クラシック 名盤探訪

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この曲この一枚 その28 ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」

2012年04月20日 | この曲この一枚
 
コンヴィチュニーに対する指揮者としてのキーワードを拾うと、質実剛健のベート-ヴェン、骨太のロマン主義、正攻法の気迫、などという言葉が並んでいる。
彼は根っからのドイツ生まれでゲルマン魂の権化のような演奏をする人と思っていたら、実際は1901年チェコのモラヴィア地方フルネックという村の生まれだった。
ライプツィヒ音楽院を卒業後、当時フルトヴェングラーが常任指揮者をしていたゲヴァントハウス管弦楽団のヴィオラ奏者に任命され、ワルター、クレンペラー、ワインガルトナー、クライバーなどの名指揮者にも接する機会を持ったという。
その後指揮者として活躍する機会を得、1949年には世界最古の伝統を持つライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、1962年に亡くなるまでその地位にあった。
この歌劇「さまよえるオランダ人」の盤は評論家の人達にはあまり評価されていないようだが、私にとってはそれこそ「正統派の至芸を網羅」というキーワードに値する演奏とも思えるもので、ベーム、カラヤン、ショルテイなどの盤をはるかに超える魅力があると言わざるを得ない。
男性陣(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ゴットロープ・フリック)の底力のある歌唱、そして臨場感あふれる録音は特に素晴らしいし、この曲が好きな人、そしてコンヴィチュニーの魅力を知らない人はぜひ聴いて欲しい「この曲この一枚」だと思う。
・フランツ・コンヴィチュニー指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団、合唱団、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ<Br>、マリアンネ・シェヒ<S> 、ルドルフ・ショック<T>、ゴットロープ・フリック<B>、ジークリンデ・ワーグナー<A>、フリッツ・ヴンダーリヒ<T> <ETERNA>

多摩川六郷橋緑地と聖蹟梅屋敷公園を訪ねて

2012年04月07日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★
京急雑色駅 → 安養寺 → 宝憧院 → 北野天神(止め天神)→ 多摩川六郷橋緑地 → 六郷神社 → 六郷水門 → 正覚寺 → 聖蹟梅屋敷公園 → 薭田神社 → 京急梅屋敷駅

最初に訪れた安養寺は、和銅3年(710)に行基が薬師・阿弥陀・釈迦の三尊像を安置したのが始まりというから、相当に古くて由緒のある寺である。
寺の入口の傍にある古川薬師道道標は、東海道筋の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、 正面と両側面に古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
境内にある冨士講碑の表面には100に近い講紋、講名、講員名が刻まれていて、このように多くの講名や講紋を刻んだ例は珍しく、富士講の分布を示す資料として貴重なものだという。
  

鎌倉時代に創建された真言宗の古刹、宝憧院を訪れる。
小田原北条氏や徳川歴代将軍の保護を受け、朱印状などの文書も伝えられている。
境内にある梵鐘は延宝9年(1681)に多摩川の河原で鋳造されたものだという。
 

北野天神(止め天神)には、次のような興味深い故事が伝えられている。
説明板には「・・・徳川八代将軍吉宗公が乗った馬が暴走した時、北野天神のご加護のおかげで落馬を免れたとされ、以来<落馬止め>が転じて<落ちない>につながり、<止め天神>として知られるようになった」とある。
多くの受験生が参拝に訪れる他、選挙立候補者、乗馬関係者もお参りに来るのだという。
童謡「通りゃんせ」がここで生まれたのかは不明だが、境内には「通りゃんせ」碑が置かれている。
 

多摩川六郷橋緑地と呼ばれる多摩川の河川敷には野球場やテニスコートが整備されている他、サイクリング道路も通じ、多くの人々が気持ちの良い汗を流している。
六郷神社は歴史が古く、源頼義と義家親子が奥州征伐に向かう際、杉の古木に白旗ををかけて祈願したのが始まりと言われている。
門前には梶原景時が寄進したという太鼓橋が、境内には旧六郷橋の親柱があり、この神社は見るべきものが多い。
 

六郷用水は耕作のため、徳川家康の命を受けた小泉次太夫により開削された用水路で、多摩川の水を狛江市で取り、野川、仙川などと合流し、世田谷区を通り、下流の大田区に注いでいた。
昭和に入って田畑が減少し、生活排水も増えた為、大雨の時など排水しきれず浸水する地域が広がっていったので、この六郷水門が昭和6年に設けられたという。
  

聖蹟梅屋敷公園の由緒は説明板によると、「・・・山本忠佐衛門という人が食あたりや暑気あたりに効く”和中散”という旅の常備薬の売薬所を開き、文政年間に子の久三郎が梅の名木を集めて東海道の休み茶屋を開いたことに始まる」とある。
現在はかなり小さい規模の公園となってしまったが、12代将軍徳川家慶の鷹狩りの際の休み所にもなり、明治以降も明治天皇の行幸が9度にも及んだというから、かなりの名所であったことは間違いない。
最後に「延喜式」の神名帳に記載された古社という薭田神社を訪れる。
和銅2年(709)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが始まりと、社伝に書かれているかなり古い神社である。
正面の石鳥居は、柱背面の銘文に寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、大田区内の中でも古いものの一つだという。