クラシック 名盤探訪

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この曲この一枚 その24 フレデリック・ディーリアス 管絃楽曲集<「楽園への道」ほか>

2011年07月25日 | この曲この一枚
 

イギリスの音楽のイメージを口で説明するのは難しい。
それこそ、イギリスの代表的な作曲家の曲を何度も聴きこんでいるうちに、自然と耳というか心の中に入ってくるものだと思う。
それに一番相応しい作曲家となると、このディーリアス以外に頭の中に浮かんでこない。
このCDの説明書にあるディーリアスの紹介は、何とも素っ気ない。
「1862年1月29日英ヨークシャー州のブラットフォードに生まれ、1934年6月10日パリ近郊のグレ=シュル=ロワンで没したイギリスの異色作曲家」としか書いていない。
もう少し調べてみると、彼はイギリスに生まれはしたが、両親はドイツ人であり、24歳から2年間ライプチヒ音楽院で学んでいる。
26歳以降はフランスに定住し、他国に住むことはなかった。
晩年は病により失明し、長く苦しんだ末に亡くなる・・という、気の毒なものだった。
それなのに彼の音楽から流れてくる草原の香り、爽やかな風、そんな自然の雰囲気はどこから来るのだろう。
たぶん子供の頃にイギリスの自然にたっぷりと親しんだ経験、そんな思い出が体にしみこんでいたからに違いないと思う。
このCDに入っている曲は、田園詩曲、春はじめての郭公を聞いて、楽園への道、「イルメリン」前奏曲、「フェニモアとゲルダ」間奏曲の5曲だが、どれも素晴らしい。
バルビローリは、イタリア人を父に、フランス人を母に持って1899年にロンドンで生まれている。
彼も血はイギリス人ではないが、イギリス音楽は得意中の得意で、このディーリアスの演奏も何とも言えないほどの素晴らしい情緒を醸し出している。
彼は68年にディーリアスの曲をEMIに再録音しているが、私としては断然、この55年の演奏に惹かれる。
今年の夏の暑さを忘れさせてくれるこの演奏、「この曲この1枚」としてぜひ聴いて欲しいと思う。
・ジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団(1955年録音) <PRT>
とっておきの名盤 その86 マーラー 交響曲第9番ニ長調


寺町、漁師町の面影を訪ねて旧東海道・品川宿を歩く

2011年07月18日 | ウォーキング
コース満足度★★★★ 6月4日
JR品川駅→問答川岸碑・土蔵相模跡→利田神社→法禅寺→一心寺(寿老人)→聖跡公園(本陣跡)→品川神社(大黒天)→清光院→本光寺→海徳寺→荏原神社(恵比寿)→寄木神社→天妙国寺→品川寺(毘沙門天)→海雲寺→京急青物横丁駅

海運と漁業の拠点として発展した品川は、その財力を反映してか思った以上に豪奢なお寺が多い。
東海道の宿場町、遊里としても栄えたというそんな町を歩いてみる。

最初に訪れたのは利田神社だが、この神社の名前を読める人はまずいない。
地元の人に聞いても、えっというような返事が返ってきて戸惑ったったが、やっとのことで神社にたどり着く。
ここに東京で現存する唯一の鯨碑が置かれている。
寛政10年(1798)5月、暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨は体長16.5m、高さ2mの大鯨で、11代将軍家斉が浜御殿にて上覧するほどの騒ぎになったらしい。
ちなみにこの神社は「かがたじんじゃ」と読む。
 

法禅寺(浄土宗)の門の前の左側には「品川小学校発祥之地」の碑がある。
これまで訪れた多くの寺で小学校の発祥之地を示す碑を見てきたし、「寺子屋」の言葉が示す通り、昔は寺が学問を教える場所であった事は良く知られている。
一心寺は安政二年(1854)に時の大老職であった井伊直弼公が、東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町の繁栄安泰を願い建立したのだという。
 

明治天皇が休憩したことから「聖蹟」の名が残る聖跡公園は、品川宿の本陣(大名の宿泊所)が置かれていた所で、此処に寄ってから品川神社を目指す。
ちょうど神社のお祭りをやっていて、子供の頃の懐かしい雰囲気に浸りながら本殿に続く参道の階段を上る。
社殿裏には板垣退助夫妻の墓があり、脇には「板垣死すとも自由は死せず」の有名な言葉を刻んだ大きな石碑が置かれている。
 

