クラシック 名盤探訪

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講演と座談会「柳宗悦に学ぶ_日韓文化交流の礎」

2010年06月23日 | 歴史・気になる話
今年が「民藝運動の父」とも呼ばれる柳宗悦の没後50周年であることにぜんぜん気がつかないでいたのは、迂闊でしたねと言われてもしょうがない。
それだけに、6月15日に四谷の韓国大使館・韓国文化院で記念公開講座「柳宗悦に学ぶ_日韓文化交流の礎」が催されるのを聞かされた時はとても嬉しかった。
この公開講座、基調講演が韓国大使も努められた小倉和夫、座談会の司会が松井健、そして講師が李進煕、水尾比呂志、姜 尚中(以上敬称略)という”柳宗悦を語る”についてみんな一家言といっても良い専門的な覚えと意見を持つ人ばかり。
入場無料と言うのもうれしいし、会場が満員で入れなくては大変と早めに家を出る。
韓国大使館の建物がモダンなデザインなのに驚きつつ中に入ると、一階では「柳宗悦 朝鮮とその藝術」展が開催されている。
時間が有ったので覗いてみると、柳宗悦が愛した朝鮮時代の陶磁器や工芸品などと、高名な声楽家であった兼子夫人との生涯の軌跡のパネルや宗悦自身のアルバム写真が展示されていて、講座の前の前知識としては大いに役に立つものだった。
柳宗悦の人となりを簡単にまとめておくと、「・・・明治22年(1889)~昭和36年(1961)。民藝運動の提唱者、そして宗教哲学者。濱田庄司や河井寛次郎との交流をはかりながら民藝の普及につとめ、 日本民藝館を創設。柳宗悦全集全22巻など・・・」とある。
講座の会場では、紀伊国屋書店製作の「柳宗悦 美信一如」が上映されたが、柳宗悦の生涯・思想・暮らしの中に美を求めた想いなどがきちんと描かれたとても良いものだった。
    

講座での各氏の発言は、自分の人となりと柳宗悦との出会い、そして学んだことや想いなどを熱心に話してくれるとても有意義なものであった。
李進煕氏は生前の柳宗悦と会っていないとのことだが、学生の頃に神田の本屋で「朝鮮とその藝術」の序文を立ち読みし、目からうろこの落ちる思いをしたとまず話された。
アルバイト代月4千円の時代、大枚五百円をはたいてその本を買い求めたとのこと。
学んだことは、美術を通して民族の心を知ろうとした柳のものの考え方、それは歴史学においても考古学においても通じるものであり、それがなければ本当の美術や学問にならないんだと言うことを痛感したと話していたと思う。
水尾比呂志氏が話されたことで、「・・・柳宗悦が愛した木喰仏の美というもの、口許に微笑を浮かべた不思議な美しさは藝術と宗教とが深く編みなされている世界の具現であり、李朝陶磁と同じ啓示を現してくれるものだった・・・」と言う言葉が印象的だった。
木喰上人もその作品の木喰仏のことも全く知らなかったし、先の短い年金生活者には勉強することが多すぎると冗談のひとつも口に出したい様な気持ちになってしまった。
朝鮮茶碗の一種で室町時代以来、茶人に最も珍重されたという井戸茶碗の話がちょっと出たが、時間の関係であまり詳しい話に触れられなかったのは残念。
姜 尚中氏が話した中で面白かったのは、子守唄は普通二拍子なのだが、全国で三拍子のものが27あり、そのうち25が熊本人吉球磨地方のものなのだと言われたこと。
私が思うに、この地方に移住した朝鮮の人々が、故郷の三拍子アリランの調べに寄せて子守唄を歌い聴かせているうちに、その土地に根付いたのではないだろうか。
日韓500万人/年の交流があると言う今、今回の講座で学んだ柳宗悦の想いが少しでも聞くものの身についたとても有意義なひと時ではなかったのかと思う。
柳宗悦が中心となって設立した日本民藝館、前に一度訪れているのだが、まだ彼のことを良く知らない時だったので、近々にまたぜひ訪れようと思っている。
松井健氏の愛読書と言う「民藝40年」岩波文庫を、せっかちなことに早速買い求めてしまった。
写真に載せた茶碗は初めての韓国の旅で買い求めたものだが、どこの寺でだったかどうしても思い出せないでいる。
1500円ほどの安価な器だったが、わび・さびの雰囲気が感じられて今では私の最愛の茶碗となっている。
これでお茶を飲むと不思議と奥行きのある味がするし、暮らしの中の美を追い求めた柳宗悦の気持ちがとてもよく分かる。
  
