クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

石神井公園からちひろ美術館へ

2013年05月26日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月10日
西武池袋線練馬高野台駅 → 長命寺 → 石神井池 → 三宝寺池 → 氷川神社 → 三宝寺 → 道場寺 → 郷土資料室 → 禅定院 → ちひろ美術館 → 西武新宿線上井草駅

練馬大根で有名な練馬だが、その一帯は豊島氏が治めた歴史あるところで、石神井公園の周りを散歩しながら昔の面影を偲ぶ。
東高野山とも呼ばれる長命寺、ここには奥の院まであるのが面白い。
 

長命寺では、沢山の石仏にお目にかかることができるので、ぜひ訪れて欲しいお薦めのお寺だと思う。
石神井池には、多くの釣り人が鮒や鯉を釣ろうと席を並べている。
 

三宝寺池は、井の頭池や善福寺池と並ぶ武蔵野三大湧水のひとつで、その静かな佇まいがとても印象的。
石神井郷の総鎮守として崇敬された氷川神社は、豊島氏が大宮の武蔵国一宮からその魂を勧請して石神井城内に祀ったことがその始まりという。
 

三宝寺には勝海舟の邸宅から移築した長屋門、十一面観音、根本大塔など、見るべきものが多くある。  
  

道場寺は文中元年(1372)に、石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を招いて創建したという。
見るべきものは三重塔で、どこから眺めてもその造りが立派で素晴らしい。
  

禅定院の境内にある寛文13年(1673)と刻まれた織部灯籠は、別名キリシタン灯籠といわれ、その造りが非常に珍しい石造物の一つに数えられいる。
  

今回の散策の最後は、子どもの幸せや平和をテーマに描き続けた故いわさきちひろの作品を展示する「ちひろ美術館」を訪れ、とても印象深い一日の終りを締めくくった。
 

旧川越街道を歩く

2013年03月18日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 2月27日
東武東上線東武練馬駅 → 北町観音堂 → 北町浅間神社 → 金乗院 → 円明院 → 城北中央公園 → 安養院 → 下頭橋 → 轡神社 → 東武東上線大山駅

1年半以上も前になるが、中山道の一番宿・板橋宿を訪れた時、平尾という所から川越街道が中山道から分岐し、江戸と川越を結んでいるということを知った。
その川越街道を東武練馬駅からスタートし、変遷する旧街道の面影を偲びながら歩いてみる。
まずは、天和2年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物がある北町観音堂に立ち寄る。
北町浅間神社の脇に高さ約5mの富士塚があり、ミニ富士登山を楽しめるのが面白い。
  

すぐ先には、石神井、保谷、田無、府中を経て伊勢原へ通じる大山道の分岐点が有り、見事な道標が置かれている。
富士講の人々も先ほどの富士塚の前を盛んに通っていたことが偲ばれる。
3代将軍徳川家光が、慶安2年(1649)鷹狩りの際に雨宿りしたと伝えられる金乗院を訪れる。
家光専用の山門と、境内には家光手植えの銀杏の古木がそびえている。
金乗院の末寺となるすぐ近くの円明院にも足を運ぶ。
  

鎌倉中期、正嘉元年(1257)に北条時頼が諸国行脚をしたとき、持仏「摩利支天」をこの地に安置し一堂を建立したことに始まるという安養院を訪れる。
石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力によって石橋に架け替えられ、それまで頻発した水難事故も跡を絶ったという。
 

下頭橋のすぐそばにある六蔵祠の由来だが、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたという話がある。
もとは轡権現社と呼ばれてい轡神社を訪れる。
この轡神社の名前の由来は、この地を訪れた徳川家康の愛用した馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれ、幼児の咳を取り除くと信仰を集めたという。

 

東海道4番宿 保土ヶ谷宿を歩く

2012年12月22日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 12月12日
相鉄線天王寺町駅 → 橘樹神社 → 旧帷子橋跡 → 香象院 → 見光寺 → 天徳院 → 大蓮寺 → 遍照寺 → 本陣跡 → 大仙寺 → 外川神社 → 旅籠金子屋跡 → 福聚寺 → 御所台の井戸 → 北向観音 → 圓福寺 → 安楽寺 → 杉山社 → 神明社 → 相鉄線天王町駅

今まで歩いた宿場町も神社寺院が多かったが、この保土ヶ谷宿も他の宿に引けを取らないその多さに驚かされる。
最初に訪れた橘樹(たちばな)神社は鎌倉時代初期(1186)の創建というから、けっこう古い。
江戸時代は牛頭天王社といい、天王町の由来ともなっている。
大蓮寺の開山は江戸時代初期(1625)というから、少し新しい。
この寺の始まりは、日蓮上人がここを訪れた際に泊まった家を、のちに門徒が法華堂に改修したことからという。
境内には、家康の側室おまんの方お手植えというざくろの木があったが、この季節は葉が落ちてしまって風情が少し感じられないのが残念。
  

遍照寺は真言宗の寺だが、開山の年代がはっきりしない(一説では876年開山と伝えられる)。
境内には、念仏百万遍の供養塔や岡野新田を開拓した岡野家の墓が置かれているとあり、探してみたがなかなか見つからない。
本陣とは、東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊した所で、説明板によると、「保土ヶ谷宿の本陣は、後北条氏の家臣・苅部豊前守康則の子孫が代々つとめ、安政六年(1859))横浜開港に際しては、当時の当主・清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くした」とある。
  

