町奴の頭領で、市街を乱していた旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合うが、だまし討ちにあって死んでしまう。
講談に出てくる有名な人で、子供の頃家にあった講談本を夢中になって読んだ記憶がある。
   

曹源寺は河童大明神が祀られ、かっぱ寺の別名を持った面白いお寺。
私財を投じて付近の治水工事を行い、合羽橋を架けた合羽屋喜八(合羽川太郎)の墓がある。
治水工事を大いに河童が手伝ったという面白い話も残っていて、大好きなキュウリのお供え物が訪れる人々の気持ちをよく表している。
台東区の図書館にある「池波正太郎記念文庫」コーナーを見学する。
遺愛品、自筆原稿、自筆絵画などの他に、テレビでおなじみの「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛け人・藤枝梅安」のコーナーもある。
作品に登場する主な場所をマークした大江戸絵図などは、番組が好きな人はぜひ見たら良いと思う。
合羽橋道具街はテレビでもよく放送される厨房機器関係の卸問屋街、湯飲み茶わんの良いものをと探してみると、市販の三分の一程度の値段で購入できるのが嬉しい。
ここだけ来てショッピングを楽しむのも結構面白いかもしれないし、外国人観光客が多く来ているのもなるほどと頷ける。
聖徳寺には教科書にもよく載っている玉川上水の工事にあたった玉川兄弟の墓がある。
羽村から四谷大木戸に至る約48Kmの上水は、四代将軍家綱の時代、羽村の豪農庄衛門、精衛門兄弟が工事に着手し、承応3年(1654)に開通をみた。
兄弟はこの功により、玉川の姓を与えられている。
  

徳本寺内にある佐野善衛門政言の墓は時間が無くなって見れなかったが、彼の話は非常に興味深いので説明文から引用すると「・・・鎌倉幕府の御家人で、<鉢の木>の逸話で知られる佐野源左衛門常世の子孫と伝えられる。
政言は天明四年(1784)三月二十四日、殿中桔梗の間で、時の権力者田沼意知(老中田沼意次の子)に刃傷におよんだ。
意知は翌日死亡、政言も同年四月三日切腹し、二十八歳で一生を閉じた。
田沼の政治は積極的に幕府財政を立て直したが、利権との結びつきが強く、収賄など世の糾弾をあびていた。
また天明年間には飢饉、大火が続き、物価が高騰して怨嗟の声が溢れていた。
この刃傷事件の翌日から高値の米価が下落し、老中田沼意次も失脚した。
政言の墓は<世直し大明神>と崇められ、多数の老若男女が参詣した・・・」とある。
石川啄木の葬儀を行った等光寺にある歌碑の詩は、「浅草の 夜のにぎはいに まぎれいり まぎれ出で來し さびしき心」と刻んでいる。
啄木の歌を口にしながら、帰りの駅路へと足を進める。
 

ドイツ13日間作曲家の足跡を訪ねて(後編)

2010年10月03日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 8月19日~31日
フランクフルト空港→リューデスハイム→コブレンツ→ボン→ハイデルベルク→ミュンヘン→オーバーアマガウ→フユッセン→ザルツブルク→ニュルンベルク→バイロイト→ドレスデン→ライプチヒ→アイゼナハ→フランクフルト空港

ニュルンベルクはワーグナーのオペラ「ニュルンベルクの名歌手」の舞台となった職人の街、まずは旧市街地入口のすぐ横にある職人広場を訪れる。
ここにはニュルンベルク独特の手作りのおみやげが並べられていて、見ているだけでも結構楽しい。
メイントリートを進むと、13~4世紀にかけて建てられたゴシック様式の巨大な聖ローレンツ教会が見えてくる。
中に入ると美しいステンドグラスを背景にして、天蓋からつるされた受胎告知のレリーフがまず目に入る。
ここに来るまで知らなかったが、ファイト・シュトス作になる素晴らしい造りの作品と言われている。
   

旧市街を東西に流れるムゼウム橋からの眺めは絵になる風景といってよく、とても昔の雰囲気を漂わせている。
フラウエン教会の正面には、カール4世と7人の選帝侯の仕掛け時計があり、12時のスタートから見れたのがラッキー!
職人の技術の高さを誇るシンボルだったという「美しの泉」という高さ17mの塔の周りには大勢の人が賑わっている。
有名なニュルンベルクソーセージを食べてみたが、直火で焼いているせいかカリッとした香ばしい味がして、たしかにドイツ中で一番美味しいソーセージと、ドイツ人が言うのも頷ける気がする。
  

カイザーブルクは11世紀に基礎が築かれたという神聖ローマ皇帝の城で、この時代は首都というのは存在せず皇帝は各地の城を移り住んでいたらしい。
1050年~1571年における全ての皇帝が、この城に必ず滞在していたというから、この城の重要性がよく分かる。
塔へ上って街を一望すると、中世の雰囲気を漂わせる街並みが素晴らしい展開を見せてくれる。
 

