クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

横浜山手イタリア山庭園から中華街へ

2010年07月27日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★
JR根岸線石川町駅→山手イタリア山庭園→山手カトリック教会→庭球発祥の地→ベーリック・ホール→ブリキのおもちゃ博物館→山手資料館→イギリス館→港の見える丘公園→韓国総領事館→大佛次郎記念館→横浜外国人墓地→元町公園→中華街→JR桜木町駅

東洋と西洋の文化が融合する港町、昔の洋館が残る横浜山手のあたりを友人の案内で散策する。
最初に訪れた山手イタリア山庭園は、明治時代にイタリア領事館があったところで、洋式庭園と移築された山手西洋館がほど良くマッチしている。
赤い屋根のブラフ18番舘は大正末期に横浜山手に建てられた外国人住宅で、1993年にここに移築されている。
洒落た洋式庭園の背景に建つ外交官の家は、渋谷にあった明治政府の外交官内田氏の邸宅で、こちらも1997年にここに移築されている。
すぐ先の山手カトリック教会は、尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った典型的なゴシック様式の教会建築で、内部には細かな装飾が施された列柱などを備えている。
    

美しい礼拝堂を見ると、山手カトリック教会が日本一美しい聖堂と呼ばれる所以がよくわかる。
教会の横の道を進むと、「日本庭球発祥之地」の碑がある山手公園にたどり着く。
わが国初の洋式公園として、明治4年(1871)に外国人専用のレクリエーションの場として作られている。
明治11年には、近くの居留地に住む婦人たちがテニスクラブを結成してこの公園にテニスコートを作り、今ではこの場所が日本における「庭球発祥の地」と言われる所以になっている。
テニス博物館には、当時テニスを楽しんだ婦人たちの人形が展示されている。
    

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商ベリックの邸宅として、1930年アメリカ人建築家モーガンの設計により建造されたもの。
スパニッシュスタイルの洋館は異国情緒あふれる雰囲気を醸し出していて、少し離れたところから絵筆を手にしてこの建物をスケッチしている人々が多いのに驚く。
ブリキのおもちゃ博物館には入らなかったが、館内には1890年代から1960年代にかけて製造されたおもちゃ約3000点が展示されているのだという。
 

山手資料館は横浜に現存する明治時代の唯一の木造西洋館と言われている。
時間がなくて中には入らなかったが、館内にはポンチ絵、横浜浮世絵、オルガン、ギヤマンなど当時の外国人の暮らしや風俗を伝える資料が展示されているとのこと。
イギリス館の建つあたりは、文久3年(1863)に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地となった所らしい。
 

港の見える丘公園から少し外れた所に神奈川近代文学館があるが、このあたりから見るベイブリッジの眺めが素晴らしい。
韓国総領事館の前には守衛が緊張した趣で立っており、訪れる人が気楽に中には入りにくい雰囲気がする。
 

大佛次郎記念館を訪れる。
大佛次郎は横浜で生まれ、そして横浜を最も多く描いた作家で、「霧笛」や「幻燈」などの作品は開化期の横浜を愛惜をこめて書いているらしい。
代表作には「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」「帰郷」「赤穂浪士」などがあり、「鞍馬天狗」の作者としても親しまれているのだが、私などは忠臣蔵と嵐勘十郎の映画で間接的に親しんでいる位なので何か申し訳ない気持ちになってしまう。
また館内には、愛猫家であった大佛次郎が所蔵していた猫の置物が多数展示されてる。
 


横浜外国人墓地資料館に入ると、モーゼの十戒を描いたステンドグラスが目に入る。
横浜外国人墓地はペリー艦隊の2回目の来航時(1854年)に事故死した水兵を埋葬したことが始まりで、現在の墓石数は約2500ほどになるという。
土地は日本国からの無償貸与になっているらしい。
 

外人墓地から下ったところにある元町公園は横浜港開港まもない頃に、フランス人ジェラールがここからわき出る良質の天然水を居留民や内外船舶に飲料水として供給していた所で、当時は「水屋敷」と呼ばれていたと説明書きにある。
元町を抜け、一路中華街に向かう。
たくさんの店先に置いてあるランチタイムの看板に目をやると、この辺りも価格競争の波に襲われているのか、その料金が安いのに驚かされる。
最後に神奈川県庁の屋上に上って横浜港を一望、隠れた名所だけあってそこからの眺めは素晴らしい。
    


駒場野公園と美術館・文学館めぐり

2010年07月17日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 6月27日
駒場東大前(京王井の頭線)→駒場野公園→日本民藝館→駒場公園・和館→旧前田侯爵邸→日本近代文学館→鍋島松涛公園→渋谷区立松涛美術館→神泉(京王井の頭線)