この宿でも最も古いとされるお寺の一つ、大仙寺を訪れる。
保土ヶ谷宿の本陣、脇本陣、茶屋本陣を勤めた者たちは、全てこの寺を菩提寺としたというから、かなり由緒のある寺に違いない。
外川神社は小児の虫封じ、そして航海安全に利益があるとされ、近年まで多くの人が訪れたという。
現在は少し荒れ果てており、これでは御利益が薄れてしまうのではと思ってしまう。
福聚寺の本堂の裏に、「東海道中膝栗毛」の作者である十返舎一九の弟子、五返舎半九の墓があるというのを後で知ったのは残念。
十返舎一九の弟子ということで、師匠の名をもじった弟子の名前が面白い。
  

福聚寺を後にして、次北条政子が鎌倉へ行く途中、ここで休んで、この井戸の水を汲んで化粧に使ったと伝えられる「御所台の井戸」に立ち寄る。
江戸時代には、将軍が保土ヶ谷宿の苅部本陣で休息した時に、御前水としてこの井戸の水を使用 したという。
北向観音は旅人の道中安全を祈願して造られたもので、柱には「是より左の方かなさわ道 是より右の方くめう寺道」と刻まれている。
「この地蔵の向きを変えても、いつの間にか北を向いている」という言葉しめやかな話が伝わっている。
最後に、平安時代中期(970)に創建され、この地と最も縁が深いという神明社を訪れる。
この地は伊勢神宮の御領地として寄進されたところで、榛谷御厨(はんがやのみくりや)と呼ばれ、その鎮守の杜として神明社が建立されたというから、確かにそれだけの由緒はある。
結構見所たくさんの保土ヶ谷宿ではあった。
  
 

吉祥寺から東伏見へ

2012年11月05日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★10月31日
吉祥寺駅 → 月窓寺 → 武蔵野八幡宮 → 欅並木(成蹊学園)→ 武蔵野中央公園 → 東伏見稲荷神社 → 武蔵関公園 → 西武新宿線東伏見駅

友人が良く通ったというハーモニカ横丁を経て、吉祥寺の街を北へ進む。
最初に寄った月窓寺、本堂左脇の観音堂に置かれている白衣観音坐像は武蔵野市内最古の銘(元禄二年)を持つという。
堂の傍には西遊記で有名な玄奘三蔵法師が、厳かに周りを見回している。
次に寄った武蔵野八幡宮、「・・・桓武天皇の御代の延暦八年、坂上田村麿が宇左八幡の分霊をここに祀ったと伝えられている。四代将軍家綱の頃に江戸小石川水道橋の吉祥寺が火事で延焼し、周辺の町民は開村された吉祥寺村に移住し、それ以来鎮守の杜として多くの人がお参りに来ました。・・・」とある。
 

成蹊学園の周りには、この学校ののシンボルともいえる欅の大木の並木が整然と並び、訪れる人の目を楽しませてくれる。
「残したい日本の音風景100選」に選ばれているのは、並木に立ち、目を閉じ、耳を澄ますと四季折々、実にさまざまな「音」が聞こえてくるからだという。
 

さらに足を進め、昭和4年に伏見稲荷大社から勧請して創建されたという東伏見稲荷大社を訪れる。
戦前、中島飛行機の社員研修所があり、鍛錬教育が行われていた所で、中島飛行機武蔵野製作所で亡くなった人々の慰霊碑が置かれている。
最後に訪れた武蔵関公園の場所は、関の溜め井と呼ぶ灌漑用の池があったところで、 大正時代には近くの若宮神社の名から付けた若宮遊園と呼ぶ遊園地だったという。
野鳥もたくさん見られる静かな公園で、多くの人々の憩いの場となっている。
  

秋葉原から浅草橋、柳橋、そして浜町あたりを歩く

2012年08月25日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★7月25日
JR秋葉原駅 → 秋葉原界隈 → 浅草橋問屋街 → 銀杏岡八幡神社 → 柳橋 → 薬研堀不動院 → 浜町公園 → 地下鉄人形町駅 

電気街、問屋街、そして江戸情緒がまだ残っている柳橋と浜町、そんな個性的な町を訪ねようと都心への電車に乗る。 
秋葉原界隈を歩くのは本当に久しぶりだが、周りじゅうが外国人(特に中国人)だらけで、海外の街を歩いている錯覚を覚えてしまう。
その先をずっと東の方へ歩いていくと、人形や玩具、服飾品とその生地やボタンなどを扱う店の看板が目立つ浅草橋問屋街にたどり着く。
銀杏岡八幡神社は、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だったこの地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。
祭神は八幡様の例に漏れず、誉田別命が祀られている。
大きな銀杏の木があるかと思ったが、残念ながら、江戸時代の大火で消失してしまったという。
神田川の一番下流で、隅田川に合流する河口のところに架かるアーチ型の美しい橋は柳橋と呼ばれている。
この辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、花街として新橋と共に明治以降の東京を代表する場所だったところ。
柳橋芸者は遊女とは違い、唄や踊りで立つ事を誇りとして、とてもプライドが高かったと云う。
 

