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流出雑記 

2015/10/31

2015年11月01日 | Weblog

Lumen galleryで伊藤高志映像個展の会期中これまでの作品の連続上映があり、AプロBプロを見ると40年間のほとんどすべての作品を見られるという機会があった。8m、16m、DV、BDの作品、フィルムのものはフィルムでかけられる。なので映写技師を兼ねていたギャラリーの櫻井さんは大変そうだった。

全部通して見て、伊藤さんが映像表現に魅せられた初動、既に撮った過去であるものを自宅の襖に投影したときにカメラ越しに見ていたものが忽然と目の前にあらわれた、という映像のユーレイ的性質を持った再生への感動と、既に終わったもの、動かないものが別の動力を得て甦ってくる不気味さにどの作品も裏打ちされていていることを通底して感じた。

伊藤さんの作品はDVDにもなっているし、それでも見られるのだけど特に初期のフィルムというメディアから引き出された要素の強い作品群はフィルムで見ることがやはり相応しく思う。
後ろの方の席で耳をすますと映写室から映写機の回る音がうっすら聞こえる。フィルムにプリントされているのは連なった小さな写真で、本来動かないはずの1枚1枚の画の連続なのに再生されると『SPACY』のような異次元に引きずり込まれて発狂しそうになる運動を生み出し、見るものは目からそれを体感する。映像が動いて見えることそれ自体は目の錯覚でありながら、でもやはり間違いなく動いているものに見え、実際感覚や感情に作用する。映像は背後の小部屋から送られる光とそれを瞬間瞬間遮る闇と回転の動力で甦生して現在に重なって追い越していく。自分が映像に対して遅いとか早いということはないはずなのに追い越されていく感覚になる。じっとして見ているからか、でも多分そういうことでもない。映像を見ながらそんなことを改めて手に取って考えることはずいぶん久しぶりでもあった。

映画館ではデジタル化が進んでフィルムをかける機会はどんどん減っていると2年前にみなみ会館の吉田さんから聞いたけれど、今はその頃より減っているのだろうか。フィルムでなくてもかまわない映画もあるだろうけれど、フィルムで上映することが相応しい映像作品というのも今回の上映会を見てやはりあるのだと思った。もう記憶の奥底に沈んで見に行ったことすら忘れていたブラッケージのLOVE SONGSをみなみ会館で見た記憶が甦ってきた。
伊藤さんの作品の変遷を辿りながら見ていくと、フィルムでしか表現出来ない視覚世界の構築から始まった強固な構造がひび割れて、中から不穏な気配を帯びた物語が徐々に漏れ出してくるようだった。でもそれはもしかしたら構造のなかに最初から孕まれていた一要素かも知れないとそんなふうにも感じた。
初期作品のような視覚世界を作り出す作家のまなざしの先にある人物たちが簡単に言葉を話さないことはなんとなく理解できるのだけれど、あの人物たちが発語するとしたらどういう発話になるのか見てみたい観客としての欲望も少しある。
伊藤さんの映像作品にこれからどのようなドラマが展開していくのか来年1月の新作を拝見するのが楽しみになった。
今回展示と上映が行われた映像作家の櫻井さんたちが運営されているLumen galleryは元金物屋さんの倉庫の2階で立派な木の梁に支えられた映像上映の他にインスタレーションの展示やものによってはパフォーマンスの上演も可能なスペースで、1階にはカフェがありそこでイベントの後には飲んだり食べたりお話しできる。なかなか見る機会のない個人映像作品を上映する貴重な場でもあるし、いろんな人が行き交うようになったら素敵と思う。http://www.lumen-gallery.com/