夕暮れに 金木犀が 枯れており
中村 梅士 Baishi
今朝は雨である。
気温は17.7℃、暖かく感じられる。
あまりにも腹が減ったので、トーストを焼き、生ハム
を乗せてモーニングをしている。
無塩トマトジュースがサラダ代わりである。
昨日は金木犀が気になって、夕方、近所の花を訪ねた。
すると、残り香も少なく、ほとんどの花が枯れていた。
紫モクレン、フデリンドウ、菖蒲、ウバユリなど、季
節の花を見過ごしてしまった。
今年は季節の読みが難しかった。
仕事に集中していたからかもしれない。
季節は巡るが、季節は一期一会でもある。
今週は、土曜日を休講にしたから、山歩きをしたい。
どんな植物に出会えるかが楽しみなのである。
真弓の実もパステルピンクに染まっているかもしれな
い。
さて、もうひと頑張りするとしよう。
そういえば、幸福の科学映画『世界から希望が消えた
なら』が上映中だが、中洲太陽劇場の上映回数が少ない
ために時間調整が難しい。
映画館も、もう少し稼働すればよいものを。
廃線に追い込まれるローカル線のようではないか。
早々に、DVD発売に踏み切ってほしいものである。
新聞、映画館の大衆メディアの時代は終わっているの
ではないのか。
イラン三大指導者の霊言『イランの反論』は、トラン
プ大統領も熟読すべき重要なメッセージのようである。
幸福の科学がイスラム教、神道、キリスト教、仏教の
実体としてのルーツでもあることを考えると、地球神エ
ル・カンターレの権威のほどが分かるような気がする。
なんとも人類の軽薄なことよとも思う。
人間を食いたいとは思わないからレプタリアンではな
いだろうが、食いたいと思うのは、まだ食物としての信
頼と好意があるからだろう。
その点、性善説である。
しかし、穢くて食えな人間が多いと思う。
まさしく、食えない人間が多い。
神の慈悲とは、人間一人一人の仏性へのゆるぎない信
頼であろう。
感情とは自我意識から出ていることを考えると、慈悲
とは、もはや感情ではあるまい。
神の法則であり、神そのものであろう。
神と共になければ、慈悲の心は到底理解できないもの
である。
慈悲とは、北極星のようなものであろう。
今の自分には、信仰薄き日本人に対する「アラーの大
警告」の方を選びたくなる。
サウジアラビア王国の滅亡と、イランの復活を祈りた
い。
ナンチャイナ、ナンダコリアの滅亡と、東南アジア諸
国の復活を祈りたい。
神の慈悲とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しではな
いのだろうか。
人の愚かな感情の揺らぎのせいである。
止水明鏡の悟りも、一石が投じられると波立つものだ。
それを速やかに鎮めるのが悟りの境地である。
諸行無常の中で問われる信仰の極致であろう。
八正道の修行をあきらめてはならない。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party