クラシック 名盤探訪

クラシックの名盤紹介・おすすめ散策コース等、趣味の発信の場です。

とっておきの名盤 その141 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」第3幕第3場

2008年12月27日 | とっておきの名盤「オペラ」
  
もう30年近くも前になると思うが、最初に購入したこの演奏の盤は25cmの東芝赤盤レコードと呼ばれたものだった。
「ジークフリート」の中でも特に素晴らしい場面ということもあるが、とにかく毎日の様に聴きこんだことを思い出す。
盤が擦り切れるほどという言い回しが一番ふさわしいかもしれない。
20世紀最大のワーグナー歌手といわれたフラグスタートの録音の中でも、フルヴェンの「トリスタン」などをさし置いて、とにかく飛びぬけて聴いた一枚だった。
その後CD化されて購入し直したものは、EMIが編集した4枚組みの「指輪」のアルバムの中に組み込まれている。
今となっては古い録音となってしまったが、聴きなおしてみても、フラグスタートの声、その量はもちろん清澄な美しさには驚嘆させられる。
悠揚として迫らざる表現と劇的な場面でのスケールの大きさ、そして舞台での高貴な容姿はニルソンでさえも及ばなかったかも知れない。
ぜひ聴いて欲しいとっておきの一枚で、輸入盤を求めれば必ず手に入ると思う。
「ジークフリート」全曲盤では、カイルベルトの1955年のバイロイトの演奏が素晴らしい。
・キルステン・フラグスタート<S>、セット・スヴァンホルム<T>、ジョルジュ・セバスティアン指揮、フィルハーモニア管弦楽団 <EMI>

フェルメール展

2008年12月21日 | 音楽と絵画、iPodなど
このブログの背景に使わせてもらっているのは、オランダの画家フェルメールの数少ない作品の中でも指折りの傑作とされている「デルフトの眺望」
絵画に詳しいわけではないのだが、何度見ても飽きないし、数ある名画の中でもこれこそが”とっておきの一枚”なのではと思っている。
というわけで12月5日、行こう行こうと思っていた上野、東京都立美術館の「フェルメール展」に遅まきながら足を運んだ。
12月14日で終わりということで、観客も少なくなったのではと思ったらとんでもない、会場は超満員の列で一時間待ちの状態。
あらためて、フェルメールの人気の高さを思い知らされた。

展示された彼の作品を、見た順に並べておく。
左から「マルタとマリアの家のキリスト」、「ディアナとニンフたち」
 

左から「小路」、「ワイングラスを持つ娘」、「リュートを調弦する女」
  

左から「手紙を書く婦人と召使い」、「ヴァージナルの前に座る若い女」
 

ところで、彼の作品の中でもとりわけ素敵な作品「真珠の耳飾りの少女」を外すわけにはいかない。
この作品、当方のリスニングルームの壁に飾ってあり、名盤を聴くたびにいつもその可憐な瞳の輝きに心を惹かれている。


とっておきの名盤 その140 ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱」

2008年12月10日 | とっておきの名盤「交響曲」
  
12月に入って、今年も一度はじっくりと第9に浸りたい時期になってきた。
第9といえばフルトヴェングラーのこの盤、余りにも有名で「今更何で取り上げるの。」と言われるかもしれない。
これまでこのブログに取り上げてきた数々のアルバム、それらは私自身聴いていて心の底から感銘を受けそして愛聴しているもので、単に評論家が特別に推薦しているとか、良く売れているとかというような盤ではない。
その意味でこの第9も、私自身の”とっておきの名盤”として絶対に外すことの出来ないものだし、多くの人にぜひ聴いて欲しい一枚。
フルトヴェングラーの第9のライヴ録音、これまでに12種類も市販されてきたが来年2月には更にもう一種類発売されるという。
ファンの後押しが無ければ、これほどの数の発売は無かったと思うし、フルトヴェングラー自身がどれほどベートーヴェンを崇敬していたかの証だと思う。
私自身は、1951年7月29日にバイロイト音楽祭で演奏されたこの盤で充分満足しきっているので、他のライヴ録音はほとんど聴いていない。
余り無責任なことは言えないが、いわゆるフルトヴェングラー党の一員でもないし、ただただ素晴らしい演奏をという意味で、年末の静かな夜にこの一枚を聴きたいと思っている。
この曲のベスト・ファイブの盤をあげると、
・シュミット・イッセルシュテット指揮、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団 <DECCA>
・フルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団 <EMI>
・チエリビダッケ指揮、ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 <EMI>
・ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団 <CBS>
・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団 <EMI>