柳宗悦没後50年の記念公開講座「柳宗悦に学ぶ_日韓文化交流の礎」の模様を6月23日のブログで紹介したが、それと並行して駒場にある日本民藝館で開催されていた「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を見なくてはと、最終日の6月27日にあわてての訪問を行う。

まず最初に訪れた駒場野公園は、明治維新後に駒場農学校が造られ近代農業の取り組みがされたところ。
ドイツ人教師のオスカー・ケルネルが肥料実験をしたというケルネル田園が残っている。
一番の目的である「日本民藝館」は、民藝運動の創始者で美学者の柳宗悦を中心に、昭和11年に開館されている。
生活の中から生まれ、日常生活に使われてきた陶磁器や織物、染物、木漆工、紙工、竹工などの工芸品、約17000点が収蔵されており、収蔵品を中心に常時500点が展示され3ヶ月ごとに陳列替えされているという。
柳宗悦没後50年を記念して展示された朝鮮陶磁の数々は、素人目の私にもなかなか美しくそして奥ゆかしく感じられるものであった。
朝鮮陶磁についてパンフレットの説明から一部抜粋すると、「・・・”李朝陶磁”の名で知られている朝鮮時代の陶磁器の真価を広く世に知らしめたのは、他ならぬ柳宗悦の功績であったといえましょう。柳は朝鮮固有の造形美をそこに見出し、また美の創造主としての民族の姿を発見したのでした。そして、朝鮮陶磁器の展覧会を通して、それらの価値を広く世に問うと共に、その美しさに触発されて朝鮮の芸術に関する数々の論考を発表していったのです。・・・」とある。
  

少し先を行くと緑に包まれた駒場公園の中にある前田侯爵邸・和館が訪れる人を温かく迎えてくれる。
重厚な床の間、違い棚、欄干の透かし彫りなどの美しい造りを昔のままに見ることができ、その建物の奥にある手入れの行き届いた日本庭園は、どの季節に訪れても美しさと静けさが変わらない素晴らしい雰囲気を提供してくれている。
 

旧前田侯爵邸であった立派な洋館は、加賀前田家16代当主前田利為の本邸として、昭和4年(1929)に欧州建築の粋を集めて建築され、当時東洋一の邸宅と称せられたもの。
建物の中は無料で開放されているのが信じられないほどの立派な造り(イギリスのチューダー様式)で、徳川時代から続いた加賀百万石と呼ばれる加賀藩の豪勢な財力のほどが偲ばれる。
すぐ近くにある日本近代文学館は、1962年に散逸のはなはだしい近代文学関係の資料を収集保存するため、文壇・学界・マスコミ関係の有志によって発起され、建てられたもの。
その日は残念ながら休館日ということで、開催中の「芥川龍之介~内なる歓びと苦悩」展は見れずじまいだった。
 

しばらく歩いて、静かな趣の鍋島松涛公園に到着する。
説明板によると、この公園は紀州徳川家の下屋敷だった所で、後に鍋島家が所有し松濤園という茶園を造ったのが始まりだという。
松濤とは茶の湯のたぎる音から出た名で、この辺の地名の出となっている。
緑に囲まれた池のほとりに、しばし静かで気持ちの良い時間を過ごせる公園だと思う。
最後に訪れた渋谷区立松涛美術館は荘重な花崗岩づくりの美術館で、絵画、彫刻、工芸など幅広い分野・時代にわたる特別展が随時開催されている。
区立の美術館なので60歳以上は入館無料、少しうれしい気持ちでその日に催されていた「中国の扇面画」展を見学する。
暑い時に涼しさをもたらしてくれる「扇」、大きく分けて「うちわ」と「おおぎ」の二つがあるが中国では前者を「団扇」、後者を「折扇」「摺扇」などと呼んでいる。
特に「折扇」は宋代に日本から中国に伝わり、次第に中国社会に普及したものということで何かうれしい気持ちを覚える。
  

