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ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ/目玉の話」

2008年04月18日 13時55分41秒 | 読書
ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ/目玉の話」中条省平訳  光文社古典新訳文庫


 素晴らしい翻訳。
 しかし、この読みやすい日本語でバタイユと初めて接する人は要注意だ。日本語は読みやすいが、バタイユは読みやすくない。この読みやすい日本語の罠にはまって「マダム・エドワルダ」を小説、それもポルノ小説だと思って読むと、期待はずれな結果に終わるだろう。アロイジウス・ベルトランの「夜のガスパール」を読むときと同じ姿勢で、つまり、これは散文ではあるが、小説ではなく、詩なのだと思って読むと、本も読者もお互い幸せな関係を持てるかもしれない。
 散文詩なのだからストーリーは別にどうでもいい。あえて言えば、売春宿で出会った娼婦と夜の街をさまよって、タクシーに乗って、タクシー運転手も交えてどうのこうの、というストーリーになる。ストーリーになるが、ならなくてもいいのである。

「私の不安がついに絶対の至高者となった。死んだ私の至高性は街をさまよう。
 とらえがたい―――至高性は、墓の沈黙に包まれ―――恐るべきものを待ちつつ身をひそめ―――しかし、その悲しみはすべてをせせら笑う」

 この本に接する際、この文章をどういうものか考えるか、単にすけべの言い訳に小難しいことならべやがって、と考えるか、読者の態度によってこの本が表す姿は一様ではない。
 この本を読んでいて、強く思ったのはモーリス・ブランショとマルグリット・デュラスのことだった。この二人の小説。不在という中心。彼らの小説に共通する小説的レアリテは、不在という中心に照らされたレアリテであり、われわれの考える現実を真裏にひっくり返したものなのである。中心が不在であり、存在はその不在によって露わになるという概念が「マダム・エドワルダ」にも貫かれている。

「彼女は黒く、なんの飾り気もなく、穴のように不安をかきたてた。笑ってはいなかったし、それどころか、彼女を覆う衣の下に、もはや彼女が存在しないことさえ私ははっきりと悟ったのだ。そのとき―――私のなかの酔いは完全に醒めはてて―――「彼女」が嘘をついていなかったこと、「彼女」が神であることを知った。彼女の存在は石のように理解できない単純さをもっていた。街の真っ只中にいながら、私は自分が山のなかで夜と化し、生命のない孤独に包まれている気がした」(「マダム・エドワルダ」)

「そして、女が立ちどまったとき、どんな笑いともかけ離れた彼方で、彼女がいわば不在のなかで宙吊りになると分かっていたのだ。もう彼女のすがたは見えなかった。死の暗闇が円天井から落ちている。まったく思ってもみなかったことなのに、断末魔の時が始まっていることを私は「知っていた」。私は苦しみを受けいれ、苦しみたいと思い、もっと先まで行きたい、うち殺されてもいいから、「空虚」のなかにまで行きたいと願った。私は知っていた、知りたかった、彼女の秘密を知りたいとじりじりしながら、彼女のなかで死が猛威をふるっていることを一瞬たりとも疑わなかった」(「マダム・エドワルダ」)


 愛の対象に彼が感じるものは、不在や死、空虚や穴なのだ。
 エドワルダという愛の対象に接すれば接するほど、彼女の中にある死や空虚に近づいていく。存在が不在によって露わになるように、彼の逆説は、つまり、生は死によってしか意味を持ち得ないことにある。ここに彼のエロティシズム論があるのだ。
 この小説を読む上で、エドワルダに対する代名詞の使い分けに注意するとより面白く読めるはずだ。「エドワルダ」なのか、「女」なのか、「彼女」なのか。

 「マダム・エドワルダ」がほとんど散文詩なのに対して、同じ文庫本に所収の「目玉の話」の方がより小説らしいといやあ小説らしい。
 この話の中で主人公たちを興奮させるエロティックなことは、決して「ベッドのなかで、家庭の主婦みたいにやるなんて」ことじゃない。

「私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです」(「目玉の話」)
「私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです………」(「目玉の話」)


 宇宙を汚すだなんて、アモラルな話だと憤慨してはいけない。汚らわしいものや放蕩によって宇宙を汚したいということは、逆に、それらによって宇宙と触れ合うことができるということなのだ。コスモスから切り離された人間という存在が、放蕩の果てに再びコスモスにまみえることができる(D.H.ロレンスの言うコスモスを思い起こしていただければ幸いです)。
 主人公たちが魅了される放蕩や快楽とは、向こう側に宇宙を感じることができる放蕩であったり、快楽であったりするわけで、決して性欲がどうのこうのという話ではないのである。
 彼らの放蕩や快楽のキーは「汚れ」(「汚らわしい」という用法からして、訳者はこれを「けがれ」と読ませたいのだろう)だ。「汚れ」は、二つの世界にまたがる両義性や、日常を脅かす力を持っている。
 バタイユの言うエロティシズムや「汚れ」は、生と死、分断された宇宙の連続性の復活に密接に関わっているのだ。

 P.S.「目玉の話」というタイトルも訳者あとがきにいろいろあったが、有効だと思う。
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