figromage

流出雑記 

2015/11/14

2015年11月14日 | Weblog

大体週に一度雨が降り、隙間にうまく洗濯をして、一週間後に福井でやる『リアクション』という作品のための稽古の隙間に仕事をしている。

私のことではないんだけれど、予め決まっていたバイトの日程を雇う側の都合で明日は仕事がなくなったと度々休みにされることは、おかしいのではないか。事情があってバイトの雇用形態を選んでいて、自由になる時間を確保しつつ生活する術としてそうしているのであって、雇う側に約束を守る義務は無いのかも知れないが、雇われている方も入りたいときに入れないのでは意味が無い。これは雇われている当人が悪いのではないけれど、実際手を打たなければ生活に響くのだからこのままで良い訳がない。つまり雇われている本人が原因ではない事情でそうなってしまったんだから仕方ないねで収集つかない。言われるがままにしていることも正しくないと感じる。それで困ることが実際起こってくるのだから。

起きたらツイッター、パリの多発テロの情報が流れている。劇場で人質に取られ殺された人もいると流れてくる。100人以上が死んでいる。テレビでその事がろくに報道されていない、日本政府のその事への対応の遅さが避難され、確かにテレビをつけるとNHKの番組の隙間のニュースでツイッターより遅れた内容が伝えられた他は土曜朝のバラエティ番組しかやっていないし、テレビは平穏無事を是が非でも提供しようとする装置に見えてくる。むしろテレビは何が起きても何事もなかったことのようにどうでもいいおしゃべりや賑やかしのなかに不穏な出来事を均してしまい、それを担うことに意地になっているのではないかとも思えてくる。液晶のごとく平らに。もしも私が外国にいて自国での大きなテロや災害があったと知ったときに、そのことを母国語のネット上で受け取れても、その国のメディア、テレビではそれほど伝えられずに、自国と同じ分量で報道されることはないにしても今朝のこのテレビのような状態を目の当たりにしたときに無関心を、温度差を感じずにはいられないだろう。

そんなことを言いながら実際私はパリで起きているテロをどういうふうに受け取っているのかをさっきから自問自答しているけれど、正直な実感として起きていることを思うこと以上にそこに入り込むことができない。知れてしまう状況にある以上は知る、知ろうとする。そしてそれを自分とは関係ないことにはしない、しないでいようとする。実際に自分が受け取れている実感以上の振舞いはしない。そしてそのことについて沈黙するほかないこともひとつの態度として引き受けなければならない。言い換えればあらゆる事柄から無関係には居られないということでもある。ただ出来事を自分の側に引き寄せて、自分を縁取る要素としまうことは浅はかにうつり、どこか正しくないと感じる。その線引きの有無、情報を担おうとするなら相応の覚悟がいる。それを言うことの役割の引き受けを、その必然が起こらない限り、情報を「利用」してはいけないということを特にネット上での自分の振舞いの基礎にしている。それがどういう類いのことであっても。けれど何かが起こる度にそういうことを、それさえ正しいのかどうかを、ものすごく考えさせられる。

今日も予定通りに数時間後、稽古場に行って稽古をする。すべてのことを忘れないで最もすべきことに集中する。それ以上の誠実さが今のところ思い当たらない。