沢庵和尚で有名な東海寺に寄り、その立派な石庭を見た後、17あるという塔頭の一寺である清光院を訪れる。
幕府、諸大名との関係が深い寺であり、中でも徳川家の譜代大名で幕末まで続いた豊前中津10万石奥平家の大きな墓碑には驚かされる。
3代将軍家光と共に訪れた芝増上寺の意伝和尚と本光寺の住職日啓は、沢庵和尚立会いのもとに念仏無間を行ったという。
この「品川問答」で有名な本光寺の墓所には立派な三重塔が聳えているが、墓所にこういう塔があるのは非常に珍しい。
  


軍艦千歳殉難者之碑がある海徳寺に立ち寄り、遭難した人々の供養を祈る。
渡英のため品川湾に停泊していた軍艦千歳に渡る通船が突風により転覆、千歳の乗組員など83名が亡くなったという。
一説には和銅2年(709)の開創と伝えられる古い神社、南品川の鎮守とされる荏原神社へと向かう。
脇を流れる目黒川だが、昭和3年(1928)に河川改修が行われる前はこの神社の北側を通っていた。
東海七福神の一つ、恵比寿さんがこの神社の境内に置かれている。
  

寄木神社は境内も社殿も小さな神社だが歴史は古く、日本武尊の東征の際に弟橘姫の乗船の一部が海岸に流れ着いて、村人がそれを祀ったのに始まると伝えられている。
本殿奥を覗くと、二枚扉の内側に名工伊豆長八が描いた「鏝絵・天鈿女命功績図」が見える。
一見の価値がある見事なもので、右側に描かれた猿田彦命の図も印象的。
天妙国寺には、歌舞伎や講談などで知られた人の墓が置かれている。
歌舞伎「与話情浮名横櫛」の斬られ与三郎とお富、桃中軒雲衛門、伊藤一刀済、お祭り佐七などなど。
  

品川寺の正しい読みは「ほんせんじ」、お寺の読みは総て音読みなのでこれを覚えておくと便利。
慶応3年(1251)のパリ万博に出品後、行方不明になったが、昭和初年にジュネーブの博物館にある事が判明、60年ぶりに返還されたという「洋行帰りの鐘」があり、六体の観音像が浮き彫りにされた名鐘と言われている。
最後に訪れた海雲寺には、台所の神である千躰荒神王を祀る荒神堂が本堂の左側にある。
天井には纏が描かれ、周囲には奉納額が隙間なく飾られているのがとても印象的。
  

六本木から麻布へ~大倉集古館から有栖川宮記念公園へ

2011年07月07日 | ウォーキング
コース満足度★★★★ 5月27日
地下鉄六本木一丁目駅→大倉集古館→赤坂氷川神社→檜町公園→毛利庭園→きみちゃん像→善福寺→有栖川宮記念公園→地下鉄広尾駅

東京の中でも六本木辺りは、歩いてみると本当に大都会の雰囲気を感じさせる界隈だ。
江戸時代は大名屋敷が沢山あった所で、今は素晴らしい庭園という形で残っているところが多い。
1月と5月の末に2度歩いたのだが、写真も両方からのものを載せたので季節感が少し違って感じられる。

まず訪れたのが、日本で最初の私立美術館と言われている大倉集古館、建物は日本・東洋の古美術を中心とする美術館だけあって古文化の匂いを強く感じさせる。
ただ少し残念だったのは、特別展の展示(今回は服部早苗の布工芸展)が中心で、見たかった古美術が数点しか展示されていなかったこと、それでも国宝の普賢菩薩像や建物の周囲に置かれている石仏や利川五重塔が見れたのは収穫だった。
この五重塔は韓国から返還を要求されているが、集古館は「大切に保存しつつ一般公開しており、ここで展示したい」と言っているらしい。
 

赤坂氷川神社は武蔵国を中心に全国261社ある氷川神社(出雲では簸川神社)の一つで、埼玉の大宮にある氷川神社を総本社としている。
祭神は素戔嗚尊、奇稲田姫、大己貴命で縁結びの神社として有名。
出雲の国を治めた素戔嗚尊がヤマタノオロチ(八俣遠呂智_鉄の鉱山・製鉄所を持つ豪族)を討ち、奇稲田姫を救い出して妻としたこと、そして当時は末子相続制だったので、二人の末娘の須世理姫はのちに養子に大国主命(大己貴命)を迎えていること、氷川神社は宍道湖に流れ込む斐伊川(ひいかわ)の側にある斐伊神社(祭神は素戔嗚尊)から分祀されていることなどから祭神がこの3人なのには異論が無いと思う。
このコースは、忠臣蔵に関係する場所が3か所もあるのが面白い。
境内には浅野匠頭の夫人・遥泉院の実家であった浅野土佐守邸跡がここにあったことを示す説明板が立っている。
片岡千恵像演ずる大石内蔵助が、吉良上野介屋敷へ討ち入りを行うその日にここを訪れ、蟄居していた遥泉院に分けれを告げ雪の南部坂を下っていくという東映映画のシーンを思い出す。
  

