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「百済の史跡と古寺を巡る旅」<後編>

2009年11月03日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★ 10月9日~13日
晋州城跡→国立晋州博物館→(全州泊)→鶏龍山古窯跡→公山城(バスにて)→武寧王陵→国立公州博物館→扶蘇山城→半月楼・百花亭→皇蘭寺→白馬江川下り・落花岩→(扶餘泊)→定林寺址→王興寺跡→国立扶餘博物館→陵山里古墳群(バスにて)→論山の潅燭寺→百済武王の益山双陵・益山弥勒寺跡→王宮里五重塔→(全州泊)→南原邑城→「春香伝」広寒楼苑→雙溪寺→南海・露梁海戦の地→ジャカルチ市場→(釜山泊)→釜山市立博物館

翌朝一番に訪れたのは、百済の都扶餘で仏教の中心的な寺院であった定林寺跡。
この寺の五層石塔は益山(イクサン)の弥勒寺跡石塔と共に、ただ二つだけ残された百済時代の石塔という点で、とても貴重な遺跡として評価されている。
この寺の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ形で、日本に伝わった「四天王寺形式」と見られていた。
ただし最近の発掘で、金堂の東西に長い建物があったことが判明したとの話も聞いているので、伽藍配置については今後しっかりと見守る必要がありそう。
塔の一層目には、百済を攻めた唐の将軍蘇定方が戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」の文字が見える。
奥の方の建物には、高麗時代の作と言われる石仏が安置されており、雪だるまに似た顔の表情は慈愛に満ちている。
  

王興寺跡は、百済の王宮があった扶蘇山の脇を流れる白馬江の対岸に広がっている。
心柱の礎石の中から発見された舎利容器には、「亡くなった王子の冥福を祈り威徳王(百済第27代)が577年に創建した」と寺の縁起が刻まれていた。
発掘された王興寺跡と、6世紀末に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺との間には、伽藍配置、仏舎利を納めた塔の心礎の構造、その周辺を飾った宝飾品などに類似点があるという。
「日本書紀」には、王興寺発願の577年に百済王は造寺工と造仏工を日本に送ってきたとあり、その約10年後に飛鳥寺が建立されている。
この発掘跡を眺めていると、タイムスリップして壮大な寺を建立している造寺工の姿が目の中に浮かんでくる。
 

国立扶餘博物館には、百済芸術の極致である百済金銅大香炉が展示されている。
ドラマ「薯童謡」の最終回を思い出す。
王妃ソンファは百済の栄光と王ソドンへの思いを込めて博士モンナスに香炉を作らせる。
5羽のオシドリは百済を支える民を意味し、上部の鳳凰は民を抱く王の姿を現しているのだという。
その眩いばかりの光を放つ金色の香炉の姿形を何と表現したらよいのか、言葉では表しきれずただただじっと見つめるばかり。
七支刀にしろ、百済の工芸技術の水準の高さにはとにかく感心させられる。
  

四神図の一部分と思われる白虎と朱雀を描いたパネル、そしてこの後訪れる予定の弥勒寺にある韓国最大、最高(14.24m)の石塔のパネルも表示されている。
 

陵山里古墳群(バスにて)は扶餘をとりまく羅城のすぐ外にある古墳群で、百済王陵として伝承されている。
王陵は城壁の外に築かれたというし、正規の使節を迎え入れる東門のすぐそばにあるという事がその根拠らしい。
バスは一路、論山(ノンサン)近くの般若山にある潅燭寺(クァンチョクサ)へと進む。
石段を登りながら大きな山門を見上げる、この後ろには恩津弥勒と呼ばれる有名な石仏がのっそりと立っているはず。
 

高麗時代、10世紀の作品という石造りの弥勒菩薩の立像をじっと見つめる。
中国の智安という名僧がこの像を見て、あたかもローソクの明かりのように光ると言い、この寺を潅燭寺と名づけたと言われている。
韓国で最も大きな石仏だというが、表情がかわいいしユーモラスな温かさがあるので、拝む人には全く威圧的な印象を感じさせない弥勒さんである。
  

益山(イクサン)の弥勒寺は百済の巨大な国立寺院で、中国にも日本にも例がない三塔三金堂一講堂様式は、百済人の独創性によって造られたのだと思う。
それに熱烈な弥勒信仰と国家の精神的象徴を目指した武王の仏教信仰が結びついたらしい。
背景の山頂を挟んで立っている二本の柱は幢竿支柱(とうかんしちゅう)と呼ばれている。
法会や祈祷の儀式の際に旗を掲げるが、その竿を支えるための柱のことで、実際はそれぞれが東と西にもっと離れて置かれていたはず。
中院の東西に置かれていたと思われる九重の塔は、東のほうだけ復元されて白くそびえている。
 

