初梅や 花を肴に 酒を買い
梅士 Baishi
今朝の気温は10時を過ぎても5℃と冷たい。
太宰府の飛び梅が咲いたというニュースを聞いてい、
近くの公園に出かけると、そこにも二つ、初白梅が咲い
ていた。
毎年の楽しみな発見である。
窓の外には毎日、たくさんの雀やメジロが入り乱れて
みかんを食べに来る。
真冬にもみかんや蜂蜜に恵まれて、生き生きとしてい
る。
ときどき、ちょっとした争いごともあるが、遊びのよ
うでもあり、穢れがない。
眺めている間、鳥たちの幸せが自分の幸せな一時にな
る。
また、蜜柑を仕入れるとしよう。
梅が満開になる頃には、メジロも忙しく、姿を見せな
くなる。
あと、みかん20kgのお付き合いになりそうである。
今年のみかんは、熊本蜜柑のお世話になった。
みずみずしく、おいしかった。
『キリストの幸福論』という、イエス・キリストの霊
Interviewを読んだ。
昨年、八月頃に出版公開されたものである。
非公開霊言として、三年前ほどに収録された最新の聖
書というべきものである。
かつて、『復活の時は今』というキリストの霊言とい
うべき講演があった。
その時にも、感じたものであるが、キリストの霊言に
はいつも圧倒的な荘厳さがある。
その言魂の前に、深い洞察が始まる。
『キリストの幸福論』も続けて三回読んだが、己の信
仰の軽薄さは分かる。
自分も比較的この世離れしたところがあるが、純粋な
信仰と言うには及ばない。
周りの無能で世俗的な人間への嫌悪感が募る。
汝の敵を愛せよとはどういうことなのだろうか。
ただ、裁くな、失望しないで働きかけ続けよというこ
とだろうか。
信仰とは何なのだろうと思う。
この世の存在は何のためにあるのかと戸惑ってしまう。
「あの世とこの世を貫く幸福」という教えがあるが、
この世あってこそのあの世なのではないかと思うことが
ある。
純粋な信仰とは何なのだろう。
清らかな魂とは何なのだろう。
教育現場の堕落、国際政治の混迷を見るにつけ、怒り
や嫌悪感が先行する。
世俗化してはならないといわれる。
世俗化とは、結局、唯物論であり、私有する欲なので
あろう。
迷いも苦しみも、そこから生まれている。
世俗に負けないためには、圧倒的な力を持つことが必
要である。
圧倒的でなければ、自分が世俗化するか、敗北するこ
とになるだろう。
神の言葉は、今、幸福の科学から発されているが、そ
れを理解することはできないのだろう。
真理は人知を越えている。
結局は、政治も経済も、教育も職業も、唯物論との戦
いがあるが、人事を尽くすということ以外に重要なこと
もないのであろう。
結果、世俗が勝利しようと、日本が滅亡しようと、そ
の結果は大した問題ではないということである。
しからば、正論をもって生きるほかあるまい。
唯物論勢力に妥協するわけにはゆくまい。
安易に、世俗の勢力の支配を許すわけにはゆくまい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党