檜町公園は江戸時代に長州藩松平大善太夫(毛利氏)の下屋敷があったところで、今は眺めの良い公園として市民に親しまれている。
檜が多かったことから、毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来になっている。
毛利庭園は毛利家上屋敷であった毛利甲斐守屋敷跡で、吉良邸討ち入り後に岡島八十衛門ら赤穂浪士10名が預けられ武士の本懐を遂げたところ。
向井千秋さんの乗ったスペースシャトル、すなわち宇宙で誕生したメダカの子孫が放流されているという庭の眺めは、そんなことを全然感じさせない雰囲気を見せている。
  

童謡「赤い靴」のモデルになった、きみちゃんの像が麻布十番の通りに面して置かれている。
話は長くなるので省略するが、実際には異国に行くこともなく、麻布氷坂にあった鳥居坂教会の孤児院で9歳の短い生涯を閉じている。
立派な山門の善福寺は都内では浅草寺に次ぐ古刹の一つで、弘法大師が天長元年(824)に創建した真言宗の寺だった。
その規模を高野山に倣ったので新高野とも呼ばれ、関東屈指の霊場だったと言われているのもうなづける。
後にここを訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒した住職によって浄土真宗に改められている。
安政5年(1859)に日米修好通商条約に基づき、この寺院内に初代アメリカ公使館が設けられ、タウンゼント・ハリスらが逗留したという碑が建っている。
   

都内最大と言われる境内の逆さ銀杏(樹齢750年)は、親鸞聖人が突き立てた杖が根付いたものと伝えられているが、話は別としてまずはその大きさには本当に驚かされる。
百聞は一見にしかず!これだけでもこの寺を訪れた甲斐があったと心底から思ったのは、あながち嘘とは言えない。
墓所には福沢諭吉の墓があって、普段から参拝者が多いらしく、特に受験シーズンは墓から線香の煙が絶えることが無いらしい。
最後に有栖川宮記念公園を訪れる。
ここも忠臣蔵と関係があり、寛永の頃から常陸笠間藩浅野家の下屋敷だったが、正保2年(1645)に播州赤穂藩に転封(領地換え)されている。
後に盛岡藩南部美濃守の屋敷になり、明治に有栖川宮熾仁(たるひと)親王に、そして大正に高松宮家の御用地へと変遷をたどっている。
花見の頃は素晴らしいらしいが、憩いのひと時を求める都民に癒しの場を提供している。
  


高野山・熊野三山・伊勢神宮を巡る

2011年07月02日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★ 5月22日~24日
高野山→熊野本宮大社→瀞峡→熊野那智大社→青岸渡寺→那智の滝→熊野古道・大門坂→熊野速玉大社→鬼ヶ城→伊勢神宮

一度は行きたいと思っていた高野山、熊野三山、そして伊勢神宮、二泊三日でこの三つをまとめて訪問するという欲張った旅となった。

まずは真言宗の開祖である弘法大師の聖地、高野山を訪れる。
説明文には、「高野山は紀の川の南方海抜900mの山上にあり、周囲を八葉蓮華になぞられた峰々に囲まれ、東西6キロ、南北3キロの一大仏都です」とある。
たしかにバスでつづれ折の道を上っていくと、忽然と山上の開けた大地に都が現れたのには驚いた。
奥の院の最奥の参道から、南無大師遍照金剛と書かれた柱を右に見ながら「弘法大師御廟」を目指す。
高野山は死後魂が訪れる「他界」と信じられ、弘法大師のそばで永眠することを望む人たちが墓碑を建て、石塔群が形成されたという。
もとは前田家の寺であった宿坊・天徳院に泊まったのだが、その加賀藩二代目当主前田利長とその夫人の墓碑が置かれている。
 

