クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

小石川植物園から小石川後楽園へ

2010年01月25日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 12月22日
都営三田線白山駅→白山神社→小石川植物園→播磨坂→伝通院→善光寺坂→源覚寺こんにゃくえんま→文京シビックセンター→小石川後楽園→JR飯田橋駅

都内でも有名な紫陽花の名所で、東京十社のひとつにもなっている白山神社にまず訪れる。
天暦2年(948)に、加賀一宮の白山神社を勧請したというから由緒は古い。
前にも書いたが、祭神の白山媛命(はくさんひめのみこと)は、記紀神話の女神”菊理媛神(くくりひめのかみ)”とも云われる。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追って黄泉国に至り、そこから逃げ帰ろうとして黄泉平坂で争った時、この女神がその間に立ってニ尊の主張を伝え助言をしたので、無事に死の国から脱出できたとされている。
習っている書道の腕が上がらないせいか、立派な字体の額にひとしお感心する。
 

小石川植物園は東京大学理学部の所属だが、もともとは徳川幕府の小石川薬園が始まりで、旧養成所の井戸など由緒ある遺構も多い。
約4000種の植物が栽培されており、樹木や花の好きな人はいろんな面で非常に勉強になる所だと思う。
リンゴの落ちるのを見て万有引力を発見したとの逸話があるニュートンのリンゴの木(イギリスから苗木を譲り受けたという)や、メンデル葡萄の木(メンデルの葡萄の木の枝から育ったもの)を見ることもできる。
 

伝通院に向かう途中の「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備された播磨坂、歩いていてとても気持ちが良い。
伝通院は応永22年(1415)に無量山寿経寺という名で開創されたが、慶長7年(1602)に徳川家康の生母於代の方の菩提寺となり、法名の「伝通院」から寺の名がそう呼ばれるようになったという。
境内には於代の方はもちろん、千姫の墓もある。
  

次に訪れた源覚寺には「閻魔王木造坐像」が祀られている。
眼病を治したい者がこんにゃくをお供えしたところ、この大王が身代わりになってくれたという。
こんにゃくは「困厄」に通じ、苦しみや災いから逃れたいと多くの人がお参りするらしい。
歯痛に悩む人が塩を 供えて祈りをするという「塩地蔵」が珍しい。
 

小石川後楽園の手前にある文京シビックセンター(文京区役所)、25階の展望ラウンジから一望する都内の眺めが素晴らしい。
写真に取りきれなかったのが残念。
小石川後楽園は、寛永6年(1629)に水戸光圀が水戸藩中屋敷跡を大名庭園(回遊式庭園)として完成させた所。
あいにくの季節で花などは楽しめないが、梅、桜、紅葉などの季節にはぜひもう一度訪れたいほど庭園の造りは見事。
 

今日歩いた小石川植物園と後楽園、どちらも紅葉の季節に歩いたらとにかく最高だと思う!
しきりとそう思いながら、帰りの駅へと足を進める。

この曲この一枚 その9 J.S.バッハ 「ゴールドベルク変奏曲」 BWV988

2010年01月17日 | この曲この一枚
    
この曲、現在ではピアノによる演奏が多いが、原曲はバッハ自身が「2段鍵盤つきクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏曲」と長い名前をつけていた作品。
チェコ生まれの世界的女流チェンバロ奏者、ルージイチコヴァが70年頃に録音したこの盤、そのとても味わい深い演奏は、バッハの音楽の真髄はまさにこうなのだと聴くものの耳に直接語りかけてくれる。
1928年生まれだからもう引退しているはずだが、全盛時代の彼女は”上質のボヘミアン・グラスを思わせる透明感溢れる音楽性”と評されていたのを思い出す。
彼女の最も得意なレパートリーのひとつだったこの曲、確かに確然としたテンポで始まる主題、各変奏での正確なリズム、そして整然としたフレージング、その一つ一つがゆるぎないバッハの小宇宙を構築している。
大げさな褒め言葉になってしまったが、この盤を聴くたびにその思いは強くなる。
彼女は1964年から11年かけて、LPで21枚に及ぶバッハ/チェンバロ作品全集を完成させている。
今は多くが廃盤になってしまったが、ひまを見て中古レコード店を訪れ彼女の盤をもっと集めたいと思っている
以前、このブログの”とっておきの名盤”で取り上げたフルニエとの「チェロとチェンバロのためのソナタ全集」、これは未だに飛び切りの愛聴盤になっているし、この盤もぜひ聴いてみてほしい”この曲この一枚”と言わざるを得ない。
・ズザナ・ルージイチコヴァ<cemb> <ERART>
とっておきの名盤 その44 J.S.バッハ ゴールドベルク変奏曲BWV988
とっておきの名盤 その47 J.S.バッハ チェロとチェンバロのためのソナタ全集

