クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

倉敷・吉備路・尾道を訪ねて

2012年03月19日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 1月6日~8日
<倉敷へ> ~ 倉敷アイビースクエア → 倉敷美観地区 → 阿智神社 → 大原美術館 → 鬼ノ城 → 吉備寺 → 横溝正史疎開宅 → <吉備路へ> ~ 吉備津神社 → 吉備津彦神社 → 鯉喰神社 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳 ~ <尾道へ> ~ 林芙美子の銅像 → おのみち文学の館 → 千光寺公園 → 天寧寺 → 西國寺 → 西郷寺 → 浄土寺

白壁の美しい倉敷の街、古代豪族の王国が偲ばれる吉備路、そして寺と文学の街、尾道を訪ねようと一路新幹線で西へと向かう。
江戸時代の倉敷は天領と呼ばれる徳川幕府の直轄領だったが、今はその代官所のあった所にホテル倉敷アイビースクエアが鎮座している。
そのあゆみを紐解いてみると、倉敷紡績所設立(明治21年)、操業停止(第2次世界大戦の終結の日)、その後工場の倉庫として使用、「倉敷アイビースクエア」オープン(昭和49年)となっている。
ホテルの周りを歩いてみると、レンガ壁とノコギリ屋根の建物、そして壁に絡まる蔦(アイビー)が昔の面影を偲ばせてくれる。
 

倉敷美観地区を通り抜け、倉敷総鎮守の神社、阿智神社へと向かう。
倉敷の古名が「阿智」というのは、「日本書紀」応神記の記述に、「二十年の秋九月に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子都加使主(つかのおみ)が、百済より17県の人達を率いて来帰してきた」とあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、今日の繁栄の基礎を築いたことに由来している。
古来この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し、社地は内亀島という小島であったため、海の交通交易の守護神である宗像三女神を祀ったとも伝えられている。
 

阿智神社のすぐ隣にある観龍寺、1866年(慶應2年)、長州藩の配下にあった第二奇兵隊の脱走兵約100人が倉敷代官所を襲撃、その後観龍寺に侵入、兵糧と軍資金を調達し翌朝には出て行ったという。
歴史の爪痕というか、その際に出来た槍の傷跡が左手の鴨居門に生々しく残っている。
倉敷川沿いにたたずむ蔵屋敷、このような佇まいは、寛永19年(1642)に幕府の直轄地となり、代官の支配を受けてからで、備中、美作、讃岐の米、綿、油などが陸路、水路を通じて集荷、搬出され、川沿いには綿花問屋、米穀・肥料問屋などの倉庫が次々と建てられたという。
 

昭和5年に倉敷の実業家大原孫三郎が設立し、西洋美術・近代美術を展示する美術館としては日本最初のものという大原美術館を訪れる。
音楽が好きなせいか、楽聖ベート-ヴェンの胸像に一番惹かれるものを感じる。
  

鬼ノ城から一望する備中平野の眺めは素晴らしく、これだけでもはるばる麓から車を飛ばして来た価値がある。
「鬼ノ城縁起」という文献によると、「・・・異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて”鬼ノ城”と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」とある。
これが温羅伝説と呼ばれる話だが、実際は朝鮮式山城で、築城の背景には7世紀に起こった百済の滅亡と、その亡命貴族が指導して作らせた山城の一つではないかと言われている。
 

吉備真備記念館を訪れると、吉備真備の業績などが分かりやすく展示されている。
家柄の不利を跳ねのけ立身出世、片仮名を発明したというパネル、孫子の兵法を日本に伝えた、などの展示の他に遣唐使の船の模型もあり結構面白い。
 

古代寺院であったことを示す礎石が境内に残っている吉備寺は、吉備真備の菩提寺でもある。
遣唐留学生として学んだ吉備真備公の記念碑が中国西安市に建てられたのにちなんで、同じ碑がまきび公園内にも建てられている。
 

若い頃、「八つ墓村」を徹夜で読んだほどに好きだった作家、横溝正史の疎開宅を訪れる。
横溝正史氏は太平洋戦争末期の昭和20年4月、東京での戦禍を避けて、真備町岡田で約3年半の疎開生活を送った。
「本陣殺人事件」「獄門島」「八つ墓村」などの名作が、この地で発表され、彼の日記によると名探偵・金田一耕助は昭和21年4月24日にこの家で生まれている。
 

吉備津神社の本殿と拝殿は、室町時代初期に造られた日本で唯一の「吉備津造り」とされ、国宝に指定されている。
この神社は、祭神となっている吉備津彦命が温羅退治のために陣を構えた場所とされている。
捕らえられ、首をはねられ、晒された温羅の首が大声を出して唸り続けるので、神社の御釜殿の土深くに首を埋めたが、13年間も唸り続けたという。
温羅は「阿曾媛(あぞめ)に神饌(みけ)を炊かしめよ。そうすれば悪業の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう」といい、「鳴釜神事」として今も吉備津神社に伝えられている。
吉備津彦神社の祭神は、崇神天皇の命により四道将軍として遣わされて吉備国を平定したといわれる吉備津彦命で、「桃太郎」のモデルとしても有名になっている。
吉備国が備前・備中・備後・美作と分かれた後は「備前一宮」とも呼ばれ、備前国の総氏神として長年親しまれている。
 

