クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

この曲この一枚 その20 J.S.バッハ カンタータ選集<その1>

2011年03月25日 | この曲この一枚
 
この2枚組「バッハ・カンタータ選集」に含まれているのは、BWV51、80、82、106、140、147の6曲で、W・ゲンネンヴァイン、G・ジョーンズ、N・マリナーの3人が指揮をしている。
中でもゲンネンヴァインが指揮する80、106そして140の3曲が何と言っても素晴らしい。
どれも噛めば噛むほど味の出る家庭料理の様なというか、聴くほどに滋味深さが感じられる演奏で、何度聴いてもまたもう一度という気持ちに駆られてしまう。
彼は1933年のドイツ生まれで、1985から93年まではシュトゥットガルト歌劇場の総監督として活躍の場を広げていた。
残したCDでは、モーツアルトの歌劇「魔笛」、ミサ曲ハ短調、レクイエム、そしてハイドンのオラトリオ「四季」や「天地創造」なども素晴らしいが、やはりバッハが私にとっては惹かれるものが多い。
「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」はまだ未聴だが、このカンタータ選集を聴いただけでもバッハの信仰の深さというか音楽に対する真摯な気持ちが深く伝わってくる。
手元にある音楽書には、どれもゲンネンヴァインのことが載っていないので良くは分からないが、彼はバッハに深く傾倒していたに違いないと思うほど、曲を通じてその気持ちを聴く者に直に伝えてくれる。
この曲この一枚として、一度ぜひ聴いてほしいと思う。
・ヴォルフガング・ゲンネンヴァイン指揮、コンソルティウム・ムジクム、南ドイツマドリガル合唱団、エディット・マチス<S>他 <EMI>

沖縄の世界遺産を巡る

2011年03月06日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 2月12日~15日
首里観音堂→金城町石畳道→中村家住宅→中城城跡→勝蓮城跡→万座毛→残波岬→座喜味城跡→識名園→斎場御嶽→おきなわワールド(文化王国玉泉洞)→平和記念公園→ひめゆりの塔→波上宮→龍潭池→守礼門→園比屋武御嶽石門→首里城正殿→玉陵

2月も中旬の季節、厳しい寒さを逃れて南国を目指そうと、一路沖縄本土へと飛び立った。
今回も、南国の自然というよりも、沖縄にあるたくさんの御嶽(聖域)を巡る史跡散策が中心の旅となった。

最初に訪れたのはホテルからすぐ近くにある首里観音堂で、まずは旅の安全を願う。
寺の謂れを調べると、「・・・薩摩藩に対する琉球王府側の人質として海を渡った佐敷王子が、長年の拘束から解放され無事に帰国したことを祝い、父の尚久により修造された・・・」とある。
日本の道百選にも選ばれた金城町石畳は、道の両脇に石垣と赤瓦の家並みが続き、琉球王朝時代の古都の面影を色濃く残している。
三代国王尚真王の時代(1477~1526)に首里城から南部に通じる総延長22kmの主要道路「真珠道」が造られ、かろうじて戦火をまぬがれた約300mの石畳が当時の面影をとどめている。
歩いてみると、道の角に「石敢當」が置かれていたり、御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があったり、とても印象に残る道となっている。
「石敢當」とは、魔物(マジムン)を倒すためにあるのだと言われている。
人々の平和な生活を乱しにやってくる魔物は、なぜか曲がるのが下手で、T字路や三叉路の突き当たり、袋小路の奥などにおかれている「石敢當」の石板に激突し、砕け散ってしまうのだという。
  

戦前の沖縄の住居建築の特色をすべて備えているという中村家住宅を訪れる。
説明書によると、「・・・今から約500年前、中村家の先祖賀氏は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられている。
その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利(あまわり)に滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあい、1720年頃ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられた。・・・」とある。
 

琉球の数あるグスク建築の最高峰と呼ばれ、遺構が最もよく残っているという中城城跡(なかぐすくじょうせき)を見学。
標高167mの高台に、東北から南西にほぼ一直線につらなる6つの城郭からなる城で、琉球王国時代に築城家として知られる護佐丸が、勝連半島で勢力を伸ばしていた阿麻和利(あまわり)に対する備えとして、読谷の座喜味城から移されて築いた城だといわれている。
城跡からの眺めも素晴らしいし、かつて琉球を訪れたぺりー提督がこの城の建築技術を絶賛したというのも頷ける。
 

続いて訪れた勝連城跡も、自然の断崖を巧みに利用した造りの石垣が美しい曲線を見せていて素晴らしい。
城主の謂れを紐解くと、「・・・勝連城の最後の城主・阿麻和利は、東アジアを中心とする海外交易を盛んに行って勢力を拡大した有力な按司(あじ)であった。
首里王府は、阿麻和利を抑えるために中城城に護佐丸を配置したり、琉球王・尚泰久の娘で絶世の美女と言われた百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせるなどの策を行った。
しかし、阿麻和利の野望は果てることなく、中城城主の護佐丸を倒し首里城を攻めた(1458年)が大敗し、ついに王府軍に滅ぼされた。・・・」とある。
 