講演と座談会「柳宗悦に学ぶ_日韓文化交流の礎」
駒場野公園と美術館めぐり、そしてオーチャードホールへ

とっておきの名盤 その151 R.シュトラウス 楽劇「バラの騎士」

2010年07月07日 | とっておきの名盤「オペラ」
  

私が「とっておきの名盤」として特別な棚に置いているアルバムは、何度聴いても飽きの来ない演奏の素晴らしさがまず第一であり、録音の優秀さや曲の組み合わせが良ければ尚更素晴らしいというもの。
最近そのお眼鏡にかなう一枚を手にしたのだが、それがこのバーンスタインとウィーンフィルによるR.シュトラウス:楽劇「バラの騎士」のアルバム。
バーンスタインはR・シュトラウスの曲をほとんどと言ってよいほど録音しておらず、唯一この演奏ぐらいしか私には思い出せない。
相性が良くなかったとは思えないし、ユダヤ系の生まれである彼にとっては、思想的な問題があって(シュトラウスは第二次世界大戦後、ナチスに協力した疑いで連合国の裁判にかけられたが、最終的に無罪)、シュトラウスの曲の演奏に消極的だったのか、本当のところはその理由がよく分からない。
賞賛の仕方がありきたりのものになってしまうが、とにかくこの演奏は素晴らしいの一言に尽きる。
音の響きそのものが19世紀末の退廃したと言うより、むしろ良い意味での爛熟した雰囲気をこれほど聴く者に直接感じさせる演奏も珍しい。
歌手陣にかつてのルートヴィヒとベリー夫妻、それにギネス・ジョーンズ、ルチアポップと好きな歌手が並んでいる上、ドミンゴが一幕で甘い歌を聴かせる歌手の役をやっているのも嬉しい。
作曲者というか曲、指揮者、オーケストラ、そして歌手陣、おまけに録音の五拍子が見事に調和して聴く者に楽しいひと時を与えてくれる盤はそうあるものではない。
お勧めの一枚と言ってよい。
・カール・ベーム指揮、ドレスデン国立管弦楽団、ドレスデン国立歌劇場合唱団、マリアンネ・シェヒ<S>、クルト・ベーメ<B>、イルムガルト・ゼーフリート<S>、リタ・シュトライヒ<S>他 <Grammophon>
・レナード・バーンスタイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、クリスタ・ルートヴィヒ<Ms>、ギネス・ジョーンズ<S>、ルチア・ポップ<S>、ワルター・ベリー<Br>他 <CBS>
・ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、リーザ・デラ・カーザ<S>、オットー・エーデルマン<B>、セーナ・ユリナッチ<S>、ヒルデ・ギュ-デン<S>他 <Grammophon>
・カール・ベーム指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、クリスタ・ルートヴィヒ<Ms>、テオ・アダム<B>、タチァナ・トロヤノス<S>、エディット・マチス<S>他 <Grammophon>
・ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、アンナ・トモワ=シントウ<S>、クルト・モル<B>、アグネス・バルツァ<Ms>、ジャネット・ベリー<S>他 <Grammophon>
この曲この一枚 その5 R.Strauss:「オペラ名場面集」

氷川神社から「さきたま古墳群」へ、そして足利学校と近辺の寺社をめぐる

2010年07月01日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 6月12日~14日
氷川神社→県立歴史と民俗博物館→さきたま史跡の博物館→さきたま古墳群→足利学校→鑁阿寺→善徳寺→織姫神社→長林寺→鶏足寺

巡りたい全国各地の史跡、主題を絞って順次リストアップしてもかなりの数になる。
気の長い話だが、中身の濃い史跡や寺社めぐりを願っての旅、今回は埼玉と栃木の古墳と寺社を中心に足を進める。
まずは大宮駅から武蔵国一ノ宮の氷川神社を目指すことにする。
中仙道に大鳥居があり、北へ延びる2Kmの参道の途中にある大きな二之鳥居あたりから参拝を始める。
本殿の前にある朱塗りの楼門の造りがとても美しい。
 

古代の出雲国造家を出自とする武蔵国造家は、沼地に面した高台に神を祀り居所を構えたという。
これが氷川神社の始まりとされているが、祭神が素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命の三神と言うのも出雲との繋がりを示す根拠のひとつとなっている。
またこの神社の神輿は三之鳥居を出ないのが決まりで、素盞嗚尊の天照大御神への服従を示す現れというのも確かにうなずける。
この神社の後ろ側にある県立歴史と民俗博物館、1時間もあれば見学時間は十分と思っていたらとんでもない。
展示室が10あって、第1室の「旧石器~弥生時代_狩から稲作へ_」から第9室「明治時代~現代_激動の時代をこえて_」迄、そして第10室民俗展示室「一生を生きる~人生儀礼~」と見応えは十分。
 