「対馬の歴史と朝鮮通信使の足跡を巡る旅」

2008年12月01日 | 歴史・旅(海外)
コース順路:コース満足度★★★★★
<釜山>梵魚寺→ジャカルチ市場→<対馬>大船越(美津島)→万関橋→小船越→梅林寺→円通寺(峰)→韓国展望台(上対馬)→佐須奈の港→対馬野生生物保護センター→天神多久頭魂神社(上県)→海神神社(木坂)→金田城遠望(美津島)→黒瀬観音堂→石屋根(厳原)→歴史民族資料館→長寿院→厳原町資料館→万松院→西山寺→<釜山>子城台→倭館・日本人居留地→龍頭山公園

釜山と対馬の自然、古代の朝鮮と日本の史跡、そして朝鮮通信使の歴史を巡るという中身満載の贅沢な旅に参加する。
「居る所絶島にして、方四百余里ばかり、土地は山険しく森林多く、道路は禽鹿のこみちの如し。千余戸有り、良田無く海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴す。」...「魏志倭人伝」に記述された対馬である。
実際に対馬を訪れその感じを体感したいというのが今回の旅に一番期待したことだが、釜山でのおいしい韓国料理も期待大、胸を弾ませつつ成田から釜山へ旅立った。

最初に訪れたのは、釜山金井山麓にある梵魚寺という由緒あるお寺。
参道を歩き始めるにつれ、周りの山々が紅葉に映えて素晴らしい眺めを見せてくれている。
前を見ると参道の先に山門が見えてきた。
 

一匹の金色の魚が五色の雲に乗って梵天から下りてその中で遊んだといわれ、金色の井戸(金井)という山名と天井の魚が棲んでいたことに因んで、梵天と魚、すなわち「梵魚寺」という寺名がつけられたとのこと。
右下には、紅葉に囲まれた安養庵(祖室棟)が望める。
天安門に安置されている四天王像のユーモラスな表情が面白い。
広目天は塔を、増長天は竜を、時国天は剣を、そして多聞天は琵琶を持って立っている。
   

寺に参入する最初の門(一柱門)を通ると、二重基壇の上に石で造られた統一新羅時代(9世紀頃)の典型的な三重石塔が建っている。
大雄とは真理で衆生の苦痛を救う釈迦を示す言葉らしい。
そして、殿とは「家」という意味になる。
建物の中では、訪れた人々が本尊仏である釈迦如来に熱心に祈りを捧げている。
 

心を洗われた面持ちで寺を下りると、一転してバスは東南アジア最大?の魚市場「ジャカルチ市場」へと向かう。
店頭にはたくさんの魚介類が所狭しと並んでいて、じっくり見ている暇などは全く無い。
 

釜山港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を、その場で味わうというのがこの市場での楽しみらしい。
店先で食べたい魚介類を選び、急ぎ足で二階の食堂へと向かう。
新鮮な刺身を目の前にして、何やら贅沢な気持ちになってしまうが、ついつい食べすぎ飲みすぎになってしまうので気をつけないと。
 

旅は釜山からフエリーで一路対馬へ、大船越を過ぎ次に訪れた万関瀬戸は対馬の交通の要所とされる所。
万関瀬戸は浅茅湾と三浦湾の間に開削された運河で、ここに架かる橋が万関橋。
明治33年(1900)、旧大日本帝国海軍が浅茅湾にある艦船を対馬東方海上に速やかに移動させるために開削し、1905年に起きた日露戦争の日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃したという。
橋からの眺めが素晴らしく、今は対馬の人気観光スポットの一つになっている。
 

