例えば今週末、舞台公演を観に行くとする。
土曜か日曜かどちらかの公演を観る。日曜は友人と会う予定があるので土曜にしようと予約を入れる。この時殆どの観客は土曜も日曜も、同じタイトルの公演は大体同じことが為されると思い込んでいるし、演劇であれダンスであれほぼそういうふうに上演される。
最近観たものにそうでない例があった。
『日本国憲法』という演劇作品。
演劇計画2009ノミネート作品で、土日の2回公演。
私が観たのは1回目の公演だった。
しかしこれが今までお金を払って観たものの中で一番酷い代物だった。
『日本国憲法』をテキストとしているのだが、それをどのように聞かせたいのか、どのような時間を造りたいのか全く意図がわからず、ただ散漫な体と声、未完成な状態がさらされ、自分が観客として座っていることに後半耐え難くなるような公演だった。
仕方なく、腹立たしい腹を、つけ麺がおいしい「ろおじ」の本店、「高倉二条」のラーメンで鎮静して帰った。
ところが後日、演劇計画2009の授賞式・公開講評会を聞きに行き、今年度の奨励賞は『日本国憲法』です、と発表されたので驚いた。
表彰が終わり講評の最初に、審査員からことわりがあった。
1回目の公演を観られた方はこの結果に疑問を持たれているかと思います。審査員は全員2回目の公演を観て評価しました。 ということだった。
つまり、1回目と2回目で作品が全くと言って良いほど変化したらしい。
物語の筋をたどる演劇ではなかったし、シーンを入れ替えたり足したり省いたりはある程度できる構造ではあったけれど、一体なにが起きたのか。
変わった方を観ていない者にはどう良くなるのか想像できない。
批評を聞くところによると、1日目と同じく、どうにも観ていられないことをやる役者がいて、そこで為されていることを観る集中力がどんどん削がれ、観客や周りの様子(劇場は外に面するドアがすべて開け放たれていて、観客以外の人が歩いているのが見える)に目が行き、読まれる日本国憲法を耳にしながらふと自分もここにいる人たちも日本国民なのだ、という普段は意識されないことが浮かび上がるような時間だったらしい。その公演では内容と空間とがうまい具合に合致していたようだ。
確かに『日本国憲法』という同じタイトルの上演ではあったが、その内容が毎公演同じでなければならない理由はない。
ただ観客である私が2回ともほぼ同じことが為されると思っていて、だとすれば評価に値しないと見たものへの、予想外の評価に納得出来ないでいた。
審査員は作品を飛躍的に変化させたこと、その可能性も評価する点として挙げていた。
しかし、どうしても作品の出来を偶然性に委ねすぎているのではないかという疑念が残る。
委ねる事が一概に悪い事だとは思わないし、内容を造り込むことで取り落としてしまうものを作品化する、というようなコンセプトを先に提示されているなら観客として納得できるが、そうではないなら無責任ではないか。
舞台芸術のことを「なまもの」とか「一回性の芸術」と呼んだりする。
人が動いたり喋ったりし、それを人が観ることによって作品として成立する。
同じシーンでも日によって動きのタイミングや速度、言葉の強弱が違うことはあるし、客席の顔ぶれも違う。
同じタイトルの公演であっても全く同じ上演は出来ない。
一回性、生きていれば何事においてもそうであり故に意識されないことが常なので、流れ続ける時間の中に、ある密度をもった時間を図として浮かび上がらせるには、準備と仕掛けが必要である。
それを人が行うことによって野放しのまま無意識的な一回性が「一回性」として価値をもつ。
良い舞台というのはこの「再現」と「一回性」が分ち難く結びつき、綱渡りのようなバランスで上演されるものだと思う。
学生の頃、この一回性を舞台に立つ側として強く感じたい欲求を私は持っていた。
どうしても「再現」に縛られる上演にどこか息苦しさを感じ、即興にこだわっていた。それは今思えば作品性以前に、私の体感に固執する我が儘さだったのだが、意識の持ちようとしては一先ず肯定しておく。
なんとなくわだかまりの残る受賞は置いといて、今後彼らがどのような作品を作るかによって、いろいろわかるだろうと思う。