弥生時代から古墳時代の変遷の中に現れる儀礼的なものを示す銅鐸や埴輪も展示されている。
奈良~南北朝時代のコーナーにあった鎌倉将軍と武蔵武士の関係を示す系図のパネルが興味を惹く。
源頼朝を中心とする鎌倉幕府、後に尼将軍と呼ばれる政子の実家の北条氏、そして各々を補佐する武蔵武士と女たち、これらの入り組んだ関係が複雑に絡み合いながら歴史が展開していくのだが、その中で発生するいろいろな争いなどを系図を見ながら経緯を解析してみると思わぬ新しい発見があったりして面白い。
今回は落ち着いて展示内容を見れなかったので、改めてもう一度訪れることを思いながら博物館を後にする。
  

北鴻巣駅前から出ているシャトルバスに乗ってさきたま古墳群へと向かい、まずは稲荷山古墳から発見された国宝の金錯銘鉄剣が展示されている「さきたま史跡の博物館」に足を踏み入れる。
展示室は撮影禁止で写真を取れなかったが、目の前に見た鉄剣は本物だけあって当時の優れた金文字の象嵌技術を示しており、さすが迫力充分だ。
将軍山古墳は全長90mの前方後円墳で、墳丘の周りを巡る二重の堀や中堤についている造出し、そして古墳の上に並ぶ埴輪など、遠くから眺めると全体の構成がよく分かる。
 

将軍山古墳には展示館があり、中に入るとここから出土した馬具の複製品を身に着けた人を乗せた馬が展示されているのがまず目に入る。
実物の横穴式石室と埋葬時の様子も再現・展示されているが、まさに1400年前の世界がよく窺える。
 

稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳で、さきたま古墳群の中では最も古く5世紀後半から末くらいの頃と考えられている。
墳頂部の礫槨は、舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べた上に棺を置いたもので、死んだ人の傍らには有名な金錯銘鉄剣が添えられていたと言う。
 

「東の小京都」と呼ばれる足利市、日本最古の学校と言われる国指定史跡の足利学校を訪れる。
パンフレットの説明によると足利学校の創建に着いては、奈良時代の国学の遣制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあると書いてあってはっきりしない。
学校門をまっすぐ進んだ奥にある孔子廟には、孔子の像とともに平安時代前期の官人、文人、歌人であった小野篁の像が置かれている。
遣隋使をつとめた小野妹子の子孫で、三蹟の1人である小野道風や、絶世の美女といわれた小野小町は孫にあたるらしい。
 

室町時代、関東管領(関東公方の補佐役)であった上杉憲実が学問に熱心で、書物や領地を寄付したり庠主(学長)制度を設けるなどして足利学校を再興したのは良く知られている。
天文18年(1549)には、フランシスコ・ザビエルが足利学校のことを「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介したという。
方丈は学生の講義が行われたところで、ここで観光客用に漢字テストをやっていたのが面白い。
足利学校を出てすぐそばにある足利公園には、衣冠束帯の立派な足利尊氏像が置かれている。
 

室町幕府を開いた足利尊氏で一躍有名になった足利一族の発祥の地にある鑁阿寺、ここは寺というよりも鎌倉時代の武家屋敷としての面影を強く留めているのに興味を惹かれる。
説明板には「・・・源姓足利氏2代目義兼が建久7年(1196)に自らの邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を奉ったのが始まりで、堂塔伽藍を整備して足利一門の氏寺としました。・・・」とある。
足利尊氏の木像・位牌が収められているゆかりの寺、善徳寺に立ち寄る。
建物も新築されており、庭もずいぶん綺麗いに整備されている分、有難味が減っているかもしれない。
 

次に訪れた織姫神社は、1300年程の歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として奉られている。
参道の階段の途中にある「蕎遊庵(きょうゆうあん)」と言う蕎麦屋で昼食をとる。
ここで注文した「せいろ」が大当たりで、細めのお蕎麦でのど越しと香りがとても良い。
美味しい蕎麦に満足する。
山門の前に並ぶ六地蔵に守られた長林寺、この寺は足利長尾家の菩提寺で文安五年(1448)創建という長い歴史を持っている。
墓地には足利藩士で、明治維新後は画家として名を成したという田崎草雲の墓があったが、どんな絵を描いたのか知りたい気持ちになる。
 

最後に訪れた鶏足寺は、静寂に包まれた落ち着いた雰囲気きのある名刹という感じがする。
寺の名前の由来を見ると、「・・・初めは世尊寺といいましたが、平将門が朝廷に背き天慶の乱をおこした際、将門調伏の祈願を行ったところ”三本足の鶏”の奇瑞があったことから勅命により鶏足寺と改められました。・・・」とある。
庭の池にある七福神の面々が、訪れるものをやさしく迎えてくれるのが嬉しい。