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カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

先週の読書

2009年01月26日 15時05分28秒 | 読書

 中沢新一「神の発明」     講談社選書
 スピリットから一神教が生まれる、その現場に立ち会える良書。
 国家を作る、王を作る要素をそろえながら国家を作らなかった人たち。一神教の要素をすべて持ちながら一神教に進まなかった人たち。この2つがパラレルな関係にあることをこの本は示している。
 一神教というとわれわれのイメージはユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教であろう。この中でキリスト教だけ異色の存在である(ここで言うキリスト教はアタナシウス派のこと。アリウス派は別)。キリスト教は唯一神信仰でありながら、そこに3つの位格を見出すという、一見ちょっとわけのわからない形態だ。
 そこに意味があるのだとこの本は指摘する。キリスト教はスピリットの持つ増殖性をベースに近代資本主義社会を用意したのだと(これは5巻の内容か)。
 それとともにぼくが興味を持ったのは、御嶽に関する記述。
「「御嶽の神」をお祀りするのが、女性だけの集団であるというのも、ひょっとするとこの神のもつトーラス構造と関係があるのかもしれません。このトーラスの中心をなす空洞は、ことばによって表現不能な「超越性」をあらわしていますが、これは女性という存在がことばの象徴秩序にはおさまりきらない不確定な霊性を抱えた、とてもデリケートな生き物であることと関係があるかもしれません。
つまり、中心に空虚を抱えた「高神」と、知性によるのではないやり方で交信をおこなう資格のある生き物は、その神と同じように、心の真ん中にぽっかりと開いた空虚を抱えた女性でなければならないのではないかということなのです」
 性と聖と芸能が未分化だった頃、遊女は差別されるものではなく、長者と呼ばれる女性がそのとりまとめを行っていた。「もののけ姫」におけるエボシの役割とも言える。やがて彼女は男にとって代わられることになるだろう。人間と自然との対立なんていう単純な図式からはあの映画のエッセンスがぼろぼろこぼれてしまう。



 吉田修一「悪人」     朝日新聞社
 やられた。
 読了後、ほろっときちまったじゃんか。絶望的な逃避行の美しさ。どうしようもない淋しさ。愛する娘を二度失った父親の悲しさ。いやはや、どうにもこうにも。
 そうかあ、悪人かあ。なんて優しいんだよ、おい。


日高 恒太郎「オウムの黙示録―新興宗教はなぜ流行るか」
 画像なし、スマソ。
 新興宗教ってちょっと好き。入ろうとは絶対に思わないけれど、そのインチキなところに興味津々。「心のエンターテイメント」なんだからお金を出すのは当然だという理屈で宗教という巨大な集金システムが出来上がってるとしたら、そんなものに救いなどないはずだ。その本質を、儀式やわけのわかんないオカルトティックな教義など巧妙な目くらましで隠し、優遇された税制を最大限に利用し、巨大な施設を建設する。
 だいたい町を歩いていて、今時、こんなばかげた建物誰が建てたんだろうと不思議に思うと、それはたいてい宗教か行政。どちらも人の金だからどうでもいいやって感じがプンプンする。
 そうした宗教団体の内幕を描いた本書は、その後オウムの事件を経てオウムの部分を追加して再販されたもの。宗教と悪徳商法の発想って実に広告代理店っぽいんだな、としみじみ思った。欲望をあおってるんだよね、どっちも。そして広告代理店とは欲望をあおるプロ、発想が似ているのも当たり前だ。
 ぼくは思うんだけれど、新興宗教と資本主義とはその原動力を一にしているんじゃないだろうか。今の自分に不満がある。それを変えるために宗教的なもの(自己啓発セミナーも含みます)にすがる。今持っているものに不満がある。それを変えるためにモノを買う。みんなが今の自分に満足し、今持っている物に満足して生活するようになると、宗教も資本主義も立ちゆかなくなるだろう。現状の自分と自分を取り巻く物に満足することは、実にエコ。
 「我々のもっとも誇りたいものは、我々の持っていないものだけである」(芥川龍之介「河童」)
 ま、ぼくのような欲しがりくんが言っても説得力ないんだけどさ。



 爆笑問題「爆笑問題の戦争論」       幻冬舎
 これは「戦争論」というものではない。日清戦争から第二次世界大戦までの歴史を田中が淡々と語り、そこに歴史とは無関係に太田がぼける。中学生のための日本近代史的なもの。したがってこの中に太田の主張などはほとんど見ることはできない。

田中:当時日本では尋常小学校の修身書などで、銃弾に倒れながらも進軍ラッパを吹き続けたという、木口小平二等兵の「死んでもラッパを離しませんでした」という話が美談として載った。
太田:葬式の時もプープー鳴ってたらしいな。
田中:怖いだろそんなの!

 こういう具合である。
 南京大虐殺については「被虐殺者の数については、中国政府の発表が43万人。日本国内では十数万から20万人前後とする説、4~5万人とする説、1万人前後とする説、事件そのものの虚構説など、諸説ある」といろんなところに気配った説明。「戦争論」のタイトルはちょっとな。
 ただそこに載っていた資料に日清戦争での戦死者数に驚いた。日本の戦死者は11587人なのだが、戦闘死者数はたったの1401人。あとは病死。つまり戦死者の9割近い人が病気で亡くなっているのだ。ずいぶんっちゃずいぶんな話だ。

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