インプロセッションの會 #2
前回は日曜の昼だったが今回は金曜の夜。
参加者は11人。そのうちミュージシャンが3人。前回は音楽をやる人がいなかったのでCDをかけてみたりしたが、出来上がった楽曲をかけてしまうとその音楽が瞬時に空間を占めてしまい、そのうえで踊ることになってしまう。音楽と踊るのは快なのだが、それに頼り過ぎず、まず出来るだけ要素のない所から一歩を出して空間を立ち上げ、場を展開させることが即興の目的のひとつとしてある。
踊るとき、動きに付随して出る音を頼りにすることがよくある。特にセッションを始めるとき、空間に自分の体を置くスペースを、音によって拓こうとする感じ。服の布地と腕、足の裏と畳が擦れる音、そこからリズムを作って体をのせて、それ以外の音も聞きながら動きを展開させていく。
そこへ自分以外の人が入ってくる/自分以外の人を知覚する/自分以外の人が入ってきた状態の空間を知覚する/それまで紡いでいたリズムでないものが体に反映される/相手もそれを知覚する/知覚した相手を知覚する/そのときその関係性は空間にどのように展開されているか/どのようなバランスで/次にどのような要素を加えるべきか/どのようにありたいと望むか/自分以外の人と共有されている場における自己の要求を体に反映させること/
ふと「空気を読む」という言葉がよぎる。即興の場でやっていることは場の「空気を読む」こととも言えると思ったのだが、この言葉にあまりいい印象がない。最近あまり聞かなくなったがKYという言葉をよく耳にした時期があった。KYは「空気が読めない人」。この「空気を読む」やKYには同調せよ、という加圧がある。即興の場で空気を読むことが必要とされるのは同調し凹凸を整えることを目的としていない。そのとき場に起こっていることに同調してもしなくても良いが、知覚を場に対してひらき、そこでこうありたいと思う体に従うこと、その状態で他者と関わること、繰り返すことの出来ない時間を作ると同時に渡ること。
その人しか踊れないダンス、一見ダンスでないようなものも含めて個々の体から立ち上がってきたものを肯定した先にあるものは何か。統率を避けて個々の判断、そこから決定されるフォルム、状態に委ねるということ。そのことにこだわりたいのは何故か。やりながら考えている。
正味2時間半のセッションで、いつも退出時間ぎりぎりに慌てて出ないといけないので、次回からもう少しゆとりをもってやれるように時間をとろうと思う。