この辺りからの隅田川の眺めは情緒があって、とても癒される。
たくさんの船や観光船が往来するし、川上へ目を向けると「蔵前橋」が、反対方面には「両国橋」が見える。
東京スカイツリーがよく見えるのも楽しい。
古くから目黒、目白と並び江戸三大不動として知られていた薬研堀不動院を訪れる。
境内には「講談発祥の碑」あり、赤松青左衛門が両国橋のたもとで、講談の公演を初めて行ったのだという。
順天堂の始祖・佐藤泰然が、天保9年(1838)和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあったらしい。
 

初夏の向島百花園を訪ねて

2012年08月07日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★6月13日
京成押上線京成曳舟駅 → 露伴児童公園 → 蓮花寺 → 向島百花園 → 白髭神社 → 東武伊勢崎線東向島駅

幸田露伴が明治41年から暮らした住宅(蝸牛庵)跡が、今は露伴児童公園となっていて、彼の代表作の一つ「運命」の冒頭が彫られている文学碑が置かれている。
「・・・世おのづから数というもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。・・・」
蓮花寺は寺島大師とも呼ばれ、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに江戸三大師の一つと言われている。
見てみたいものだが、本尊は空海自筆の弘法大師画像という。
この寺の由緒を紐解いてみると、「・・・鎌倉幕府第5代執権時頼が、兄の武蔵守経時追福のために、1246年に鎌倉佐介谷に創建した蓮華寺を、経時の子頼助が当地へ遷した・・・」と記されている。
 

お目当ての史跡名勝「向島百花園」に到着する。
約200年前の文化・文政時代、骨とう商を営んでいた佐原鞠塢によって創設され、多くの文人墨客が常連客として訪れ、庭造りにも江戸庶民の趣向がこらされたという。
その後、11代将軍家斉、昭和天皇、伊藤博文や乃木将軍など多くの人々が訪れたというから、とても魅力的な庭であることに間違いはない。
約360本の梅、ミヤギノハギ、筑波のススキなど、万葉集を代表とする古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようになっているのが嬉しい。
「百花園」の名称は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたという。
庭からスカイツリーが眺められるのも、新しい趣向かもしれない。
   

白髭神社は、天暦5年(951)に、慈覚大師が白髭大明神の分霊を祀ったのが始まりというから歴史はかなり古い。
祭神は猿田彦命だが、道案内の神、お客様を案内してくれる神として有名で、商売繁盛を祈願する人々が絶え間なく訪れるらしい。
 

中野を歩く~新井薬師から哲学堂公園へ

2012年06月23日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★4月25日
JR中野駅 → 犬屋敷跡の碑 → 新井薬師 → 新井薬師公園 → 北野神社 → 氷川神社 → 蓮花寺 → 哲学堂公園 → 西武新宿線新井薬師駅

駅を出るとすぐに賑やかなサンモール商店街が続く庶民の街・中野を訪れる。
有名なコンサートホール・中野サンプラザのすぐ隣にある中野区役所、その傍にある「犬屋敷跡の碑」は注意深く探さないとまず見逃してしまう。
この場所は説明文によると、「生類憐みの令」で有名な五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設があった処で、犬を囲って飼育したところから「お囲いご用屋敷」と言われ、旧町名「囲町」はこれに由来しているという。
敷地は現在の区役所を中心に30万坪に及び、8万数千頭もの犬がいたというから驚き。
今回のお目当て、庶民の信仰が篤い新井薬師へと向かう。
新井の名はこの地で新たに井戸を掘ったことに由来するが、この寺の井戸水(白龍権現水)は一般の人に開放されていて、多くの人々が飲水として汲みに来るらしい。
この寺は天正4年(1586)に開基され、弘法大師が自ら彫ったという薬師如来と如意輪観音像が本尊になっている。
二代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が眼の病気に罹ったとき、この薬師如来に回復祈願したところ、たちまち回復したという謂れがあるし、他には子育てなどにもご利益があるとされている。
  

今は釣り人がのんびりと竿を垂れている新井薬師公園、かつてはこの寺の境内だった所で、八の日の縁日には植木市が開かれ、屋台や見世物小屋が並び多くの人で賑わったらしい。
すぐ先にある新井一円の鎮守・北野神社は、新井薬師と同じく僧行春の創建と伝えられている。
境内には、若者たちが力比べに使ったという力石が奉納されている。
 

次に訪れた氷川神社の由緒を紐解くと、「・・・長元3年(1030)に源頼信が平忠常討伐の際に、武蔵国一宮・大宮氷川神社より勧請し祠を建てたことに始まる。文明9年(1477)には、太田道灌が豊島氏との戦の際にこの神社で戦勝祈願をし、凱旋後に社殿を造営した・・・」とある。
蓮花寺には哲学堂を創った井上円了の墓があり、自分の名前を表現したという井桁の上に円形の石を置いた形がユニーク。
 

哲学堂公園がある地は、鎌倉幕府創業の功臣だった和田義盛が陣屋をかまえた跡といわれ、和田山とも言い伝えられている。
哲学堂は、明治39年(1906)に哲学者で東洋大学の創始者・井上円了が哲学、社会教育の道場として建設したもの。
公園の中を歩くと、四聖堂(孔子、釈迦、ソクラテス、カントを奉っている)、六賢台、宇宙観など、哲学的な名称が付けられた施設が沢山並んでいて興味深い。
歩いている途中に見た狸燈と呼ばれる像の形が面白く、ついカメラのシャッターを切ってしまう。
桜の名所としても有名という事で、4月にもう一度訪れてゆっくと散策したいという気持ちに駆られる。
  

