コース順路:コース満足度★★★★ 9月28日
JR板橋駅 → 近藤勇の墓 → 東光寺 → 観明寺 → 遍照寺 → 板橋宿本陣跡 → 文殊院 → 板橋 → 縁切榎 → 東板橋公園 → 加賀公園 → JR板橋駅
江戸四宿をあげると東海道が品川宿、甲州街道が内藤新宿、奥州街道・日光街道が千住宿、そして中山道が板橋宿となる。 中山道一番宿の面影が、どのくらい残っているのか、そんなことを思いながら家を出る。
板橋駅を出ると、道路をはさんだすぐ向こうに近藤勇の墓がある。 板橋刑場で斬られた近藤勇の首は、京都三条大橋で晒されたが、遺体の一部は親族がひそかに持ち去り、三鷹の龍源寺に埋葬したという。
ここにあるのは墓碑で、新撰組隊士だった長倉新八によって建てられたもので、すぐ横には長倉新八自身の碑も建てられている。
東光寺には、関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家の墓がある。
前田利家の四女・豪姫は、秀吉の養女となり、後に宇喜多秀家に嫁いでいるのと、板橋は加賀藩前田家の下屋敷があったところなので、そんな関係からここに宇喜多秀家の墓があるのだと思う。
脇には秀家の無念な思いを鎮めるかのように大きな地蔵菩薩坐像が置かれ、さらには庚申塔なども並べられている。
付近は「平尾の追分」と呼ばれており、中山道から川越街道が分岐していた所だという。
中山道の板橋宿に入る通りの角に、「これより板橋宿」と書かれた大きな看板が掲げられている。
ついでにということで、英泉の画になる浮世絵「木曾街道六十九次 板橋の宿」を載せておこう。
観明寺(真言宗)は下総の成田山新勝寺の流れを汲み、門前は出世不動通りと呼ばれ、遊郭なども並んで、とても繁盛したという。 加賀藩前田家の下屋敷から移されたという稲荷神社、欄干の龍の彫刻は左甚五郎作なのだが、網が張っていてよく見えないのが残念。
参道入り口には、都内でも最も古いもののひとつという寛文元年(1661)銘の庚申塔がおかれている。
遍照寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、成田山新勝寺の道場を経て、戦後に真言宗の寺として復活している。
宿には馬繋ぎ場がつきものだが、その名残として参道脇には、世話になった馬を偲んだ馬頭観音などが並んでいる。
大名や公家の宿泊に使われた板橋宿の本陣は建坪97坪という広壮な建物だったが、明治23年(1890)に残念にも焼失してしまい、今は本陣跡だったことを示す案内板だけがあるのみ。
近くにある文殊院を訪れると、境内には延命地蔵や足腰の守り神である子の権現が祀られている。
墓地には板橋の宿で働いていたと思われる遊女の霊を悼む墓が置かれている。
板橋のたもとには、「距 日本橋二里ニ十五町三十三間」と書かれた柱が立ち、欄干が昔の雰囲気を模している。
「江戸名所図会」に描かれている木造の太鼓橋の上で、洋学者で画家の渡辺崋山は、少年時代に養子に行く弟との別れを惜しんだという。
少し先には縁切榎と名のついた木が祀られている。
この榎の木の下を婚礼の行列を通ると、その縁組は不縁になるとの言い伝えがあり、皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ際には、迂回路を新たに造って、そこを通ったと云う話が残っている。
樹皮を茶や酒に混ぜて夫に飲ませると離縁できると信じられ、「板橋へ三くだり半の札参り」という川柳も作られたという。
石神井川に沿った東板橋公園を進むと、その先に加賀公園が見えてくる。 加賀藩前田家の下屋敷だった所で、幕府から6万坪を拝領したのが始りと云い、その後ほかの下屋敷を返上して面積を広げ、約21万坪の広大なものになった。
この地に火薬製造所が造られた為、終戦時はアメリカ軍の空爆の標的にされ、あたりは焼け野原になってしまったのは、とにかく残念としか言いようがない。