鯉喰神社がある所は、温羅伝説によると、鯉に化けて血吸川に逃げる温羅を吉備津彦命が鵜となって追いかけ、喰い上げた場所と言われている。
神社の拝殿の屋根瓦をみると、鯉の絵が見られるのが面白い。
全国第4位という造山古墳は、自由に立ち入りできる古墳としては最大の古墳で、5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。
時間があれば、古墳の上を歩いてみて、その大きさを感じ取りたかったと思う。
 

こうもり塚古墳は、吉備の大首長の墓と考えられる前方後円墳で、後円部の横穴式石室は全国第4位の規模を誇る巨大な石の組合わせて造られている。
この古墳は仁徳天皇に愛された吉備の黒媛の墓とされ、黒媛塚古墳と呼ばれていた。
しかし、仁徳天皇の時代とは100年以上も隔たりがあることがわかり、石室内に蝙蝠が多かったのでこうもり塚古墳と呼ばれるようになったという。
聖武天皇の詔により築かれた備中国分尼寺跡を訪れる。
東西108m、南北216mの広さで、伽藍配置は南から北へ南門・中門・金堂・講堂などの建物が一直線上に並ぶもの。
いつも思うことだが、築地塀だけでもあったら雰囲気が全然違うのになどと頭の中で空想を広げてしまう。
  

備中国分寺跡尼寺跡には、創建寺の金堂の礎石がきちんとした形で残っている。
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は仏教の力で災害、疫病、そして外敵などから国を守るために、全国に僧寺や尼寺を建てるようにと詔を出している。
国府に近い場所を選び、「金光明最勝王経」や「法華経」の写経各10部と聖武天皇直筆の「金光明最勝王経」を七重塔に安置することなどとされている。
備中国分寺跡は、中門・南門の礎石と井戸の跡のみしか残っていないのが残念だが、江戸時代に再建されたという五重塔がそれを補って余りある景観を見せている。 
   

尾道にある林芙美子の銅像を見やる。
幼少時代を尾道で過ごした林芙美子は、生涯この町を愛したという。
「放浪記」の「海が見える、海が見えた、五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節は有名。
 

尾道は寺が多い、ということで一日に回れる時間のすべてを使って古刹を巡ることにする。
説明は省略するが、持光寺の「臥龍の松」、光明寺の第12代横綱陣幕久五郎の墓と手形の石碑、そして海福寺の三つ首さまに注目する。
  

尾道ゆかりの作家ということで、志賀直哉旧居では彼が「暗夜行路」の草稿を執筆した当時の部屋を展示、文学記念室では林芙美子の書斎を再現している。
千光寺公園からは、尾道の街、そして瀬戸内海の眺めが一望できる。
 

創建当時は五重塔だったという三重塔を見やりながら、天寧寺の本堂に入ると、豪快に描かれた獅子をあしらった立派な襖絵が目に入る。
座禅堂の五百羅漢像は、その造りから表情まで一体ずつが異なっていて、じっくり見ていると時の経つのを忘れてしまう。
  

浄土寺は616年に聖徳太子の創建と伝えられる古刹で、足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際に戦勝祈願をした寺としても有名。
国宝の多宝塔は鎌倉時代の代表的な多宝塔で、中世のものとしては規模が比較的大きく均整がとれており、高野山金剛三昧院、石山寺と共に日本三名塔の一つと云われている。
 

とっておきの名盤 その152 ショパン 4 スケルツォ

2012年03月04日 | とっておきの名盤「器楽曲」
 
今回、「とっておきの名盤」としてこの盤を取り上げたのだが、ポゴレリチについての褒め言葉は過去のブログの中で十分に述べているので、まずはその演奏の素晴らしさを書きたいと思う。
たまたまCDの名盤紹介の本を読んでいたら、ショパンのスケルツォの名盤について敬愛する音楽評論家・宇野功芳氏のコメントに遭遇、その説明がとても素晴らしく、それ以上の表現は私などにはどうしても浮かんでこない。
ということで、そのコメントをそのまま使わせていただくのが一番だと勝手に決めてしまう。
「・・・スケルツォはポゴレリチ<G>だ。強靭なタッチと胸のすくようなテクニックを駆使し、鮮やかな手練の技を聴かせてくれる。表情の変わり身の速さ、最高のリズム感、そこではすべての音がドラマを語りかけており、感情の振幅は極大である。一個の表現者として、まことに彼は端倪すべからざる存在といってよい・・・『クラシックCDの名盤』 宇野功芳 中野雄 福島章泰 <文春新書>」。
たしかに、この盤の最初の曲(スケルツォ第1番)を耳にした瞬間から、聴いた者の心を最後までしっかりと掴んで離さない彼の説得力の強さにはとにかく驚かされる。
そんなことで、しばらく途絶えていた「とっておきの名盤」に新しい一枚が加わったことを嬉しく思っている。
ほかにアラウ、ポリーニなどの簡単には無視できないCDがあることにも注意。
・イーヴォ・ポゴレリチ<P><Grammophon>
・クラウディオ・アラウ<P><Philips>
・マウリツィオ・ポリーニ<P><Grammophon>
とっておきの名盤 その133 モーツアルト ピアノソナタ第11番イ長調K331「トルコ行進曲」他
とっておきの名盤 その101 ショパン 24の前奏曲 作品28
とっておきの名盤 その15 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23