多摩川六郷橋緑地と聖蹟梅屋敷公園を訪ねて

2012年04月07日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★
京急雑色駅 → 安養寺 → 宝憧院 → 北野天神(止め天神)→ 多摩川六郷橋緑地 → 六郷神社 → 六郷水門 → 正覚寺 → 聖蹟梅屋敷公園 → 薭田神社 → 京急梅屋敷駅

最初に訪れた安養寺は、和銅3年(710)に行基が薬師・阿弥陀・釈迦の三尊像を安置したのが始まりというから、相当に古くて由緒のある寺である。
寺の入口の傍にある古川薬師道道標は、東海道筋の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、 正面と両側面に古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
境内にある冨士講碑の表面には100に近い講紋、講名、講員名が刻まれていて、このように多くの講名や講紋を刻んだ例は珍しく、富士講の分布を示す資料として貴重なものだという。
  

鎌倉時代に創建された真言宗の古刹、宝憧院を訪れる。
小田原北条氏や徳川歴代将軍の保護を受け、朱印状などの文書も伝えられている。
境内にある梵鐘は延宝9年(1681)に多摩川の河原で鋳造されたものだという。
 

北野天神(止め天神)には、次のような興味深い故事が伝えられている。
説明板には「・・・徳川八代将軍吉宗公が乗った馬が暴走した時、北野天神のご加護のおかげで落馬を免れたとされ、以来<落馬止め>が転じて<落ちない>につながり、<止め天神>として知られるようになった」とある。
多くの受験生が参拝に訪れる他、選挙立候補者、乗馬関係者もお参りに来るのだという。
童謡「通りゃんせ」がここで生まれたのかは不明だが、境内には「通りゃんせ」碑が置かれている。
 

多摩川六郷橋緑地と呼ばれる多摩川の河川敷には野球場やテニスコートが整備されている他、サイクリング道路も通じ、多くの人々が気持ちの良い汗を流している。
六郷神社は歴史が古く、源頼義と義家親子が奥州征伐に向かう際、杉の古木に白旗ををかけて祈願したのが始まりと言われている。
門前には梶原景時が寄進したという太鼓橋が、境内には旧六郷橋の親柱があり、この神社は見るべきものが多い。
 

六郷用水は耕作のため、徳川家康の命を受けた小泉次太夫により開削された用水路で、多摩川の水を狛江市で取り、野川、仙川などと合流し、世田谷区を通り、下流の大田区に注いでいた。
昭和に入って田畑が減少し、生活排水も増えた為、大雨の時など排水しきれず浸水する地域が広がっていったので、この六郷水門が昭和6年に設けられたという。
  

聖蹟梅屋敷公園の由緒は説明板によると、「・・・山本忠佐衛門という人が食あたりや暑気あたりに効く”和中散”という旅の常備薬の売薬所を開き、文政年間に子の久三郎が梅の名木を集めて東海道の休み茶屋を開いたことに始まる」とある。
現在はかなり小さい規模の公園となってしまったが、12代将軍徳川家慶の鷹狩りの際の休み所にもなり、明治以降も明治天皇の行幸が9度にも及んだというから、かなりの名所であったことは間違いない。
最後に「延喜式」の神名帳に記載された古社という薭田神社を訪れる。
和銅2年(709)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが始まりと、社伝に書かれているかなり古い神社である。
正面の石鳥居は、柱背面の銘文に寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、大田区内の中でも古いものの一つだという。
  

武蔵野の面影を求めて~善福寺池から妙正寺へ

2012年02月26日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★
JR西荻窪駅 → 東京女子大学 → 善福寺公園 → 井草八幡宮 → 浅間神社 → 観泉寺 → 妙正寺 → 妙正寺公園 → 天祖神社 → 井荻駅

友人が子供の頃に毎日のように訪れよく遊んだという善福寺公園、八幡宮、それからお寺などを訪ね、昔の思い出話などを聞きながら散策を重ねる。
東京女子大学の初代学長は「武士道」の著作で有名な新渡戸稲造、「われ、太平洋の橋とならん」の言葉でもよく知られている。
日本に女子の大学教育がなかった時代に、国際社会を見据えた女子高等教育をここから始めたと言ってよい。
昭和6年(1931)に建てられた東京女子大学の本館はアントニン・レーモンドによる設計で、のびやかな軒の形が特徴とされていて見学したかったのだが、残念ながら要予約ということで門前払いの憂き目に合う。
すぐ先の善福寺公園に到着、中心をなす善福寺池は古来より武蔵野台地からの湧水池として知られていて、まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源とされていた。
善福寺の名は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、その寺は江戸時代に廃寺となっている。
ややこしいことに近辺に「善福寺」という名の寺があるが、これは福寿庵という元々違う名前だった寺で、本来の池の名前の由来にはなっていない。
 

源頼朝が奥州征伐の際にこの地に宿陣、飲水を探して弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅かった。
ここの地の旧名が「遅の井」と言われた所以とされている。
弁財天に祈りやっと水を得たという言い伝えにならい、建久8年(1197)に江ノ島弁財天を勧請したのがこの市杵島神社の始まりで、旱魃の折には雨乞い祈願に、近隣の練馬や中野の村から多くの人が訪れてきたという。
井草八幡宮は旧上、下井草村の鎮守とされ、明治時代まで遅野井八幡宮とも呼ばれている。
源頼朝が奥州征討の戦勝を祈願して手植したという境内の大きな松を探したが見当たらない。
説明板によると、残念ながら枯れてしまったらしい。
 

