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流出雑記 

フェイクファーのリアリティ

2008年03月14日 | Weblog
「フェイクの持っているリアリティをつきつめないことには私達がやっている仕事の意味は無い」

湾岸戦争があった頃、環境保護団体の抗議などもあってファッションデザイナー達が毛皮を使う事を自粛した時期があるらしい。
その後フェイクファーが流行り、これはその中で山本耀司が言った言葉だそうだ。

この言葉を読んだ時、舞台でも同じ事が言えると思った。
フェイクファーは、演じる者、また上演そのものの時間、空間のことと置き換えられる。

フェイクの持っているリアリティとは何か。

如何に本物に近いものを作る事が出来るか、という事がある。
忠実に 再現された そっくりの にせもの
にせもの
似せたもの

いくら厳密にやったとしても似せたものであるということはひっくりかえらない。

ではそのどうしてもひっくりかえらないものを抱えたもののリアリティとは何か。

フェイクの持っているリアリティとはそれが「フェイクである」という事。

ただそれはどんつきの結果ではなく始まりであるように思う。

夢から覚めた 更地 

そこからはじまるフェイクは
そのフェイクは何かをひっくりかえしはしないだろうか。

例えば似せるという事でなく、それとは真逆の方向へ進んで行って同じ様相に遭遇してしまうような。
パワーズ・オブ・テン のように顕微鏡で覗き込んで行った細胞と望遠鏡で追って行った宇宙空間が気の遠くなる地点で同じもに見えるというような。
そういう果てでの関係を希望と呼びたくなる。

舞台に置けるフェイクとは既にあるものの型にはめ込んでつくるものではなく、フェイクである事をどう扱うかということに掛かっているように思う。