figromage

流出雑記 

2015/11/7

2015年11月08日 | Weblog

昨夜ETVでやっていた『それはホロコーストのリハーサルだった~障害者虐殺70年目の真実』

第一次世界大戦で敗戦したドイツは巨額の賠償金を抱え、国内では不満が高まるなか世界恐慌で追い打ちがかかり、国民の3分の1が仕事を失う事態に陥る。敗戦から積もり積もった負の気分が国に充満し、ドイツ国民のプライドを取り戻そうとする望み、そのような動力を生む人物が要請されたことによってヒトラーが台頭する流れが今ならはっきり見て取れる。子供の頃に見たテレビ番組で「ヒトラーは自殺と見せかけて実は今も生きている」というのをやっていたのを思い出す。その度怖かったけれど、ヒトラーが今も生きていたからといって同じことが起こるわけじゃないよ、とそういうものを見ては眠れなくなっていた当時の私に教えてあげたい。世界史を知らず時代背景を鑑みる視点がなかった頃は、悪の象徴が復活することはそのまま悪の再生と思えた。それにしてもなぜそんな番組をやっていたのだろう。

ドイツ民族の失った誇りを取り戻そうとする熱狂の加速が、優秀な遺伝子のみを残そうというような極に振れて、純化、優性思想を実現する手段に至ってしまう。当時ドイツ中で上映されたプロパガンダ映画では精神病院を撮影し、硬化した表情で何をするでもなく並ぶ彼らのような人々を生かすために国民の税金がどれほど投入されているか、後世に優秀な遺伝子を残していく為には遺伝性の認められる疾患のある者の種を残さないことが必要と吹聴する。そして遺伝性疾患のある者から生殖能力を奪う断種法が制定され、実際施行されていた。
その頃、精神医療の発達で治らないとされていた病気が治るようになってきていた。しかし治る見込みのある患者を受け入れる以前にベッドは根本治療の困難な患者でいっぱいだった。医師たちは治る患者を治したい。しかしそれが潤滑にいかない状況が横たわっていた。そして時代の流れのなか人を「効率的に良く」していこうという正当化によって不治と見なされた患者を安楽死させることが許可される。それはT4作戦と呼ばれた。

ハダマー精神科病院には地下にガス室が今も残っていて、そこではドイツの他の地域の病院から治る見込みがないと判断された精神病者や知的障がい者が毎日バスで送り届けられ、その日の内にガス室に送られていた。バスの窓には目隠しがされていたが、町の人々は満床のはずの病院に人を満載にしたバスが毎日やってきて帰りは空になって戻っていくのを不審に思っていた。
当時を知る人が、病院の煙突から出る黒い煙を毎日のように見ていたと証言する。それはとても嫌なにおいがし、町に戻った帰還兵が戦場と同じにおいがすると言ったという。それで町の人々は病院で何が行われているか推察できたけれど、見て見ぬ振りをしていた。
入院していた家族が殺されると、ある日突然死んだという通知が一通届く。何の前触れもなく突然死ぬことはおかしいと役所に訴えると、そんなことを言いふらすとあなたが危なくなると言い渡される。それでもやはり病者を殺すことは非人道的であると司教がそのことを公の場で訴え、それをきっかけに国民の反感を恐れT4作戦は停止された。
死体の山を組織的に合法的に築くことが可能であること。効率的に人間を整理しようとするような思想は行き過ぎると、その人間には生産性があるか否かという 有用無用の価値判断基準に一元化され、そこからはみ出るもの、それ以外のものを認めるゆとりをなくす。(そういう視点から見れば一億総活躍という言葉も危うい)そういうゆとりのなさは健常とされる人々や家族だって生きている限りその心身は常に損傷する可能性にさらされていて、いつでも選別対象になりうるという想像力の欠如にも繋がっている。
当時精神病院に勤務していた看護師の証言は、バスで到着した患者たちがどうなるかを知っていたけれど看護師は医師の助手でしかなく、またそういう法律があるのだと信じ、ただ使命感を持って仕事をしていただけであり私は生涯において悪いことをしたことはありません、という内容だった。この言葉には確かにそういう実感が伴っていたのだろうと感じられたし、簡単に非難できるものではないと感じる。けれどそう言い切ってしまう看護師の証言は、それを罪と認めてしまえば真っ当に生きたはずの自分の生に大きく支障を来す程のことであると察しているからこその防御のようでもある。

さらに作戦の停止命令が出たあとも薬の過剰投与などによって医師による患者の殺害が続いていたことも明らかになる。
刷り込まれ慣習化されてしまった価値観は急には覆らず、惰性によって患者は処置されていた。
それで延べ20万人が殺され、さらにその後はじはるホロコーストでの600万人の大虐殺にも精神病院で培われた効率よく人を抹殺するノウハウは生かされることになった。

多くの人々のアイデンティティや生活が不安な地盤におかれた状況で生きることに指針や強い牽引力が求められているときに、これが法だと刷り込まれることによって人間を塗りつぶし、主体的に考える余地をなくせば人間はこうも破綻に踏み出すことが出来、望む望まないに関わらず狂った動力に巻き込まれて行くことがあるということに常に目を見開いていなければいけない。