戦国大名の今川家の菩提寺で、累代の墓所があるという観泉寺を訪れる。
菩提となった経緯を調べてみると、「・・・今川氏は室町戦国時代は駿河国などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に敗れてしまう。義元の子、今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、後に江戸で没する。氏真の孫、今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績により徳川家光から井草村を含む知行地を与えられる。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点となり、領民からの年貢の取立てや裁判などを寺の門前で行っている。その今川氏も明治時代に断絶してしまう。・・・」とあり、ここの地名<今川>の由来となって、今川氏はその名を残している。
 

最後に、文和元年(1352)の創建で三十番神堂として知られる日蓮宗の寺、妙正寺を訪れる
三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄り、神前に武運長久を祈願して葵の紋幕と朱印地五石を寄進し、以来「御朱印寺」として有名になっている。
近くの天祖神社の由来を見ると、「・・・新編武蔵風土記稿・多摩郡下井草村の条に”十羅刹堂”とあり、妙正寺御朱印地ノ内ナリ即此ノ寺ノ持・・・」と記されている。
十羅刹とはもとは人を食う悪魔だったが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれている。
日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀った言われがよくわかる。
 

ファッションストリートの街、恵比寿から代官山の古き面影を訪ねる

2012年02月16日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★
JR恵比寿駅 → 恵比寿神社 → 代官山アドレス → 猿楽古代住居跡 → ヒルサイドテラス → 猿楽塚 → 西郷山公園 → 氷川神社 → 井の頭線駒場東大前駅

最新のファッションストリートと言われる恵比寿から代官山、そんな街にもあるはずの古き面影を訪ねる。
「恵比寿」の地名は、この地に置かれた日本麦酒醸造会社の工場に由来するという。
明治23年(1890)、ラベルにえびす様をあつらった「恵比寿ビール」が発売され、ビール出荷専用の貨物駅として山手線に恵比寿駅が開設されてから、徐々に周辺が「恵比寿」と呼ばれるようになったらしい。
そういうことで、まずは、家内安全・無病息災・五穀豊穣の神々を祀った「恵比寿神社」を訪れる。
元々は「天津神社」という神社で、「大六様」と呼ばれていたところ。
関東大震災後に建設された全36棟の同潤会アパートを取り壊した跡地に建てられた超高層住宅や商業施設、ニューヨーク近代美術館も手がけたR・ザイオン氏デザインによる代官山アドレスに立ち寄る。
猿楽古代住居跡公園は弥生時代後期の古代住居跡で、壺や甕、高坏などの破片が出土したところ。
復元された古代住居が焼失してしまったので、現在はコンクリートで固められた住居跡が保存されている。


昭和44年(1969)から20数年かけて完成されたという、ギャラリー、カフェ、レストラン、オフィスなどが建ち並ぶヒルサイドテラスを訪れる。
低層で周囲の風景を圧迫しない広がりのある建築デザインが特徴なのだという。
すぐ先にある猿楽塚は、六~七世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種とされている。
円墳が二基あって、高さ五メートルほどの大型の方を昔から猿楽塚と呼んでいて、この辺の町名(猿楽)の起源となっている。


展望が素晴らしい西郷山公園は、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後の竹田城主・中川候の抱え屋敷だったところ。
明治になって、西郷隆盛の弟・従道が、郷里鹿児島に帰った兄の再起を願い、約6haにおよぶこの地を購入する。
隆盛が西南戦争で敗れ他界した後、従道はここに別宅を構え、木造二階建ての洋館や、書院づくりの和館などを建てる。
池を中心とした回遊式の庭園も設けられ、明治天皇も訪れたほどの東洋一の名園だったという。
残された洋館は昭和38年に愛知県犬山市の「明治村」に移され、その後、国の重要文化財に指定されている。
上目黒の氷川神社は、天正年間(1573~1592)に旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたのが始まりとされている。
祭神は素戔嗚尊、天照大御神、菅原道真が祀られており、氏子たちは疫病を知らずと言い伝えられて地域の人々の信仰を集めてきたという。
富士講が盛んだった江戸時代には目黒富士が築かれたが、それを示す石祠や碑が境内に移されて残っている。




湘南を代表する景勝地、「江ノ島」を散策

2012年02月02日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★
江ノ島神社・辺津宮 → 江の島神社・中津宮 → 江の島神社・奥津宮 → 山田検校の碑・八方睨みの亀 → 江ノ島岩屋

江ノ島は言わずと知れた湘南を代表する景勝地で、江戸時代後期には庶民の行楽地として大山 - 江ノ島 - 鎌倉 - 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行したという。
福岡の宗像大社や広島の厳島神社と同じく、江ノ島神社は天照大御神が素戔嗚尊と誓約された時に生まれた三人姉妹を祀っている。
平日にも関わらず、田寸津比賣命を祀る辺津宮と弁財天を祀る奉安殿には、多くの観光客が訪れて参拝を欠かさない。
 