国立扶餘博物館のパネルで見た大きな石塔は、17年かけての解体・復元作業中だったが、塔の心礎に置かれた金銅製舎利容器と由来を記した金板が見つかった事は大きい。
銘文から塔が建立されたのは639年、更に弥勒寺は国家の寺だったと判明、四隅にある像もその通りだと頷いている。
  

輝きを保ったまま見つかった黄金の舎利容器、現物は別の所で展示中との事で見れなかったが、完全な形で発掘された金色に輝く金銅香炉は展示館に置かれている。
バスで少し先に進んだ所にある王宮里五重塔は、扶餘定林寺跡の五層石塔とよく似た形をしている。
百済第30代武王の離宮だったとか、武王が都を一時期扶餘からこの地に移したのではとか、いろいろの説が言われている。
周囲からは「官宮寺」銘の瓦などが出土しているので、大官寺ではという見方もあるが、いずれにしても発掘中の建物は武王時代の建立だと思う。
  

ホテル到着後に観光パンフレットを見ると、全州は500年の花を咲かせた朝鮮王朝の発祥地だとか、伝統舞踊ハンチュム、そしてパンソリの本場という様なことが一杯載っている。
”700余りの伝統家屋が立ち並ぶ昔からの文化の香りが漂う全州”というキャッチフレーズに誘われ、早速すぐ近くにある全州韓屋村を歩く。
韓屋村で食べた韓定食、スープ湯とチゲに30種類ほどのおかず、食道楽の五感を満足させてくれると共に人の心まで温めてくれるのが売りとなっている。
 

韓国で一番有名な物語「春香伝」のふるさと、南原の広寒楼苑を訪れる。
中に入ると、きれいに整備された公園になっている。
物語の主人公で烈女の鑑とされる春香(チュニャン)を祭っている祠の前に立ち、礼を捧げる。
   

「春香伝」のストーリーは、「・・・妓生の娘、春香と両班の息子、李夢竜は互いに愛し合っていたが、夢竜の父が転勤となり結局2人は離れ離れとなる。
代わりに赴任してきた悪役人に強く迫られ獄にまで入れられたが、春香は必死に貞操を守り続ける。
厳しい科拳の登用試験に合格した夢竜は暗行御史(日本でいう隠密同心?)として南原に潜入し、ついに春香を救い出す。」というもの。
皮肉なことに、赴いた地方官吏の業績を示す沢山の碑が堂々と並んでいる。
 

紅葉の季節はさぞかし美しい渓谷だろうなと思いながら、風光明媚な智異山麓の名刹といわれる雙溪寺(サンゲサ)を目指して、長々とした坂道を登る。
やっとたどり着いた寺の山門が、立派な構えをして訪れる者を迎えてくれる。
 

大雄殿の手前にある石碑は後で知ったのだが、この寺の唯一の国宝「真鑑禅師大空塔碑」で、「韓国四大金石文」の中で最高とされているものらしい。
梵鐘閣の鐘と太鼓はどういう時にどう使われるのか、興味を惹くところではある。
 

露梁津と呼ばれる南海島と半島本土との間の海峡に立ち、ここで行われた朝鮮の役最後の大きな海戦(韓国では露梁大捷と呼ばれている)に思いを馳せる。
順天城守備の小西行長らの撤退を支援するため、海路出撃した島津軍を中心とした日本軍と激しい戦を展開するも、ついに朝鮮・明連合水軍が大勝する。
しかしながら韓国最大の英雄、李舜臣はこの戦いで戦死してしまうという悲劇に見舞われた所でもある。
 

今日は朝一番で釜山市立博物館を訪れる。
統一新羅時代の優れた工芸技法を窺わせる金銅菩薩立像(国宝)をじっと見る。
高さ34cmで当時の金銅菩薩立像としては大きい方らしいが、優美な姿と凛々しい顔立ちには、しばし心を奪われてしまう。
  

真鍮の器を作っている工房の模様を見ていると、主人公イム・サンオクが吐血の思いで修行に励む、ドラマ「商道(サンド)」の1シーンを思い出す。
朝鮮通信使の行列も、当時の模様をリアルに再現してくれている。
楽しかった旅行も今日がとうとう最後、寂しい気持ちを抑えながら、後ろ髪を引かれる思いで博物館を後にする。
 

今回の百済の旅行、終始親切丁寧に解説してくださった李進煕先生、行く先々で適切なアドバイスをしてくれたガイドさん、そしてこのツアーをしっかりと運んでくれた幹事の皆さんには感謝の念で一杯。
「百済の史跡と古寺を巡る旅」<前編>
「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」

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