全部は目に出来なかったが、奥の院には結城秀康の石廟、織田信長、豊臣秀吉、石田光成、筒井順慶、武田信玄、勝頼、前田利長、法然、親鸞など多くの墓碑や供養塔が置かれている。
橋を渡った先にあるのが「弘法大師御廟」、自分の家も真言宗なので南無大師遍照金剛と唱えながら礼を捧げる。
宿坊のすぐ前に総本山の金剛峯寺があり、早速お参りに出かける。
「金剛峯寺」という名称の訳を調べてみると、弘法大師自身が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(いっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けたのだという。
 

素戔嗚尊と出雲国のことを色々調べていたら、熊野三山は素戔嗚尊と切っても切れない深い繋がりがあることが分かってきた。
訪れた熊野本宮大社の祭神は一人ではなく、家都美御子大神(=素戔嗚尊)や事解之男尊が祀られている。
事解之男尊は饒速日命のことで、素戔嗚尊の第5子とされるので、本宮の祭神として親子が祀られるのだと思う。
素戔嗚尊の亡くなった場所は、松江駅より南13キロの八雲村熊野の地で、住居のあった八雲山(三室山)の反対側の麓、意宇川(おおがわ)のほとりの前にある熊野山に「磐座」の形で葬られている。
諡号は、神祖熊野大神奇御家野主尊(かむろくまのおおかみくしみけのぬしのみこと)なので、熊野本宮の名前は素戔嗚尊の亡くなった場所から来ているのは間違いないと思う。

 

瀞峡の読みは「とろきょうだと思っていたら、どろきょうと濁るのが正しいとのこと」、いつも思うのだが日本語は難しい。
たしかにパンフレットの「荒々しく切り立つ断崖と巨岩、静かな深い瀞の水は神秘的なコバルトブルーに澄みわたり不思議と心が落ち着きます」は当たっている。
熊野那智大社は那智の滝を水の神として祀るについて、昔は海でも川でも滝でも水に関するものを祀るときは全部女神を選んであてたので、祭神として天照大神の母である伊邪那美命を選んだものと思われる。
 

青岸渡寺の境内から見るこの景色、ポスター等で結構見るが悪くはない。
小雨が間断なく降るので、山に霧が昇って行って幻想的な眺めを繰り広げている。
西国三十三ヶ所第一番札所、青岸渡寺と熊野那智大社の軒の高さはまったく一緒とのこと、神と仏が一緒にあることを示している。
札所の寺の御詠歌はなるべく載せるようにしている: 補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
ほんの少しだが熊野古道の大門坂と呼ばれるところを歩く。
石段がごつごつしていて年寄りには結構応える道なので要注意。
  

熊野速玉大社は全国に3000社あるという熊野神社の総本山で、祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命とされている。
第12代景行天皇が、新宮市の熊野速玉社に武素戔嗚尊を別称の速玉之男尊として祀って社殿を造営されたというのは、「皇年代略記」や「延喜式神名帳」に記されているので間違いないだろうと思う。
鬼ヶ城は説明板によると「隆起と風化と波の浸食によって生じた自然の芸術で、熊野灘に面して延々1Km続く国の名勝・天然記念物とある」。
確かに歩いていると、まるで文明と遮断された別世界のような感じを受ける。
 

いよいよ伊勢神宮へと向かい、まずは伊勢神宮宇治橋の大鳥居の前に立つ。
冬至をはさんで前後二ヶ月の間、ここから眺めると伊勢神宮内宮の宇治橋と鳥居と朝日が一直線になるとのこと。
なにやら厳かな気持ちで鳥居をくぐり宇治橋を渡り、内宮のほうへ進むと五十鈴川の清く澄んだ流れが見えてくる。
五十鈴の名は、神前へ供える御(みにえ)を「すすぐ」意から出たといわれ、また倭姫命が裳裾を濯がれたという伝説から「御裳濯(みもすそ)川」とも言われている。
  

伊勢神宮(内宮)は皇室の祖先神で日本の総氏神である天照大御神を祭神とし、神体は三種の神器の一つ八咫鏡とされている。
20年に1度の式年遷宮が1300年間続いているのには感心してしまう。
お参りを済ませ、神路山の麓のうっそうと茂る樹林につつまれた参道を歩くと、敷き詰められた玉砂利がキュッと鳴って、何か励ましの声をかけてくれているように思える。
伊勢神宮・内宮前のおはらい町を歩く。
お伊勢さん特有の切妻・入母屋・妻入り様式の町並みを歩き、お土産を買うのもなかなか楽しい。