景勝美で知られる万座毛の説明板を読むと、1726年にここを訪れた琉球王尚敬が「1万人を座らせるに足る」と賞賛したことが「万座毛」の由来とある。
実在がはっきりしないが、入口には恩納村出身の女流歌人・恩納ナビーが王一行を歓迎した時の即興歌の歌碑が立っている。
「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」とある。
 

高さ30mのサンゴの断崖絶壁が約2kmにわたって続いている残波岬の眺めも素晴らしい。
海の青に白い灯台がコントラストを成し、東シナ海に沈む夕日は素晴らしい眺めとあるが、訪れたのは昼だったのでちょっと残念な気持ちがする。
 

護佐丸が築城したとされる座喜味城跡の入口近くには、2000年12月に世界遺産に登録された琉球王国のグスク及び関連遺産群のパネルが立っている。
9ヶ所の遺産をリストすると、今帰仁城跡(なきじんじょうせき)、座喜味城跡(ざきみじょうせき)、勝連城跡(かつれんじょうせき)、中城城跡(なかぐすくじょうせき)、首里城跡(しゅりじょうせき)、園比屋武御嶽石門、(そのひゃんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)。
今回の旅行で、今帰仁城跡は見れなかったが、この座喜味城跡も含め8遺産を見れたのがとても嬉しい。
 

識名園は琉球王家最大の別邸で、造られたのは18世紀末の第二尚氏王統15代の尚温王の時代とされている。
国王一家の保養地として、また中国王の使者として訪れる柵封使を歓待する場として利用されたらしい。
琉球開びゃくの始祖・アマミキヨが造ったとされる琉球第一の霊地・斎場御嶽を訪れることができたのは嬉しい。
 

「御嶽」とは奄美諸島から宮古・八重山にいたる南西諸島に広く分布している聖地の総称のこと。
斎場御嶽の中には六つのイビ(神域)があり、中でも大庫理・寄満・三庫理は、首里城内にある建物や部屋と同じ名前をもっていて、当時の王府と斎場御嶽の関わりの深さを示している。
第二尚氏尚円王の時代からつづいた聞得大君(きこえおおきみ・琉球王朝最高の神職)の就任式(お新下り)はここで行われ、一般庶民および男性は入り口までしか入る事を許されず、国王でさえ途中までしか行くことができなかったと言われている。
拝所の正面からは、アマミキヨが降臨したという神の島・久高島がよく見える。
 

全長5kmの東洋一美しい?と言われる鍾乳洞を見ようと、おきなわワールド(文化王国玉泉洞)を訪れる。
当時のまま忠実に再現された進貢船(「中国の柵封を受けた国が朝貢をするための船)が、全長31m、幅8mという堂々たる大きさで姿を見せてくれている。
鍾乳洞の中を歩くと、自然の力に圧倒されることは間違いない。
 

ひめゆりの塔で、亡くなった多くの人たちの霊に祈りをささげる。
ここは沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所で、6月18日に突如軍より解散命令が下されたが、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが亡くなり、生還者はわずかであったという。
波上宮の由来を見ると、「・・・昔の人々は、海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に、豊漁と豊穣に恵まれた平穏無事の生活を祈ったが、その聖地の一つとして日々の祈りを捧げたのが始まりとされる。・・・」とある。
正月には多くの初詣客で賑わい、東シナ海に沈む夕日が美しいことでも知られているらしい。
 

最後の日に首里城を訪れる。
龍潭池と呼ばれる龍の頭のような形の池をまず散策する。
二千円の図柄にも使われた守礼門、その扁額には琉球は礼節を重んずる国であるという意味を示す「守禮之邦」という言葉が書かれている。
そういうことで、気持ちを引き締めて場内へと入る。
 

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、第二尚氏王統第三代・尚真王によって1519年ごろ創建されたと記されている。
石門の背後にある森が園比屋武御嶽であり、国王が各地を巡行する際に必ず拝礼した場所とされている。
また聞得大君が就任するときにまず最初に拝礼した聖地でもあったという。
首里城正殿は工事中だったが中の見学は問題なく、国王が座る玉座も再現されている。
 

最後に歴代の王や王妃が眠る玉陵を訪れる。
”ぎょくりょう”と呼んでいたら、それはとんでもない間違いで、”たまうどぅん”と読むのが正しいらしい。
”玉うどん”と間違えてしまいそうで、沖縄の言葉の発音には戸惑ってしまう。
墓室は3つに分かれ、中央は洗骨前の遺骸を安置する部屋、東側には洗骨後の王と王妃、西側には玉陵碑に記されている一部の家族が葬られている。
昔の沖縄の葬儀は独特で、説明板によると。「・・・葬儀は埋葬と洗骨を別途行う二回葬で、埋葬した遺体を数年後に取り出して骨を洗い清め、木製や陶製の骨壷に移し替えて再び墓に戻す。檀家制度のない沖縄では、お墓は寺の境内に建てる小さなものではなく、一族意識が強いこの地方では、同族単位のお墓、門中墓が一般的とされている。・・・」とある。
今回は、厳粛というか、引き締まった気持ちで玉陵を出るという、特別な旅の締めくくりとなった。