城を出て少し坂を下ると、ドイツ・ルネッサンスの大画家デューラーが1509年から亡くなる1528年まで過ごした家がある。
内部は生活の様子がよく分かるようになっているほか、デューラーの複製画などが展示されていて、当時の画家の在り様がとてもよく分かる。
当日の18時からは無料公開ということを知り、職人広場の西にあるゲルマン国立博物館へ行ってみる。
 

入ってみると、その広さと充実した展示物の内容に驚く。
国立博物館だけあって、古代の遺物、生活用具、そして絵画や彫刻がテーマ別、時代順に展示されている。
写真撮影も自由で、肖像画の名手デューラーの描いた絵など印象的なものを載せておく。
とても2~3時間で見れるものではなく一日かけても足りないくらいで、今度訪れるときは時間をかけてじっくり見たいと思っている。
ニュルンベルクに来た人には、ぜひ訪れてほしい穴場ともいえる必見の場所。
  

とうとう昔から一度は来たいと思っていたワーグナーの聖地バイロイトへ到着、意気込んでいるせいか、駅前から遠くに見える祝祭劇場への道にさっそく足を踏み入れる。
レコードのジャケットでも度々見たバイロイト祝祭劇場、その正面に立って建物をじっと見ていると何故か目頭が熱くなってくる。
ワーグナーが、自作のオペラを理想的な音響と舞台効果で演奏できる劇場が欲しい、そんな思いで自分で設計し建立した劇場だけあって、今では全世界からここで開かれる音楽祭に多くの人々が訪れる。
私など最初から入場はあきらめていたけれど、劇場の横でチケットを求むと書かれた看板をかざしている日本人の女性がいるのに少々驚く。
 

祝祭劇場の手前の小さな公園には、ワーグナーと妻コジマの像が左右に立っている。
二つの像を見ていると、当時話題になっただろう二人の関係にどうしても触れざるを得なくなる。
ストーリー的な表現をすると、「・・・名ピアニストでもあった作曲家リストの次女コジマは、名指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚するが、新婚旅行の途上に天才的な作曲家ワーグナーと逢い、一目惚れしてしまう。
ついには夫を捨ててワーグナーのもとに奔り恋愛状態に発展し、やがてコジマは彼の妻となる。
二人は世間の非難、妨害に会うが、コジマはそれに立ち向かい献身的な愛を彼に捧る。
ワーグナーが多くの名曲を生み出した創作力の源、それを支えたのがコジマの存在であったことはまず間違いがない・・・」となる。
 

ハウス・ヴァーンフリートは晩年のワーグナー夫妻が過ごした住居で、今はワーグナー博物館となっている。
正面手前には、ワーグナーの熱烈な擁護者であったルートヴィッヒ2世の胸像が置かれている。
中に入ると、ワーグナーゆかりの品々や楽譜、そしてバイロイト音楽祭の舞台の写真などが展示されている。
小さなホールではワーグナーの音楽も流れていて、今まで訪れた作曲家の博物館では内容が一番充実しているのが嬉しい。
屋敷の裏側に行くと夫妻の墓があり、世界中のワグネリアンからの花が捧げられている。
 

すぐ横の通りには、ワーグナーの義理の父でもあるリストの旧宅(リスト博物館)がある。
リストの業績、人間関係がよく分かる。
バイロイトを後にして列車は一路、旧東ドイツの都市ドレスデン駅へと向かう。
第2次世界大戦中の都市における最大の空襲爆撃(1945年2月)を受けたとされるドレスデン、今は東西の統一からもう20年になる。
駅から旧市街へ向かう通りを歩いてみると、街並みは近代的なビルが立ち並んでいて、そのモダンな雰囲気の変化にはびっくりさせられる。
 

旧市街地区へ入ると建物の様相が一変、聖十字架少年合唱団で有名な聖十字架教会がまずは姿を見せる。
ドイツ音楽の父ハインリッヒ・シュッツも率いた聖十字架少年合唱団は、500年以上もの歴史を誇るというから驚かされる。
ドイツ最大のプロテスタント教会であるフラウエン(聖母)教会を建てるのに6118日もかかったのに、破壊にはわずか1夜しかかからなかったという。
とにかく戦争の恐ろしさ、空しさが身に染みる話ではある。
今は、10年かかって再建された教会がルターの像を前にして、昔の姿で立派によみがえっている。
ドレスデン城のほうへ進むと、欧州最古の武芸競技場だったシュタールホーフが再建されていて、その外壁には長さ101mの「君主の行列」という壮大な壁画が描かれている。
  

