何かを好きだと言うことと何かを嫌いだと言うこととでは、圧倒的に後者の発言の方が敵を作りやすい。争いを好まない人間であるぼくは、あまり「~が嫌い」という発言はしないよう心がけているのだが、テレヴィに出てくるスピリチュアルだとかなんだかわけのわかんないこと言ったりするやつや、上からものを言う占い師みたいなやつは嫌いだ、とこの際はっきり言ってしまう。
いかがわしいとさえ思う。
たとえば、先祖を大事に思うことは大切な気持ちだと思うのだが、供養はこうしなさい、ああしなさい、このお札を納めなさい、この仏壇を買いなさい、供養のために10万払ってセミナーに入りなさい、などと指図するヤツは嫌いだ。
スピリチュアルなものを否定するわけではないが、それを食い物にするヤツが嫌いなのだ。
スピリチュアルなものを求める旅は、その一方でスピリチュアルなものって何だ、という問いかけの旅に等しい。
スピリチュアルなものって、なに?
目に見えないもの。
目に見えないんなら空気だって見えないじゃん。
物質じゃないもの。
光だって物質じゃない(物質の側面もあるが)。
たとえば、幽霊っていると思う? と聞かれれば、ぼくはいると答える。じゃあ、心霊写真を見てどう思う? と聞かれれば、ぼくはインチキっぽいと答える。
幽霊も神も妖怪も、すべて人間の誕生とともに誕生したと思うのだ(これは松井教授の言う人間中心主義とは少し違う)。
人間の定義そのものに幽霊や神がすでに含まれているのだと思っている。妖怪も幽霊も人のいないところにはいない。その意味で口裂け女が都市における妖怪であることが興味深い。都市化はずっと進んでいたが、われわれが小学校生活を送った昭和30・40年代に、妖怪は地方から都市へと住まいを変えたのだ。その頃、人はキツネに騙されなくなり、かつて生活の基盤だった民俗社会は終焉を迎え、都市文明が日本のすみずみまで押し寄せようとしていた。口裂け女の登場は、都市が民俗と化したことの証だ。
人間が人間として存在するその基底部分に神や幽霊や妖怪や、そのほか要するにスピリチュアルなものが存在する。人間を人間たらしめているもの、それがぼくのスピリチュアルなものへの定義だ(これはまたフェティシズムと同じ側面を持っているが、それはまた後日)。
石を削ったものを見て感動したり、いや、それどころかただの岩を見て感動したりできるのが人間なのである。
話の持って行き方が強引なのだが、そんなわけでぼくは特急でも急行でもない電車に乗って石を見に行ったのだ。