小船越と呼ばれる地、日本海側の小船越浦と朝鮮海峡側の深浦の距離は300mほどしかない。
船で往来していた古代の頃、ここは日本海と朝鮮海峡を繋ぐ場所だった。
遣隋使・遣唐使の船が丘を越えて曳かれて行った姿が目に浮かぶ。
梅林寺は、百済の聖明王から欽明天皇に献呈された仏像を仮置きするために建立された日本最古の寺と伝えられている...対馬は古い歴史のある島。
この寺に置かれている誕生仏、予想よりずっと小さい体には短い裳をつけたのみで、右手で天を、左手で地を指している独特の形が印象的だ。
  

東岸の峰町佐賀(さか)は15世紀の宗氏の本拠地とされる所で、応永15年(1408)に宗貞茂が佐賀に居館を構え、貞盛・成職と三代続いたという。
円通寺は当時の宗氏の菩提寺であり、すぐ横に宗氏の墓所とされる中世の宝篋印塔群がある。
 

寺の梵鐘は李朝初期の朝鮮で鋳造されたものとされていて、形状も日本にはない特徴的なものがうかがえる。
円通寺の本尊である薬師如来坐像は13世紀作の高麗仏だが、ふくよかで慈悲に満ちた顔の表情は見るものの気持ちを和らげる。
  

バスは北上しその日は比多勝の国民宿舎、上対馬荘に泊る。
翌朝の朝焼けが何とも言えない色合いで、各部屋のツアーの連中も一斉にベランダに出てこの素晴らしい風景を眺めている。
ぜひ釜山を見ようとバスは一路、韓国展望台へと向かう。
ここから約50Km先には韓国があり、対馬はまさに国境の島。
 

空は晴れていたのに、海の向うは霞がかかっていて残念ながら釜山が見えない。
夜になると、釜山の夜景が特に素晴らしいらしい...何とも残念。
断腸の思いでバスへと引き返す。
佐須奈の港には昭和の終戦まで釜山と結ぶ定期航路があり、佐須奈の町もずいぶん賑やかだったという。
物資や人々の流れはもちろん、対馬住民は買い物や病院通いでも釜山まで気軽に出掛けていたという。
残念ながら、その面影は今は無い。
 

対馬ヤマネコを見ようと野生生物保護センターへと向かう。
期待してセンターを訪れたのだが、ヤマネコの体調が悪く公開は中止とのこと、残念だが諦めざるを得なかった。
対馬ヤマネコのポスターの写真と高麗キジの剥製の展示で我慢するしかない。
今度の旅で一番印象が深かったのが、神社の原形とはまさしくこうだったのだと体で感じさせてくれた天神多久頭魂神社(あまのたくずたまじんじゃ)を訪れたことだった。
  

対馬ガイドブックには、この神社のことを「・・・貞観12年(870)3月5日「日本三大実録」の授位にその記載があり、上県の佐護と下県の豆酸に天道法師伝説の信仰として天神地祇を祀った古い神社で、杜の無い磐座(いわくら)の祭壇で有名・・・」と書いてある。
ご神体は山そのものであり、山の辺の道にある大神神社(おおみわじんじゃ)を訪れた時のあの神聖な気持ちをここでも深く味わったのだった。
 

全国一之宮を訪れようと思っている私にとっては、対馬一之宮である海神神社(わだつみじんじゃ)に来れたのはとても嬉しいことだった。
神社周辺の木坂山(伊豆山)は千古斧を入れない原生林で、境内はかなり広く山全体が御神域とされている。
伊豆山の伊豆とは「稜威」「厳」であり、不浄を許さない聖地を意味するという。
ここにある如来立像は統一新羅(8世紀初め)時代の作で、白鳳仏のような古様を残している。
40cm弱の高さは私には小さいように見えるが、新羅仏としては大型なのだそうだ。
鎌倉・室町時代頃の鬼面や舞楽面が8面ほど展示されており、その表情はとても魁偉なもの。
  