劇場広場から見るカトリック旧宮廷教会とドレスデン城の眺めも印象的だが、その北側に流れるエルベ川沿いの眺めは一層素晴らしいものがある。
 

再建されたゼンパーオペラ(ザクセン州立歌劇場)は歴史ある劇場で、初代音楽監督には「魔弾の射手」で有名なウェーバーが就いているし、後任として楽長の座に就いたワーグナーは、ここで「さまよえるオランダ人」と「タンホイザー」を初演している。
歌劇場の内部が見たくて、内部のガイドツアーに参加する。
華麗な劇場内部に感心させられたが、肝心の説明がドイツ語でほとんど理解できなかったのがとても残念。
 

ザクセン王国の栄華を伝えるツヴィンガー宮殿の内部に、名作が目白押しに並ぶアルテ・マイスター絵画館がある。
フェルメールの「手紙を読む少女」、ラファエロの「システィーナのマドンナ」、そしてレンブラント、デューラー、ボッティチェッリの絵などたくさんの素晴らしい絵画があり、とても少々の時間では見切れない。
ドレスデンの魅力に思いを惹かれながらも、夕方の列車で次の訪問先、音楽の街ライプチヒへと向かう。
聖トーマス教会は、バッハが15代目のカントル(オルガン奏者兼合唱団の指揮者)を27年間務め上げた由緒ある教会。
当時埋もれていたバッハを蘇えらせ、名作「マタイ受難曲」を復活上演させたメンデルスゾーンの像が教会のすぐそばに立っているのは当然かもしれない。
  

教会の前には有名なバッハの像も立っていて、観光客がひきり無しにカメラのシャッターを切っている。
写真では分かりにくいが、上着の左ポケットをよく見ると中身が外に出ているのに気付く。
これは「金がない」ことをアピールしているのだという。
教会内の主祭壇の前にはバッハの墓があって、訪れる人々の捧げる花が絶えない。
聖トーマス教会に朝訪れたところ、幸運にもバッハのカンタータのリハーサルが無料で公開されているのに遭遇、その素晴らしい演奏と音の響きにとても感動する。
  

教会のすぐ前にバッハ博物館がある。
バッハの作品を聴けるコーナーや、彼の生涯をビデオでたどるコーナーもあって楽しい。
ライプチヒはゲーテの街としても有名で、街を歩くとゲーテの像があったり、彼がよく通ったという酒場の前にはファウストとメフィストフェレスの像もある。
  

アウグストゥス広場に訪れるとオペラハウスとゲヴァントハウスが広場を中心として向き合って建っている。
特にゲヴァントハウスはメンデルスゾーン、チャイコフスキー、ワーグナー、そしてR.シュトラウスが指揮者として活躍した舞台だったというから、その伝統というか歴史の古さが偲ばれる。
 

好きな作曲家の一人、メンデルスゾーンが音楽活動をいそしみ、そして亡くなった時の家を再現したというメンデルスゾーン・ハウスを訪れる。
行く途中には、シューマン・ハウスもあるはずだったが、道に迷ってしまい見つからなかったのが残念。
偶然にシューマンの像を見つけたのは良かったが、肝心のワーグナー生誕の碑が見つからない。
代わりにと言ってはおかしいが、駅前のホテルに帰る道脇で、再来年ワーグナー生誕200年を記念するパネルを発見する。
  

バッハというと、どうしても生誕の地アイゼナハは外せない。
カールス広場を訪れると、この街の教会で説教をしたというルターの像が聖書を手にして立っている。
 

ヴァルトブルク城は、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」第二幕の歌合戦の舞台ともなった中世の面影を深く伝える城。
有名なミンネゼンガーのヴァルター・フォン・フォーゲルワイデとヴォルフラム・フォン・エッシエンバッハなどが、詩歌を競い合った歌合戦の様子を描いたフレスコ画が興味を引く。
 

歌合戦の大広間に出ると、嬉しいことに「タンホイザー」の大行進曲が聴こえてくる。
ルターが新約聖書をドイツ語に訳した部屋はとても質素なもの。
じっと見ていると、1521年5月から翌年の3月までの10か月間、厳しい状況の中で偉業を成し遂げたルターの偉大さが伝わってくる。
 

世界遺産にもなっている城からの眺めは、テューリンゲンの中世の森の雰囲気を感じさせて素晴らしい。
待望のバッハ生誕の家は、今はモダンな造りになっていて少々拍子抜けする。
前にあるバッハの像は、レコードのジャケットでもよく見かけるもので、なぜか懐かしいような気持ちがわいてくる。
  

中に入ると展示内容はなかなか立派で、いろいろなバッハの肖像画があったり、説明員が当時の弦楽器やチェンバロなどを演奏しながら紹介をしてくれる。
ルターが説教をしバッハが洗礼を受けた聖ゲオルク教会に行けたのも嬉しい。
信者でもなんでもないが、当時の世界というか雰囲気を味わえたことが貴重な経験だったと思う。
最後にドイツの印象を語ると、みんなとても親切、そして清潔できれいな街、若い女性の一人旅が多いわけがよく分かる。
そんなドイツに感謝!