次を観たい。でもそれよりやりたい。
土曜か日曜かどちらかの公演を観る。日曜は友人と会う予定があるので土曜にしようと予約を入れる。この時殆どの観客は土曜も日曜も、同じタイトルの公演は大体同じことが為されると思い込んでいるし、演劇であれダンスであれほぼそういうふうに上演される。
最近観たものにそうでない例があった。
『日本国憲法』という演劇作品。
演劇計画2009ノミネート作品で、土日の2回公演。
私が観たのは1回目の公演だった。
しかしこれが今までお金を払って観たものの中で一番酷い代物だった。
『日本国憲法』をテキストとしているのだが、それをどのように聞かせたいのか、どのような時間を造りたいのか全く意図がわからず、ただ散漫な体と声、未完成な状態がさらされ、自分が観客として座っていることに後半耐え難くなるような公演だった。
仕方なく、腹立たしい腹を、つけ麺がおいしい「ろおじ」の本店、「高倉二条」のラーメンで鎮静して帰った。
ところが後日、演劇計画2009の授賞式・公開講評会を聞きに行き、今年度の奨励賞は『日本国憲法』です、と発表されたので驚いた。
表彰が終わり講評の最初に、審査員からことわりがあった。
1回目の公演を観られた方はこの結果に疑問を持たれているかと思います。審査員は全員2回目の公演を観て評価しました。 ということだった。
つまり、1回目と2回目で作品が全くと言って良いほど変化したらしい。
物語の筋をたどる演劇ではなかったし、シーンを入れ替えたり足したり省いたりはある程度できる構造ではあったけれど、一体なにが起きたのか。
変わった方を観ていない者にはどう良くなるのか想像できない。
批評を聞くところによると、1日目と同じく、どうにも観ていられないことをやる役者がいて、そこで為されていることを観る集中力がどんどん削がれ、観客や周りの様子(劇場は外に面するドアがすべて開け放たれていて、観客以外の人が歩いているのが見える)に目が行き、読まれる日本国憲法を耳にしながらふと自分もここにいる人たちも日本国民なのだ、という普段は意識されないことが浮かび上がるような時間だったらしい。その公演では内容と空間とがうまい具合に合致していたようだ。
確かに『日本国憲法』という同じタイトルの上演ではあったが、その内容が毎公演同じでなければならない理由はない。
ただ観客である私が2回ともほぼ同じことが為されると思っていて、だとすれば評価に値しないと見たものへの、予想外の評価に納得出来ないでいた。
審査員は作品を飛躍的に変化させたこと、その可能性も評価する点として挙げていた。
しかし、どうしても作品の出来を偶然性に委ねすぎているのではないかという疑念が残る。
委ねる事が一概に悪い事だとは思わないし、内容を造り込むことで取り落としてしまうものを作品化する、というようなコンセプトを先に提示されているなら観客として納得できるが、そうではないなら無責任ではないか。
舞台芸術のことを「なまもの」とか「一回性の芸術」と呼んだりする。
人が動いたり喋ったりし、それを人が観ることによって作品として成立する。
同じシーンでも日によって動きのタイミングや速度、言葉の強弱が違うことはあるし、客席の顔ぶれも違う。
同じタイトルの公演であっても全く同じ上演は出来ない。
一回性、生きていれば何事においてもそうであり故に意識されないことが常なので、流れ続ける時間の中に、ある密度をもった時間を図として浮かび上がらせるには、準備と仕掛けが必要である。
それを人が行うことによって野放しのまま無意識的な一回性が「一回性」として価値をもつ。
良い舞台というのはこの「再現」と「一回性」が分ち難く結びつき、綱渡りのようなバランスで上演されるものだと思う。
学生の頃、この一回性を舞台に立つ側として強く感じたい欲求を私は持っていた。
どうしても「再現」に縛られる上演にどこか息苦しさを感じ、即興にこだわっていた。それは今思えば作品性以前に、私の体感に固執する我が儘さだったのだが、意識の持ちようとしては一先ず肯定しておく。
なんとなくわだかまりの残る受賞は置いといて、今後彼らがどのような作品を作るかによって、いろいろわかるだろうと思う。
次を観たい。でもそれよりやりたい。