遠くに金田城を望む、この城は朝鮮式山城と呼ばれるもので、逃げ込み城とも云われる。
「日本書紀」に、白村江の戦(663)で敗れた後、天智天皇6年(667)に大和・高安城(奈良県平群町)、讃岐・屋島城(高松市)とともに、この金田城が築かれたとある。
金田城と対岸の入江にある黒瀬観音堂には、新羅仏の如来坐像と菩薩立像が安置されている。
如来坐像は地元では「おんながみさま」と呼ばれ、安産の神様として信仰されている。
仏像の専門家ではないので私感になってしまうが、仏像の種類の中では一番好きな観音様である如来坐像の表情がとても端整で美しいと感ずる。
  

対馬空港へ行く途中の道脇にある石屋根の家を見る。
対馬で産出する「島山石」という板状の石で屋根を葺いた高床式の建物で、穀物を中心とした食糧や日常生活用品を保管するための倉庫として使用されたという。
この朝鮮通信使の碑は場所の記憶が薄れてしまったが、歴史民族資料館の横に建てられていたと思う。
 

朝鮮との交隣に尽くした雨森芳州の墓がある長寿院を訪れる。
雨森芳州は滋賀県の出身、木下順庵の門下生で後に朝鮮との外交官として対馬藩に仕官した人。
「誠信の交わり...互いに欺かず争わず、真実をもって交わり候事」と説く外交哲学は、時を隔てて現代にしてなお光りかがやいている。
彼はこの寺の裏山に静かに眠っている。
  

金沢の前田藩、萩の毛利藩とともに日本三大墓所の一つとされる宗家の菩提寺「万松院」は、宗家20代義成が父義智の冥福を祈って元和元年(1650)に建立したと伝えられている。
門を入ると、諫鼓(かんこ)という見慣れない文字が眼に入る...説明板には「領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓」とある。
そういえば韓国ドラマで、後の世宗大王がまだ子供の時に王である父に諫言しようと太鼓をしきりに打ち鳴らすシーンがあった。
朝鮮と交流していた対馬藩は、いろんな意味で朝鮮王朝の影響を受けていたに違いない。
宗家の墓へと続く参道を、ゆっくりと足を踏みしめて上っていく。
  

大きな杉の木が鬱蒼と散立するなか、宗家代々のお墓がひっそりと佇まっている。
宗家19代宗義智の墓を詣でる、正室のマリアは小西行長の娘、義智は文禄慶長の役や関ヶ原役に出陣、幕府と朝鮮との中に入って国交回復にも尽力したとある。
 

江戸時代に幕府の対朝鮮外交機関が置かれていたという西山寺を訪れる。
豊臣秀吉の無謀な出兵によって最悪の状態に陥っていた日朝関係を修復し、平等な友好関係を維持するの大きな役割を果たしたのが、対馬臨済宗を統括した府中の西山寺の僧だったという。
旅路は釜山へと移り、「子城台」(正式名称「釜山鎮支城」)の石垣を見に行く。
もともと釜山浦には関門ともいえる「釜山鎮」があり、日本軍がそこを陥落した後、毛利輝元がその東南側に支城として築き上げたものが「子城台」とのこと。
 

江戸時代、釜山倭館と呼ばれる地は石垣を廻らせた日本人居留地(倭館)であり、対馬藩の人達だけが交易や朝鮮通信使の接待の為に住んでいたという。
当時の建物の面影を残す屋根が少しだけ残っている。
龍頭山公園のタワーから対馬方面を望むと、何と山の右側に対馬がはっきりと見える。
遠く島が見えると、そこに行きたくなるのが人間の自然な心情というもの。
多くの古代の人々が海をわたって倭の国に渡来した訳が理屈ぬきで良く分かる。
旅の終わりに、こんな感動的な一シーンが待っていたとは!
 

今回の旅で、終始親切丁寧に解説してくださった李進煕先生や行く先々で適切なアドバイスをしてくれたガイドさん、そしてこのツアーをしっかりと運んでくれた幹事の皆さんには、感謝しても仕切れない気持ちでいる。
ツアーに参加した方々も同じ気持ちでいるはずで、私などは次回の旅にもう夢を馳せている。
「全羅南道の歴史と自然、古寺古窯を巡る旅」
「壱岐・対馬の旅」