市杵島比賣命を祀る中津宮、そして多紀理比賣命を祀る奥津宮へと足を進める。
ここでは、北条氏の「三つ鱗の紋所」の由緒となった龍神伝説に触れないわけにはいかない。
『太平記』によると、「・・・鎌倉時代の初め、北条時政は子孫の繁栄祈願のため、35日間江ノ島に参龍します。満願の夜に赤い袴の弁財天が現れ、龍になって海中に姿を消します。時政は残された3枚の鱗を手に取り祈願成就と喜び、自分の旗印とします」とあります。
 

奥津宮の境内には、山田流琴曲の開祖・山田検校の碑が置かれている。
彼の代表作には、江ノ島に滞在して構想を練ったという「江の島曲」があり、そんな関係で碑が建てられたという。
奥津宮拝殿の天井には、どの方向から見てもこっちを睨んでいる様に見える、八方睨みの亀の絵が掲げられている。
 

江ノ島岩屋は海水の浸食によってできた洞窟だが、弘法大師や日蓮上人が修行し、源頼朝が戦勝祈願した場所としても有名で、ここを寄らないで江ノ島を離れる訳にはいかない。
 

日光街道一番宿、千住宿を歩く

2012年01月25日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★
JR南千住駅 → 回向院・首切り地蔵 → 素盞雄神社 → 荒川ふるさと文化館 → 千住大橋・大橋公園 → 勝専寺 → 横山家 → 名倉病院 → 荒川 → JR北千住駅

日光街道の一番宿として千住が定められたのが寛永2年(1625)、そんな当時の面影を訪ねてみようと小塚原から北へと千住宿を歩く。
小塚原の刑場で、明治の初年までに処刑された人の数は約20万人だという。
そんな人たちの魂も鎮めている回向院は、寛文7年(1667)に本所回向院の住職だった弟誉義観によって開山されている。
安政の大獄で処刑された橋本左内や吉田松陰もその寺に葬られているが、行ってみるとそのお墓はひっそりと目立たない状態で置かれている。
回向院には、昭和8年(1771)に刑死者の腑分けに参加したことがきっかけとなって「解体新書」を作ったという杉田玄白の碑も建てられている。
刑死者のために建立された首切り地蔵だが、この間の大震災で倒れてしまい、それこそ手足バラバラの状態で台座の横に無造作に置かれているのがとても気になる。
  

地元では通称「お天王さま」と呼ばれている素盞雄神社を訪れる。
千住は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られていて、境内には芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑が置かれている。
この神社の説明板には、「役小角の弟子・黒珍が東方にある小高い塚を霊場と崇めて日夜礼拝していたところ、延暦14年(795)の夜に、石が微妙な光を放ち翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託をつげた。そのため、その石は瑞光石と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀っている」という興味ある話が書かれている。
 

千住大橋を渡りすぐ横の大橋公園に行くと、「奥の細道」へと旅立つ芭蕉の気持ちを表した名文、「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」が壁に大きく記されている。
宿場町の名残を今に伝える横山家は江戸後期に建てられた商家で、中には入れなかったが、広い土間や商家の書院造と言われる帳場2階の大きな格子窓などが特徴とされている。
 

朱塗りの山門が色鮮やかで、赤門寺とも呼ばれていう勝専寺、左側にある閻魔堂の中に大きな閻魔大王が安置されていて、ご開帳となる「おえんまさまの縁日(1月と7月の15・16日)」には多くの人々が訪れ、万病、特に御利益があるという喉の病気の回復を願うのだという。
 

骨つぎと言えば名倉と言われるほど、関東一円にその名を知られていた名倉医院、入口の長屋門が江戸時代の名残を留めている。
1770年頃から柔術や剣道を教えるかたわらで骨つぎを手がけ、門前の広場には、遠くから治療に訪れた患者の駕篭や大八車がひしめいていたと言う。
昔ながらの建物を眺めながら進むと、荒川の土手に突き当たる。
急に視界が広々と開けて、緩やかに流れる荒川と澄み渡った青空を眺めていると、自然と爽やかな気持ちになってくる。
 

中山道一番宿、板橋宿を歩く

2011年11月11日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 9月28日
JR板橋駅 → 近藤勇の墓 → 東光寺 → 観明寺 → 遍照寺 → 板橋宿本陣跡 → 文殊院 → 板橋 → 縁切榎 → 東板橋公園 → 加賀公園 → JR板橋駅

江戸四宿をあげると東海道が品川宿、甲州街道が内藤新宿、奥州街道・日光街道が千住宿、そして中山道が板橋宿となる。 中山道一番宿の面影が、どのくらい残っているのか、そんなことを思いながら家を出る。

板橋駅を出ると、道路をはさんだすぐ向こうに近藤勇の墓がある。 板橋刑場で斬られた近藤勇の首は、京都三条大橋で晒されたが、遺体の一部は親族がひそかに持ち去り、三鷹の龍源寺に埋葬したという。
ここにあるのは墓碑で、新撰組隊士だった長倉新八によって建てられたもので、すぐ横には長倉新八自身の碑も建てられている。
 

東光寺には、関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家の墓がある。
前田利家の四女・豪姫は、秀吉の養女となり、後に宇喜多秀家に嫁いでいるのと、板橋は加賀藩前田家の下屋敷があったところなので、そんな関係からここに宇喜多秀家の墓があるのだと思う。
脇には秀家の無念な思いを鎮めるかのように大きな地蔵菩薩坐像が置かれ、さらには庚申塔なども並べられている。
付近は「平尾の追分」と呼ばれており、中山道から川越街道が分岐していた所だという。
   