駒場野公園と美術館めぐり
日本人の忘れ物~五木寛之

両国から深川へ~芭蕉の由縁の地を巡る

2010年06月16日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★★ 6月6日
JR両国駅→回向院→吉良上野介屋敷→時津風部屋→芥川龍之介碑→勝海舟生誕の地→江東区芭蕉記念館→芭蕉庵史跡展望庭園→滝沢馬琴誕生の地→霊厳寺→清澄庭園→採茶庵跡→法乗院えんま堂→深川不動尊→富岡八幡宮→門前仲町駅

6月初旬の暖かい日、まずは明暦3年(1657)の振袖火事で死んだ多くの人々の無縁仏のために開かれた日本一の無縁寺、浄土宗の回向院を訪れる。
境内に入るとすぐ見えるのが、相撲協会が建立した力塚で、明治末期に旧両国国技館が出来るまでの76年間、この回向院が相撲の開催場所となっていたと言う。
鼠小僧次郎吉の墓の前には、何人かがその長年捕まらなかった運にあやかろうと盛んに墓石を削っている。
削った石屑をお守りに入れる風習が、江戸時代からずっと続いているらしい。
 

回向院を出たすぐ先にある、忠臣蔵「赤穂浪士の討ち入り」の舞台として有名な吉良上野介義央公の上屋敷跡を訪れる。
吉良邸内の見取り図が展示されているが、その部屋数の多さや複雑な間取りにはとにかく驚かされる。
赤穂浪士の一人、岡野金衛門が工夫を凝らして大工の娘から見取り図を手に入れたというのは大手柄で、これなしでは上野介の居場所が見つけられず、たぶん討ち入りは失敗しただろうと思うほどだ。
両国は大相撲のメッカとも言える地、少し歩いただけで必ず相撲部屋にぶつかる。
時津風部屋は、不世出の名横綱・双葉山が現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許され、双葉山相撲道場を設立した所でもある。
 

少し歩くと、芥川龍之介が通ったと言う江東尋常高等小学校(現在の両国小学校)があり、彼の作品「杜子春」の中からの文章を載せた立派な碑が建っている。
子供の頃に「蜘蛛の糸」、「鼻」、「羅生門」、そして「河童」などたくさんの作品を呼んでいるはずなのに、その文章のひとかけらも浮かんでこないのが何とも情けない。
その先の両国公園(父小吉の実家・男谷家があった所)は勝海舟の生誕の地としても有名な所で、小さな公園の隅には彼の生誕のいわれを示す碑が建てられている。
彼の咸臨丸による米国訪問は有名だが、やはり私は、多くの江戸庶民の命を救い速やかな明治政府への移行を導いた「江戸城の無血開城」が彼の一番の業績ではなかったかと思う。
 

いよいよ松尾芭蕉のゆかりの地、深川へと足を踏み入れる。
徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんどが海だった。
江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、大阪からやって来た深川八郎右衛門が新田を開発し、その地を深川村と称したのが始まりと言われている。
深川の草庵に移り住んでいた芭蕉は元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発する。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の名文で始まり、岐阜大垣までの歩行距離は2400キロというとても長いものだった。
江東区芭蕉記念館には、そんな芭蕉の旅とその足跡を説明する多くの展示パネルが掲げられている。
「奥の細道」はもちろん、「鹿島紀行」、「野ざらし紀行」、「笈の小文」、そして「更科紀行」など、芭蕉が歩いた道を全て辿って見るのもとても面白い試みで、ぜひ一度やってみたいと思う。
 

芭蕉には10人の名だたる弟子がいて、これを芭門十哲と呼んでいる。
宝井其角、向井去来、杉山杉風、越智越人、内藤丈草、服部嵐雪、各務支孝、立花北枝、志田野坡、そして森川許六の10人だが、どこかで聞いたか見たかした名前が連なっている。
一番弟子の宝井其角が詠んだ句の色紙が展示されていたが、その達筆さには驚かされる。
芭蕉の旅姿も展示されていて、なかなか見る者を飽きさせない記念館の展示内容ではある。
 
