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流出雑記 

2015/11/9

2015年11月10日 | Weblog

文章を書くことには文体とか言葉の選択、言い回しの工夫というよりは、それを書くことによって何が露出しているかとういうところに重点がある。いま表出とか出現ではなく露出という言い方を選んだそれが最適と思える。おそらく書くこととは、書こうとするそのときに意図するものを既に感覚のなかでは漂わせているのだけれど、それをそのままに変換する言葉というものがあるわけではない。書くことは常にその近似値を探し、連ねて意図の輪郭をあらわそうとする行為であるから、書こうとしたものはいつも言葉の輪郭にふちどられ、その形状の隙間から露出する書けなかったものに支えられた形であると考えるべきだと思うからだ。

言葉をそのように捉えて書かれたもの見ると、書かれたものからいろんなものが透けて見える。そしてそっちに実を見てしまう。そう考えると実像は言葉の影になっているもので、言葉自体は書きたいものの虚像なのだろうか。けれどずっとずっと使って来た言葉はもう体に癒着して単なる記号を使っているのではない親密さに達してしまって疑う余地のないもののような顔もしている。それでもやはり言葉は、一生それを言うことの出来ないものを常に含んで機能している。そういうものとして改めて言葉と接するとき、意思伝達記号の咀嚼の先にその甘みを知るようなところがある。こういう色気のあるものだったのかと言葉と出会いなおせる。それには書くのがいい。言葉はその奥にどうしてもそれ自体さらすことの出来ないものをはらんでいて、けれど可能な限りそれに触れようとする手つきだけが残っていくという質のものだから。書くことで痕跡を見ることが出来る。だから言葉を使う創作、書くことは、読み手が編まれた文章の頁をめくり、読むことで痕跡とその余白から、どのように、何をそこから見ることができるかということの案内と塩梅だと思う。

昨日の深夜まで演劇についての本質的な話しを延々、それもとてもおもしろい話しをたくさん聞いた。4時間くらい寝て起きたら数時間人の言葉を聞き倒したのに思考が整然としていて、むしろ自分のやりたいことの道筋が掃き清められていて不思議に思った。