中山道の板橋宿に入る通りの角に、「これより板橋宿」と書かれた大きな看板が掲げられている。
ついでにということで、英泉の画になる浮世絵「木曾街道六十九次 板橋の宿」を載せておこう。
 

観明寺(真言宗)は下総の成田山新勝寺の流れを汲み、門前は出世不動通りと呼ばれ、遊郭なども並んで、とても繁盛したという。 加賀藩前田家の下屋敷から移されたという稲荷神社、欄干の龍の彫刻は左甚五郎作なのだが、網が張っていてよく見えないのが残念。
参道入り口には、都内でも最も古いもののひとつという寛文元年(1661)銘の庚申塔がおかれている。
  

遍照寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、成田山新勝寺の道場を経て、戦後に真言宗の寺として復活している。
宿には馬繋ぎ場がつきものだが、その名残として参道脇には、世話になった馬を偲んだ馬頭観音などが並んでいる。
大名や公家の宿泊に使われた板橋宿の本陣は建坪97坪という広壮な建物だったが、明治23年(1890)に残念にも焼失してしまい、今は本陣跡だったことを示す案内板だけがあるのみ。
近くにある文殊院を訪れると、境内には延命地蔵や足腰の守り神である子の権現が祀られている。
 

墓地には板橋の宿で働いていたと思われる遊女の霊を悼む墓が置かれている。
板橋のたもとには、「距 日本橋二里ニ十五町三十三間」と書かれた柱が立ち、欄干が昔の雰囲気を模している。
「江戸名所図会」に描かれている木造の太鼓橋の上で、洋学者で画家の渡辺崋山は、少年時代に養子に行く弟との別れを惜しんだという。
少し先には縁切榎と名のついた木が祀られている。
この榎の木の下を婚礼の行列を通ると、その縁組は不縁になるとの言い伝えがあり、皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ際には、迂回路を新たに造って、そこを通ったと云う話が残っている。
樹皮を茶や酒に混ぜて夫に飲ませると離縁できると信じられ、「板橋へ三くだり半の札参り」という川柳も作られたという。
  

石神井川に沿った東板橋公園を進むと、その先に加賀公園が見えてくる。 加賀藩前田家の下屋敷だった所で、幕府から6万坪を拝領したのが始りと云い、その後ほかの下屋敷を返上して面積を広げ、約21万坪の広大なものになった。
この地に火薬製造所が造られた為、終戦時はアメリカ軍の空爆の標的にされ、あたりは焼け野原になってしまったのは、とにかく残念としか言いようがない。
 

高麗の郷を歩く~高麗神社から巾着田へ

2011年10月23日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★★ 9月23日
JR八高線高麗川駅 → 高麗家住宅 → 高麗神社 → 聖天院 → 巾着田 → 西武秩父線高麗駅

現在の埼玉県日高市高麗川(昔の高麗郷)は、多くの高句麗の渡来人が居住したところで、「続日本記」霊亀二年(716)五月十六日の条には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七か国にいる高麗人千七百九十九人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた・・・との記述がある。
そんな高句麗の人々が居住した面影が残る地を訪ねたい思いに駆られ、高麗川の駅に降り立った。

高麗神社の手前を流れる高麗川に架かる橋は、出世橋と名付けられている。
浜口雄幸、若槻礼次郎、齋藤実、幣原喜重郎、そして鳩山一郎などの首相が、この神社にお参りをしたらしい。
高麗神社の祭神は、高麗王若光・猿田彦命・竹内宿禰の三神が祀られているが、やはり中心になるのは若光で、「続日本紀」大宝三年(703)四月の条に、從五位下の位にある高麗若光に王(こきし)の姓が与えられた・・・とあるから、首長として高麗の郷を立派に治める力があったに違いない。
故郷の地に似た高麗の郷を居住地として選び、東国に分散していた高麗の人々を集めて暮らしたいと天皇に提言したのも、彼だったのではないかと思う。
 

666年に外交使節として飛鳥にやってきた若光達だが、2年後には高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされて、帰る国を失ってしまう。
その後、彼は船で太平洋を東に進み、東国の相模湾から今でも高麗の地名が残る大磯町に上陸する。
北陸(越)から長野、山梨を経て関東平野には古くから高句麗の文化が伝えられていたし、長野県に多数見つかる高句麗式の墳墓、山梨に残る巨摩の地名などは決して偶然ではないはず。
高麗神社の脇には、この神社に訪れた韓流スターのチェ・スジョン<大祚榮・海神・太祖王建>、ソン・イルグク<朱蒙・風の国>、キム・ナムギル<善徳女王>の手形が置かれている。
参道の脇には、李王朝最後の皇太子であった李垠、李方子殿下御手植えの木がかなりの大きさになっている。
 

神社のすぐ裏にある高麗家住宅は代々高麗神社の神職を勤めてきた高麗家の旧宅で、本家だけが高麗を名乗っている。
入母屋造の屋根が特徴的で、建築年代は慶長年間(1596~1615)と伝えられている。
 