 
芭蕉記念館を出て、芭蕉の句碑を見ながら隅田川沿いを歩くと、芭蕉庵史跡展望庭園にたどり着く。
ここから眺める隅田川大橋と後ろに林立する大きなビル群が印象的。
門前仲町のほうに足を進めると、「滝沢馬琴誕生の地」の碑が目に入る。
説明文を読むと、「...明和4年(1767)旗本に仕える用人の子として江戸に生まれる。父と兄を相次いで失い、10歳で家督を継いで松平家に仕えるが14歳で出奔する。その後24歳で戯作家、山東京伝の弟子となるが、やがて師を上回る人気を得て文壇に君臨した。『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』『近世説美少年録』など、82年の生涯で400以上の作品を残している ...」とある。
生い立ちは大変だったようだが、晩年は大成して多くの著作を残した作家であった。
  

お昼も過ぎてきたので、この地の名物「深川丼」を味わうことにする。
アサリを味噌汁の具にして飯にかけたもので、 気の短い江戸っ子の漁師が飯と汁物を一緒に食べる為に考案したという。
清澄公園の脇にある霊厳寺を訪れる。
ここには、江戸幕府の三大改革の一つ「寛政の改革」で有名な松平定信の墓がある。
8代将軍徳川吉宗の孫にあたるが、17歳で白河城主松平定邦の養子となり、後に白河藩11万石を相続する。
30歳の時、江戸幕府の老中に任ぜられ、幕政の立て直しに努めた人として知られている。
江戸六地蔵のひとつ、地蔵菩薩がこの寺に置かれている。
お寺を訪問すると、入り口の近くに六地蔵がよく置かれているが、その意味がよく分からない。
調べてみると、「...六道とは衆生がその業によっておもむく六種の世界で、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道のこと。それぞれの道に現れて、衆生の苦しみを救うのが六体の地蔵菩薩で、その持ち物や印の形を見ると何の地蔵なのかがよく分かる...」とある。
地獄:地蔵菩薩_錫杖と宝珠 、餓鬼:宝手菩薩_与願印 、畜生:宝処菩薩_如意宝珠 、修羅:宝印手地蔵_梵篋 、人間:持地菩薩_施無畏印、天:堅固意菩薩_経巻
 

清澄庭園の由緒を見ると、江戸の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、後に下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷となり、明治に岩崎弥太郎が所有して今の庭の形が築かれたとされている。
歩いてみると今の時期は花菖蒲園の眺めも素晴らしいが、全国から集められた名石の配置の妙と、敷地内の半分はあろうかという泉水の大きさがとても印象に残る庭園だと思う。
 

庭園内の「古池やかはづ飛び込む水の音」の句碑は、隅田川の岸辺にあったものを護岸工事のときに移したという。
菜茶庵跡は芭蕉が「奥の細道」の旅に出発した所で、正確には仙台堀に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼって千住まで行った。
仙台堀とは、仙台藩の蔵屋敷があったことからそう呼ばれ、現在の仙台堀川のことを言っている。
「奥の細道」の出発は船旅だったというのが面白い。
 

法乗院えんま堂の閻魔様は相当いかつい顔をしているが、江戸時代から庶民に「深川のえんまさん」としてずっと親しまれてきた存在らしい。
深川不動尊の由緒書を見ると、「...成田不動を江戸でも拝みたいという江戸町人の要望によって、元禄16年(1703)に富岡八幡宮の別当永代寺境内で本尊の出張開帳が執り行われたことに始まる...」とある。
 

この歩きの最後となる富岡八幡宮にやっと到着、富岡八幡と言えば赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ江戸三大祭の一つ「深川八幡祭り」で有名なところ。
境内に伊能忠敬像が置かれているが、佐原にある彼の旧宅を見てきた私にとっては、何故ここに彼の像があるのかとても気になり、調べてみると、「...伊能忠敬は50歳に江戸に来てこの門前仲町に隠宅を構えた。
北海道の測量に出かける早朝、この八幡宮に参拝してから出かけた。
北海道を含めて10回の測量を企画したが、遠国に出発の第8回までは出発の都度、必ず内弟子とこの富岡八幡宮を参詣し無事を祈念した...」とある。
疑問も解消し、今日の充実した歩きに感謝の念を抱きつつ八幡宮の鳥居を後にする。