近江・近つ飛鳥・難波津の旅 その2 「古代史」編

2010年01月10日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 12月1日~5日
近江八幡→石山寺→瀬田の唐橋→建部大社→湖東四山(永源寺→百済寺→西明寺→金剛輪寺)→園城寺→弘文天皇陵→新羅善神堂→大津宮錦織遺跡→近江神宮→坂本(生源寺→滋賀院門跡→日吉大社→西教寺)→近つ飛鳥(葛井寺→辛国神社→西琳寺→誉田八幡宮→応神天皇陵→近つ飛鳥博物館)→難波津(四天王寺→難波宮跡→大阪歴史博物館→鶴橋)

紅葉の眺めと平行して訪れた古代の史跡、こちらも歴史の重みをいろんな点で印象深く感じることとなった。

近江八景のひとつ、「瀬田の夕照」で知られる瀬田の唐橋を眺める。
”せたのゆうしょう”と読んでいたら、そうではなく”せたのせきしょう”が正しいと知る。
日本語の読みは難しい。
672年の壬申の乱の時、大海人皇子軍と大友皇子軍の決戦場となった橋で、“唐橋を制するものは天下を制す”と言われ、京へ通じる軍事・交通の要衝として幾多の戦乱の舞台になった所。
この橋で藤原秀郷が大百足を退治した伝説は有名で、竜神から米の尽きない米俵を授かり、それ以来、彼は「俵籐太(たわらのとうた)」と呼ばれることになったという。
 

近江国一ノ宮の建部大社を訪れる。
景行天皇が息子の日本武尊の崩御を歎いて、西暦117年頃に神崎郡建部の郷(八日市市付近?)に尊の霊を祀ったのが始まりとされている。
平家に捕らわれた源頼朝が伊豆へ流される途中に立ち寄り前途を祈願した言い伝えがあり、出世開運の神社として訪れる人も多いらしい。


園城寺を後にしてしばらく進むと、天智天皇の第一子・大友皇子を祀る弘文天皇陵がある。
悲運の皇子の霊に祈りを捧げる。
その先の新羅善神堂は、ひっそりとしたたたずまいの中にあり、訪れる人はほとんどいない。
園城寺開祖の円珍和尚が唐から帰る際、船中にあらわれた新羅の国神を祀ったとされている。
 

西暦667年、白村江の戦いに敗れた後に天智天皇は、突然都を飛鳥から近江に移したが、今は大津宮錦織遺跡として住宅街の中に混在している。
その天智天皇を祀っている近江神宮、昭和15年に建てられたというからまだ新しい。
 

比叡山延暦寺の台所を預かる町として栄えた近江坂本を訪れる。
まずは比叡山を開いた伝教大師(最澄)生誕の地、生源寺に立ち寄る。
町並を歩くと、「穴太衆積み」と呼ばれる石積みがあちらこちらに点在している。
室町時代の末頃、この地に居住して延暦寺の土木営繕的な仕事をしていた人々は「穴太衆」と呼ばれていた。
大小の自然石を巧みに積み上げ、堅固なことから、織田信長の安土城を始め多くの城の石垣などに利用されたという。
 

