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流出雑記 

2015/11/3

2015年11月04日 | Weblog

今日が最後のカントルの上映会。通い詰めて見られるものは全部見た。『今日は私の誕生日』という作品の最終リハーサル後にカントルは倒れそのまま帰らぬ人となったそうで、誕生日を目前にしながらそれを迎えることなく死んで行ったのかと思うと演劇的皮肉のようでありながら、これ以上の出来過ぎもない。この作品でもカントルは舞台上にいるはずだった。亡き後の上演では本人がいるはずだった位置に椅子が置かれている。

舞台上はカントルの部屋を模していて、ベッドや画布の張っていない木枠を立てかけた大きなイーゼルが3つある。木枠のなかには自画像やベラスケスの王女の絵となっている俳優がいて、人物たちは動くし画面から出てくる。ベッドにはこの部屋の住人らしい人物、つまりカントルでもある影のような人が寝たり起きたりしている。床には布に包まれた数人の人らしきものが転がっている。また、他の作品と同様にカントルの記憶のなかの人々、父母や故郷の神父も絵の奥からあらわれ、画面の中に収まったり、画面から大砲と共に人物がはみ出して来て部屋を戦場に塗り替えてしまったり、女中と影が衛生兵に変わったり、その他具体的に誰なのかわからない人物達が画面の奥から溢れては去りまた溢れてくる。

他の作品と比べて人物たちは血の気を帯びて来ているように感じ、硬直したふるまいがそれほど目立たなくなって、人物の行為にも具体的な意志を見て取れる部分が増えていた。ラストに近くなって葬送のシーンがある。木の板が肩に担がれ運ばれてくる。『今日は私の誕生日』というタイトルの着想は、ポーランド前衛芸術家によって結成された「クラクフ グループ」の創設メンバーであるユダヤ系ポーランド人画家のヨナシュ・ステルンのホロコーストから生還したエピソードが元になっているらしい。ゲットーから強制連行され集団処刑の際に地面に転倒し、死体の山のあいだで死者を装い深夜逃走。長い放浪の末命からがらハンガリーに辿り着き九死に一生を得たそうで、それ以来この逃走の日を自ら誕生日として祝っていたという。このヨナシュの役は劇中にも登場していた。ラストは記録映像では映像としてそこでストップさせてエンドロールを流したけれど、全員が出て来てパレードのようになり踊っている最中に流れている音楽がいきなりカットアウトされ、俳優全員ぴたっと止まるという強制的に切断させたような終わり方をした。その幕切れ自体もまるでカントルの急逝ようだったし、死は終わりになって訪れるのではなくて、誰しも途中で迎えるしかないものなのだと思った。長く生きたとか本人のもう十分に関わらず、生の途中でやってくる。

カントルのことはもう少し時間をかけながら考えるけれど、カントルの作品群はひたすら個であることにこだわり抜いた末、必然的に触れてくるものによって劇の時間を立ち上げている。劇中に出てくるどんな人物もオブジェもまっとうにいかがわしくそれ故に誠実。私が見ることができるのは上演の記録でしかないのだけれど、それでも、国や時代背景の異なる2015年の私にもそこに含まれたものを生きたまま受け取ることができ、個人的な生を生きようとする精神や体の置き所、作品の在り方がリアリティを伴ったフィクションとして届いてくる。扱われている内容のことよりも個に端を発する現実から生まれるイリュージョンを溢れさせてはそれが壊れるイリュージョンを重ね転倒させつつ、何よりそこでいつもあらわになる主題であるカントルという人を好きだ。