花解けの 花の飛沫の 枝垂れたり
梅士 Baishi
今日の日曜日は引きこもりだった。
有給休暇の消化時期に入って、自由時間が増えた
はずなのに、自由の攻略に苦慮しているからである。
自由というのは自分で道をつけなければならない
のだが、これからの十五年計画が、まだ抽象論に終
わっているのである。
これから高齢期に入るにあたって、最後の仕上げ
をどうするかは自分だけの問題ではない。
因みに、日本人の健康寿命は男が71歳、女が74
歳ほどである。
これに対して、平均寿命は、男が80歳、女が86歳
だから、男で9年、女で12年、死ぬまで要介護状態で
過ごさなければならない計算である。
痴呆、寝たきりでは本人も家族も介護士も、地獄を
見ることになる。
こうした寝たきり問題を抱えているのは日本だけで
あって、アメリカではその五分の一にすぎない。
長生きすればよいというものではないし、死ぬまで
仕事をするのが当たり前というのがいいらしい。
だから、死ぬまで仕事をするシステムを作ることは、
大切なビジネスだといえる。
高度経済成長期には、重厚長大から自動車や家
電まで工場労働者が求められ、総サラリーマン化の
時代だった。
労働時間がきっちり管理され、毎日同じ作業の繰り
返しというのが労働だった。
今はサラリーマンと言っても知的労働ないし、クリエ
イティブな仕事にサラリーが支払われるようになったが、
自営業のように自分が稼いでいるという実感はない。
つまり、組織の仕事に乗っかっている。
こうした仕組みからの脱藩が求められている時代な
のではないかと思える。
新しいことを始めると、失敗のリスクが大きい。
そこをあえてチャレンジすることを自由という。
リスクがなければ、自由ではない。
こうしたチャレンジに向いているのが、女性と終活
高齢者である。
さて、日本ではスポーツと体罰の関係が問題になっ
ている。
選手の主体性ではなく、強制による支配と服従が
体育訓練なのである。
いわば、軍事教練の伝統が戦後にも引き継がれて
いる。
しかし、スポーツの面白さは、自由にある。
恥をかくリスク、負けるリスクに立ち向かう面白さで
ある。
その点、高校野球などはスポーツではない。
監督のスポーツなのかもしれないが、選手のスポー
ツではない。
選手が背負っているのは命令違反の責任である。
想い出したように、『カントなら現代の難問にどんな
答えを出すのか』を手に取ってみた。
小保方晴子の研究と社会的地位が、マスコミによっ
て潰された、いわば現代の魔女裁判についての見解
は興味深かった。
昔にも魔女狩り裁判はあったが例外的だったという。
しかし、現代はそれがマスコミによって日常茶飯事
に行われていることを、小保方はまだよくわかってい
ないのだという。
つまり、マスコミによるいじめ社会を理解せず、危機
管理が甘かったのだと。
マスコミほどおぞましい人種はいない、ということで
もある。
小保方晴子を泥棒呼ばわりにした本を出版した毎
日新聞の女記者がいたが、現代のマスコミに巣食う
悪魔というべきだろう。
マスコミの嫉妬体質が自由のリスクというのが日本
社会の特質だと見抜かれていた。
マスコミやライバルに気づかれないように、静かに
遠くまで行くということが成功の条件である。
終活ではそれほど気にすることでもあるまいが。
日本独立宣言・九州本部・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党