すぐ近くの高麗山聖天院勝楽寺は高麗王若光の菩提を弔うため、王の侍念僧勝楽と弟子が開いたとされるお寺で、本尊は王の守護仏であった聖天尊(歓喜天)となっている。
山門の前には将軍標が置かれているが、これは農村の入口などに建てられる魔除けで「天下大将軍」と「地下女将軍」が対になっており、「天下」と「地下」は目に見える世界から見えない世界まですべてを守ることを示している。
この寺にある釣鐘は、鋳物師の集団として有名な物部師一族・物部季重の鋳造になるもので、一見の価値がある。
 

山門を入った右には、純然たる朝鮮様式の多重塔だという高麗王若光の墓があり、訪れる人々が熱心にお祈りを捧げている。
寺の裏山を少し進むと広場があり、そこに伝説上の古朝鮮初代王・壇君をはじめ、好太王碑で有名な広開土大王、太宗武烈王<金春秋>など、韓国歴史上の有名人の石像が並べられているのが面白い。
 

日本一の曼珠沙華の名所として知られる巾着田は、高麗川が蛇行して形成した自然の地形だが、北側の日和田山から見ると巾着のような形をしていることから、そう呼ばれているとのこと。
訪れた日がお彼岸だったせいか巾着田は人々がいっぱいで、人波をかき分けての彼岸花鑑賞となってしまった。
  
日高市、高麗神社から聖天院へ
「古代朝鮮日本文化」「日本の中の朝鮮文化」

湯島から御茶ノ水、神保町の史跡を巡る

2011年09月22日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 8月30日
千代田線湯島駅 → 旧岩崎邸庭園 → 湯島天神 → 神田明神 → 湯島聖堂 → ニコライ堂 → 明治大学博物館 → 山の上ホテル → 神田すずらん通り → 東京メトロ神保町駅

まず最初に三菱創業者・岩崎彌太郎の長男、岩崎久彌(三代目社長)が居住した旧岩崎邸跡を訪れる。
この地は江戸時代に越後高田藩の榊原氏、明治時代には舞鶴藩の牧野氏の屋敷があった所で、良く見ると大名庭園の名残が随所に見られる。
洋館、山小屋風の撞球室、そして書院造りの和館は、英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計になるもので、ほかに鹿鳴館(現存せず)やニコライ堂、三井倶楽部なども手がけたというから、かなりの人だったと思う。
岩崎邸のすぐ脇にある三菱史料館では、岩崎彌太郎にはじまる三菱の歴史が細かく展示されている。
  

「湯島の白梅」で有名な湯島天神、お蔦と早瀬主税が別れを告げる舞台となった泉鏡花の「婦系図」の一シーンが偲ばれる。
境内には泉鏡花筆塚もあり、「湯島通れば想い出す、お蔦主税の・・・」という歌の一節がつい口に出てしまう。
祭神はもちろん菅原道真で、2月は観梅の人々と受験生の合格祈願でかなりの賑わいを見せるという。
この神社、太田道灌や徳川家の崇敬を受けて発展し、今は相当な作りの社殿になっている。
 

私などは時代劇が好きなせいか、神田明神というとすぐに銭形平次、もちろん大川橋蔵の目明し姿が頭の中に浮かんでしまう。
ここは平将門を祀る神社で、江戸城鬼門守護、江戸総鎮守として徳川幕府の保護を受けてきた所。
庶民の信仰も集め、山王祭と並び幕府公認の「天下祭り」と言われた神田祭を知らない人はいないはずで、2年に1度の本祭りは、70基の神輿の渡御も行われるという盛大なもの。
 

銭形平次の碑の前で、TVドラマでたくさんの時間を楽しませてくれたことに感謝しつつ、明神様を後にする。
湯島聖堂の由緒をたどってみると、次のようになる。
「・・・江戸時代の儒学者・林羅山は上野の邸内に孔子を祀る廟を建て、五代将軍綱吉がそれを現在地に移します。松平定信は、寛政の改革で昌平坂学問所と名を改め、儒学教育の中心地とします。綱吉は羅山の孫信篤(鳳岡)を大学頭に任じ、信篤の子孫が代々大学頭となり<林家(りんけ)>と称されて文教を司り、儒学・朱子学が大いに盛んになっていきます・・・」
 

公開時間の関係で、大成殿の内部を見れなかったのが残念。
ニコライ聖堂の正式な名称は、日本ハリスト正教会教団復活大聖堂で、明治3年(1870)布教のため来日したロシア正教ニコライ大司教によって建設されている。
日本最大のビザンチン様式の教会で、建築当初は東京一円を展望できたというから、訪れた人々は仰ぎ見るようなその大きさにただただ圧倒されたのではないかと思う。
大久保彦左衛門の屋敷跡は杏雲堂病院の角にあるが、ひっそりと碑があるのみなので、気を付けないとつい見過ごしてしまう。
  

明治大学博物館の刑事部門の展示コーナーには、身の毛もよだつような拷問器具がずらっと並んでいて、見ていると罪も犯していないのに恐ろしい気がしてきてしまう。
内部に釘がぎっしりと詰まっている「ニュルンベルグの鉄の処女」が印象的で、思わずカメラのシャッター切ってしまう程だった。
「神田すずらん通り」は、大型書店や専門書店などが連なる本屋街として知られている通りで、関東大震災や戦禍を潜り抜けて来たという文房堂の建物の外壁は、たしかに見応えがある。