江戸時代末まで天台宗座主の居所であった滋賀院門跡を訪れる。
最澄直筆の書の掛け軸を見せてもらったが、修行に励んだことが偲ばれる厳しい隙のない筆体には、心を澄まされるものがある。
日本では最も古い神社の一つで、山王総本宮でもある日吉大社が鎮座している。
主祭神は大山咋神(東本宮)と大巳貴神(西本宮)の二柱で、古事記に「日枝の山に坐す大山咋の大神」と記されているから由緒は古い。
 

広い境内には、かつて108社といわれた多くの神々が祀られている。
日吉大社から西教寺へと続く山の辺の道から眺める滋賀湖が、日の光を反映して美しく輝いている。
 

聖徳太子によって創建された西教寺の参道は、紅葉がまぶしいばかりの彩を見せている。
広い境内の片隅に、明智光秀をはじめとする一族の墓がたたずんでいる。
元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちの直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀で、光秀は西教寺の檀徒となって寺の復興に大きく力を注いでいる。
 

近つ飛鳥あたりの史跡を沢山見ようと、まずは聖武天皇勅願で百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の『葛井給子』が創建したとされる葛井寺を訪れる。
遣唐留学生で墓誌が発見されて話題となった井真成 の碑がここに置かれている。
すぐ近くにある辛国神社、日本書紀に『雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部大連に賜う』とあり、この地方を治めることになった物部氏が、その祖神を祀って神社を造ったらしい。
 

次に訪れたのは、百済から渡来した王仁を祖とする西文氏(かわちのふみし)の氏寺として創建され、壮大な寺だったという西琳寺。
境内には径3m高さ2mの巨大な礎石が置かれている。
日本一の五重塔心礎で、飛鳥・天平時代は七堂伽藍のそびえる大寺だったことを偲ばせる。
誉田八幡宮(祭神は応神天皇)は559年に創建された日本最古の八幡宮と云われている。
とても立派な造りの拝殿に感心しつつ、厳かな気持ちで願い事を済ませる。
 

誉田八幡宮を後にして、応神天皇陵を目指し歩くこと約40分、やっと正面にたどり着く。
仁徳天皇陵につぐ大きさだけに一際荘厳な雰囲気が漂う。
近つ飛鳥博物館は少し離れた距離にあり、バスを利用して現地へ向かう。
近つ飛鳥風土記の丘には一須賀古墳群が保存されており、102基の古墳のうち40基が見学できるようになっている。
 

近つ飛鳥博物館の展示物は結構充実しており、古代大和王朝から河内王朝、そして継体天皇へと続く流れを良く知ることができる。
聖徳太子によって建てられた四天王寺の伽藍配置、南門、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ伽藍模型が分かり易い。
  

その四天王寺を訪れる。
昭和20年の空襲によってその七堂伽藍の大半は焼失したが、昭和38年に飛鳥時代創建当初の様式で再現復興されている。
  

難波津跡のすぐ横に大阪歴史博物館の立派な建物がそびえている。
蘇我馬子が管理していたとされる倉庫群の一つが復元されている。
当時、港を支配していた蘇我氏の権力がどれほど強かったかが偲ばれる。
歴博の窓から難波宮跡が一望できる。
大化改新後に孝徳天皇が遷都した前期難波宮(難波長柄豊崎宮)と、一時都ともなった聖武天皇の後期難波宮。
難波宮は、2つの時期の宮殿がほぼ重なり存在している珍しい遺構である。
  

最後に韓国から渡ってきた渡来人のことを少しでも偲ぼうと、鶴橋に立ち寄る。
”鶴橋”の由来を偲ぶ碑や、百済門が入り口となっているコリアタウン商店街、そして御幸森天神宮などがある。
この辺りは百済野といい、百済の人たちが多く住み文化の華を咲かせていたところで、近くに百済川(現在の平野川)もある。
「猪飼野(いかいの)」という地名、日本書紀の仁徳天皇十四年の条に「猪甘野(いかいのつ)に橋をわたす。」とあり、その歴史の古さが偲ばれる。
  

近江・近つ飛鳥・難波津の旅 その1 「紅葉」編
斑鳩・飛鳥・奈良・京都の旅 その2 「古代史」編
斑鳩・飛鳥・奈良・京都の旅 その1 「紅葉」編